イタリア・ロマーノは日本という人間が苦手だった。この場合「国」を「人間」と評していいものかにはいささかの疑問があるが、ある人格を取り出して、それを「人」と指すとすれば、イタリア・ロマーノは日本が苦手だった。あるいは憎んでいたと言ってもいい。その憎しみは何年かに一度しか訪れないものであったが、それだけにその突発的な憎しみは激しいものだった。コントロール出来ない物ではあったが、いつでも予兆は感じ取れた。大体において世界会議に行った後の弟の様子がおかしくなる。それから数日後に玄関のチャイムが鳴って、何を考えているのかわからない日本の、これまたうさんくさい笑顔があるのだった。その時に初めてロマーノを襲う感情がある。ロマーノはそれを憎しみだと思っている。怒りだと思い、それを正当なものだと決めつけている。 だが玄関でロマーノの不機嫌な顔を見ながら日本はただ鷹揚に笑っている。 * 半分は本当で、半分は嘘だ。日本は布団の中から這い出せない自分に自嘲気味にそう思った。初夏の頃だった。庭から差し込む光が大分傾いているので、昼も随分と過ぎた頃なのだろう。日本は布団の中で前回の世界会議からどれだけたったのかを指折り数えた。ひぃふぅみぃ、よ、いつ、むぅ。なるほどもうすぐ一週間だった。 布団の中から腕をあげると、陽の光が手のひらを横切った。自分の手は生白く、もう柔らかかった。ところどころにペンだこがあって、それ以外はもうなにもなかった。 昔は、と日本は考える。だがそれが日本とってどれくらい昔でそしていつのことなのかも判然としなかった。自分を中心に世界がぐるりと歪んでいた。初夏だ、と日本は思うし、確か居間のカレンダーも五月のものであるはずだったが、庭の桜が散る様が見える気がした。 「花びら」 花びらが縁側が吹き込んできていた。薄赤い色をしている。桜とは本来こんなに赤かっただろうか。いや、それよりも、こんな時期に桜は咲かないのに。 「昔はもっと手のひら固かったんですけどねぇ」 「なんの話あるか」 突然部屋の中に現れた中国に日本はびくりと肩をすくませた。気配がまったくしなかったからだ。だが日本はなんともないような顔をして、おや、と呟いた。 「中国さん、いつからそこに」 「お前が寝ている間からある。日本が部屋から出てこないって聞いたからきたあるよ」 お節介ですねぇ、と日本が言うと、兄なんだから当然あると中国は胸を張っていった。だがそれきり何をするでもなく日本が寝ている布団の傍で座り続けている。 「犬もうるさいあるし」 「いぬ?」 「お前が飼ってる犬あるよ」 わん、と中国が言った途端に庭から犬の声がした。それと同時に本当に唐突に日本は自分が飼っていた犬のことを思い出した。 「ああ、ぽちくんですね」 わん、ともう一度犬が鳴いた。だが日本は起き上がらなかった。中国も微動だにしないで、畳の上に座っている。中国の頬や髪に桜の花びらがふわりと当たっては落ちていく。いずれ部屋が埋まってしまいそうな勢いの花びらの量だ。 「で、昔手のひらが固かったって?」 中国が聞くのに、日本はきょとんとしてから、まぁそうですと呟いた。 「剣だこですかね。昔はよく使ってましたから。最近はとんと使ってませんから手のひらも柔らかくなりました」 そうあるか、といって中国は日本の手をとった。中国の指は冷たいと日本は思う。桜の花びらはいよいよ量をまして、喉にも張り付きそうだった。 「ほんとうあるね。こんなにやわらかいとむかし」 中国の言葉に日本は微笑む。そして布団から半身を引っ張り出して、自分の手のひらで中国の頬を撫でた。冷たい頬だった。 「貴方を殺そうとしたのが、嘘みたいでしょう?」 言うと、中国は笑った。ゆっくりと目が細くなり、口角があがる。一番最初に漢字を教えて、そしてそれを書いて見せた時この人はこんな笑顔をしたような気がすると日本は思った。 「あの時の私の手のひらは本当に固くて、そしてそれ以上に、本気だったのですよ」 しかしそれは昔のことで日本にはよく思い出せない。ぐっと中国の頬に置いた手のひらに体重をかけるとするんと中国の身体を透き徹って手のひらが畳についた。幻覚だ。日本は畳の上にある手を持ち上げて、もう一度見直した。 「貴方が兄と私に名乗るはずがない」 もう今や。 桜の花びらが部屋を埋める。薄赤い色をしている。昔の桜の色をしている。そうだ、昔桜の花はこれほどに濃い色をして春の薄い空の中でひらひらと舞っていた。日本は半身を起こしたまま、布団ごと自分の膝をぎゅっと引き寄せる。 「異人さんなんて嫌いです」 日本は呟く。 「嘘です、尊敬しています、ありがとうございます」 日本は呟く。 「舶来品、の、輝かしさといったら」 日本は呟く。 「ドイツさん」 わん、と犬が鳴く。日本は一度ゆっくりと瞼を閉じた。それから開くとそこはもう何でもない畳敷きの部屋に戻っていた。陽の光が斜めに差している。もう昼を大分過ぎているのだろう。布団の中に居る自分以外に人もいない。桜の花びらも舞ってなどいないし、庭では犬がかけている。初夏の日差しが眩しい。 「行かないと」 半分嘘で、半分本当だ。日本そう自嘲した。ようやく布団から己を引きはがして、イタリアへ行く為の準備をし始める。 * ヴェネチアーノの部屋に彼自身がいることはそう多くない。大体は面白くもない、むしろその訓練から逃げ出すこと自体が訓練になっているのではないかと思われるようなつまらない訓練に行っているか、あのジャガイモ野郎の家にいるのかのどちらかだ。ちょっと前は仕事まで世話になっていたようだから、大分ヴェネチアーノはドイツになついているのだろう。 だがその日は珍しく、ヴェネチアーノは部屋にいた。シエスタの為にかかっているカーテンは青い色をしている。光を透かして海の中のように見えるんだとヴェネチアーノは夢見がちに行っていたけれど、ロマーノにしてみればこんなのは光にただ色がついただけとしか思えない。夢がないねぇ、兄ちゃんは、と笑うヴェネチアーノにこそ、お前は何の夢が見たいのだと返したい気分になる。 「兄ちゃん、珍しいね、こんな時間に」 扉を開けた音でこちらに気づいたのだろうヴェネチアーノが、ロマーノの顔を見た。 「お前こそ、こんな時間に家にいるなんて珍しいじゃねぇか」 ついでに起きているのも、と思ったが言わずにおいた。ヴェネチアーノが本を開いていたからだ。電気もつけないでカーテンに透かされた光だけで染まる室内を見渡すと、なるほど現実感はなかった。 「うん、ちょっとね」 本を、とヴェネチアーノは良いながらふっと目を細めた。何もかもが青く染まっている室内ではヴェネチアーノの瞳が何色かもロマーノにはわからない。ただ彼の瞳がどんどんと透明度を増していくのが分かるだけだ。ロマーノはヴェネチアーノのそういう雰囲気が好きではなかった。優しげでまるで全てを許しているようだ。現実無いものを見て、求めて、そして全てを受け入れる。 「あの子はね」 兄ちゃん、とヴェネチアーノは体育座りのような格好でベッドの上に座り、膝の上に本を置きながらしゃべり出した。 「不器用で、でもとっても優しかったんだ」 それはおそらく弟がオーストリアにいた頃の記憶なのだろう。その頃ロマーノはスペインの所にいた。だから弟の言う「あの子」とも会話はしたことがない。見たことはあったかも知れないが、姿など遠い記憶の彼方だ。 「一緒に絵を描いたりしてね」 ヴェネチアーノの指が本の記述をなぞる。一六一八年、三十年戦争。一六四八年ウェストファリア条約。 「あの子が出て行ってしまう日には、俺泣いたなぁ」 イタリアが懐かしく、くすぐったい思い出を思い出すように喋る。まるでそれそのものが幸福であるように。 「でも絶対帰ってきてくれるって約束をしたから、俺待ってることにしたんだ」 ヴェネチアーノはそういう。俺にはまだ力がなかったし、そうだね、一緒に行く決意はできなかったから。ヴェネチアーノの言葉はまるで水のようにさりげなく優しい。窓を開け放してあるのか風に吹かれて青色のカーテンがゆらりと揺れていた。その度に光も、ヴェネチアーノの顔をゆるりと横切っている。 「俺はその約束を信じて待って、待って、待って、そして泣いて」 ヴェネチアーノの指が本の記述をなぞる。一七八九年フランス革命。一八〇六年ナポレオンのドイツ征服完了。神聖ローマ帝国の終焉。 国の死をロマーノは見たことがない。せいぜい弱っているスペインを看病したくらいだ。それはおそらくこの弟も同じで、きっとそれを後悔しているのだ。 「戦って、今度こそついていこうと思ったんだ」 思っているんだと重ねて言われた。ヴェネチアーノの指先は一八〇六年でとまっている。神聖ローマの終焉。 「ねぇ、兄ちゃん」 海のような部屋でヴェネチアーノは幸福そうにいった。 「あの子は本当に不器用でやさしいんだ、今でも」 ロマーノは突然、弟が恐ろしくなった。彼が何を考えているか手に取るようにわかるから恐ろしい。それでお前はドイツへと行くのか。かつてあの子供の土地だった場所へと。 そんなことを考えていると、ヴェネチアーノが笑ってシエスターとのんびりしゃべった。 「もう、俺眠くなっちゃった。兄ちゃんも寝るでしょ?」 そこにはもういつものヴェネチアーノがいるだけだった。能天気で、絵と貿易が得意で、すぐに泣いて騒ぐ陽気なイタリア。ロマーノは少し悔しくなって、イタリアの額を指ではじいた。けれどイタリアはあっという間に眠りについていて、そんなことでは目を覚まさなかった。 * イタリアの家には大きなアトリエがある。湖に面したそこは、太陽の光を存分に浴びることの出来るサンルームにもなっている。フローリングの床と、真っ白な漆喰の壁、取り付けてある大きな窓からは湖が一望できる。その向こうのうっそうと茂った森や、広がる空も。 そのアトリエを作ったのは大分昔のことなのだ、とロマーノは漆喰の真っ白な壁に頭を預けながら思う。彼が見ているのは、弟の背中だ。イタリア・ヴェネチアーノはアトリエの真ん中の椅子にすわって、片足だけあぐらかいてその上にスケッチブックをのせている。スケッチブックにただひたすらに鉛筆を走らせている。しゃしゃと、それは絹のすれるような音だ。弟の普段の丁寧なスケッチとは全く違った、何かに追われるような鉛筆の動きを黙ってロマーノは見ている。こうなれば、自分では止められないのをロマーノはもう何度も経験してきた。それでも声をかけるのは、おそらくつまらない意地なのだろう。あの時のような。 あの時。 ロマーノは大概素直でないから、結局彼の言いたいことも鈍くはない弟が察して会話が成立することが多い。だからあの時もそうだった。彼の弟は飢えてはいても、まだそれほどに傷ついてはいなくて、翻ってロマーノはヴェネチアーノよりもはるかに傷ついていた。中立を保っていたスペインには「もう見てられへん」と言われた。それが自分だけを指すのか、あるいは自分たち兄弟のことを指すのかロマーノにはもうよく分からなかった。 「兄ちゃん……?」 何を言っているのかと言外にヴェネチアーノが問うていて、それ自体がロマーノにしてみれば何を言っているんだという感じだった。このままいけばイタリアは負ける。おそらくあの気に入らないドイツもだ。日本も例外ではないだろうが、それはロマーノにはどうでも良いことだ。イタリアは負ける。ならばどのように行動すれば良いのかは自明の理だった。 ロマーノはヴェネチアーノの視線に耐えられずに一度俯いてから、観念したようにため息をついた。ロマーノの片目は包帯で覆われて、視界が狭い。 「イタリアは休戦を表明する。無条件降伏だ。連合軍がサレルノに上陸したらすぐにでも宣言するぞ」 「何を」 ふらりとのばされた手をロマーノはぱんとはじき飛ばした。ヴェネチアーノの動作は緩やかで夢のようだった。 「俺は現実的な話をしている。じゃがいも野郎に付き合って死ぬ義理はないぜ。そうだろう?」 そうだ、とロマーノが思う。そうだ、誰があいつについて行くか。ローマ帝国に続く帝国などと偉そうに標榜するあいつに。 ロマーノの言葉にヴェネチアーノの視線がゆらりと揺れた。それから自分と同じハシバミ色の瞳がみるみる透明になってゆくのを見た。それはヴェネチアーノが過去を思い出すときの瞳だった。あの青い色の部屋で本をたぐっていたときのような。 ヴェネチアーノとロマーノは兄弟ではあるが、小さい頃に引き離されて一緒に暮らすようになったのはつい最近だ。だからロマーノはヴェネチアーノの透明なその瞳をよくないものだと考えていた。途方もない昔を懐かしみ、叶わない夢を語るような口調になるからだ。 たとえばあの成長しなかったこどもの話。兄ちゃん、彼は不器用でとっても優しかった、と。 「俺はドイツを裏切らない」 「裏切る、裏切らないの問題じゃねぇだろ」 かっとなってロマーノは叫んだ。自分たちは国で、国という事は総意で動くということだ。個人的な意志?交わした約束?友達の証? はっ、とロマーノは吐き捨てるように笑って、ヴェネチアーノに詰め寄った。それから彼の首に掛かっている鉄十字をひっつかんだ。 「連合軍が許せば、イタリアは連合側につく。負け戦を続ける理由はない。なら負けた後の事も考えろ」 より有利に。より少なく。そう、今ならまだ間に合う。鉄十字一つ、交わした約束一つがなんになる。何の証になる、何の保証になる。何にもならない。それが自分たちを生かしてくれるとでも言うのか。 鉄十字を握りしめていたロマーノの手を、ぱんっとヴェネチアーノが撥ね除けた。 「触らないで」 そう冷たく言いはなった後に、一瞬俯いてから、ロマーノの顔を見た。 「兄ちゃんがそうしたいならそうすればいい。でも俺はドイツについて行く。もう嫌なんだ」 何が嫌なんだとロマーノは言葉を投げつけた。撥ね除けられた手がひりひりと痛かった。ヴェネチアーノの上でも自分の腕も骨が浮いて醜いものだった。 「そんな前の後悔を、いつまでもひきずってんじゃねーよ!」 ぐっと、ヴェネチアーノがは黙った。それから、一度彼は笑った。そして何も言わずにアトリエから出て行ったのだ。 そしてその戦争が終わるまでヴェネチアーノとロマーノは出会わなかった。戦争が実の所いつ終わったのかはロマーノには分からない。三月なのだろうか、五月だろうか、それとも九月?どちらにしろ覚えているのは傷だらけのドイツとプロイセンの姿だ。二人の兄弟の姿は酷いものだった。軍服を着込んでようやって立っているという有様で、その下にも包帯が巻かれているのだろうことが容易にしれた。膿と血のまじった嫌な匂いがした。傷口すらふさがっていないのかもしれなかった。彼らの腕には骨が浮いていて、ロマーノは自分の腕を見てからすこし笑った。苦笑だった。もう骨の浮いていない腕だ。 だからロマーノは自分の判断を後悔はしていない。 けれど。 「おい、ヴェネチアーノ」 アトリエの弟にそう声を掛けたが、ヴェネチアーノはぴくりとも動かなかった。ただスケッチブックをめくり、鉛筆を走らせ、それをやぶり、スケッチブックをめくり、鉛筆を走らせ、それをやぶりということをもう一週間も繰り返している。食事もシエスタもおざなりなものだ。 「ヴェネチアーノ」 弟は視線をあげもしない。ただスケッチブックだけを見ている。そうだ、彼は目の前の湖すら見もしない。記憶の中をそうざらいして何かを書いている。遠い砂漠の夜空、走りいく通信兵、なんでもない倉庫の中、死んでいる捕虜、ジャガイモ野郎の横顔、日本と笑うあいつ、のんびりと寝る猫、冷たい吹雪の中を続いていく捕虜の列、銃を分解し掃除しているドイツ、寝ている日本とドイツ、の、着ている軍服は昔の物だ。 「……ヴェネチアーノ」 ロマーノの言葉にはじめてヴェネチアーノがぴくりと肩を動かした。それから動かしていた鉛筆をぴたりと止めた。 「ねぇ、兄ちゃん」 「……な、なんだ」 このような状態のヴェネチアーノに話かけて反応が返ってきたのは初めてだったのでロマーノは驚く。 「ずっとさぁ、描けないものがあるんだよね」 ヴェネチアーノは唐突だった。 「描けないもの?」 「そう、描けないもの。あんなに覚えてるのに、あんなに後悔したのに、あんなに泣いたのに、描けないもの」 ぐるり、とヴェネチアーノがこちらを向いた。そしてぱちりと瞬きをする。ロマーノがぎょっとしたのは、突然ヴェネチアーノが振り向いたからではなくて、その瞳がおどろくほどにぎょろりとしていたからだった。普段の弟の陽気さなど欠片もなかった。ただ、しんしんと静かな物が弟の瞳を覆っている。 「ある、んだ、よ」 それは狂気なのだろうか。いや、違う、とロマーノは思いたかった。弟はおかしくなどない。だって普段は普通で、こんな風にはなりはしない。 「しかも、それを描けないのは」 ヴェネチアーノが目を見開いたまま、ゆっくりと口角をあげて笑った。幸福な笑いそのもののようで、全く瞳とちぐはぐだった。 「俺が今嬉しくて、そして怖いからなんだよ、兄ちゃん」 そうしてヴェネチアーノはゆっくりと一度瞬きをしてから、またスケッチブックに向かいだす。しゃしゃと絹のすれるような音がスケッチブックの上でする。ロマーノはすっかりヴェネチアーノにかける言葉を失っている。 だけど、本当は後悔しているのかもしれない、とロマーノは思う。玄関のチャイムが鳴った。ロマーノはため息をついた。どうせ日本に違いない。 * 日本は通されたリビングでにこにこと笑っているばかりだった。ロマーノにはそれが気に入らない。今、自分は決定的な一言を投げつけたつもりだった。だがそれを日本は何でもなかったことのように受け流して、にこにこと笑い続けている。 「それが何か?」 「それが何かだって?!」 はい、と日本は笑ったまま片目を眇めてそう聞き返した。 「貴方は今、イタリアくんがこうなったのは私たちのせいだと言いましたね。私たち、というのは私とドイツさん、でよろしいのでしょうか?」 日本の流れるような言葉にロマーノは一瞬ぐっと息つまってから、当たり前だろ!と叫び返した。お前とあのジャガイモ野郎のせいだ。そのせいであいつはあんな。 あんな目をする弟ではなかったのに。本当に幼かったころ、まだ二人で居たときはあんな目をする弟ではなかったのに。 「お前、なんでそんな笑ってんだよ!」 ロマーノは言いながら、何故自分がこんなにも激昂しているのかわからなかった。突発的なその憎しみは弟を作り替えたものに対して向けられていて、だから今日本にむかって怒鳴っているのだけれど、日本はその声にまるで堪えないかのように笑い続けている。 「笑っていますか、私は」 ああ、とロマーノは吐き出した。 「まるでそういう仮面でもつけてるみたいだぜ」 嫌みのつもりでいったのだが、日本は存外きょとんとした顔をした。ロマーノが投げつけた言葉よりもよほど反応が大きくてロマーノはいらいらとした。 「仮面、仮面ですか。言い得て妙ですね。私は笑っているのが一番楽なのですよ、なにせ」 日本は出されぬ茶の一杯にすら文句を言わなかった。空気を読む日本にしては珍しいことにロマーノの意を汲む気はないらしい。彼の笑顔は変わらぬままだ。 「私の世界は今大分歪んでいるので、イタリアくんと逃げようと思っていたのです」 はぁ?とロマーノが不可解な顔をした。 「それでドイツさんの所に行ってですね、こうびしばしとレンズの焦点あわせてもらおうと思いまして」 「びしばし?」 「そう、びしばしとです」 ドイツの野郎にびしばしとならば、それは大分暴力的なものには違いない、とロマーノは思った。 「つかなんでヴェネチアーノつれてくんだよ」 「イタリアくんもおかしくなっている頃合いかと思ったのですが」 違いますか?と日本に問われてロマーノはかっと顔を赤くした。おやおや、図星のようですねぇ、と笑う日本に一瞬ロマーノは殴りかかろうと思ったがやめた。単純に言えば怖かったのだ。日本の様子も、そして弟の様子も。 「あの夏は」 日本は脈絡もなくしゃべり出した。 「ヨーロッパではどうかしりませんが、非常に暑い夏でしてね、セミが路上の上でよく死んでいるのを見ました。私は夏の足音が近づく度に誰かが倒れていくのを聞きましたよ」 「何の話だよ」 付き合う義理はないと知っているのに、どうしてロマーノは日本にそう聞き返すのだろうか。くすくすと日本は笑っている。 「弟がああなったのは、私たちのせいか、という話ですよ、イタリア・ロマーノくん」 * 「イタリアくん、いたりあくん」 アトリエで一心不乱に鉛筆を動かし続けるイタリアに日本が声をかける。するとイタリアは鉛筆をぴたりと止めて、振り返った。 「に、ほん?」 そうですよ、日本ですよ、と日本は笑ったまま言った。ロマーノは漆喰の壁に寄りかかりながら歯軋りをした。自分は弟のことを何よりも知っている訳じゃない。あの時の判断を間違ったとも思わない。 ただ。 「ごめんなさい、日本、おれは」 イタリアの瞳にぶわりと涙がたまる。湖のようだとロマーノは思う。アトリエから一望できる青色の湖を、しかしこの弟は一顧だにしないのだ。 日本はイタリアの鉛筆が握られた手のひらをゆっくりと包んだ。 「ドイツさんのところへ行きましょう、イタリアくん」 ただこうやって泣いている弟を有無を言わさず引っ張っていく日本を見る時だけ、後悔めいた感情が心に浮かんでくる。しかしそれは結局激しい憎しみを伴っていて、すぐに消えてしまうのだ。 「に、ほんっ!」 なぜ殴ったのかと聞かれればとっさのことだ。日本はそれを知っていたかのようにロマーノの腕を左手でさばいた。それからヴェネチアーノの手を握っていた右手を離して、左足でロマーノの足を払う。ロマーノはあっというまに転倒した。 あなたの 日本の口が動く。 「あなたの弟さんへの愛情はすばらしい。兄として褒められるべきものと言ってもいいでしょう。でもそれも無意味なことです」 だってあなたは南イタリアなのだから。 日本が言う、それが全てだった。ロマーノは目を閉じた。体中から力が抜けていくような気持ちになった。イタリアくん行きましょうと日本の声がする。アトリエに散らばっていた紙を一枚一枚拾い上げる音がする。ロマーノは後悔などしていない。そうだ、していなかった。結果としてイタリアは日本のように占領統治されなかった。あのドイツのように分裂もしなかった。それは南イタリアがいち早く休戦表明を出して、連合軍側で参戦したからだ。 「では、さようなら、イタリア・ロマーノくん」 日本の笑う気配がした。あの仮面のような笑いは何かを馬鹿にしているわけでは決してないのだ。それ以外の表情が浮かべられないからあの表情を浮かべているのだろう。知っている。そう、言っていた。 そうですね、たとえばのはなしですが、とてもなかのよいふたりがぼろぼろになっていてじぶんだけぶじだったら、そのぶじだったにんげんはきっとひどくざいあくかんにさいなまれるでしょうね。これもわたしのごうまんでしょうか。まぁそんなことはどうでもよいことです。もんだいはいたりあくんがどうかんじているかなのですよ。 このひょうじょうですか?すみません、あいにく、いまはこのかおしかできないもので。 どこまでが本当かをロマーノは知らない。そんなことをヴェネチアーノが悔いているかも知らない。北イタリアは結局は三月に無条件降伏を受け入れた。五月にドイツが、九月に日本が。ただの順番ではないか。ただの距離の問題にすぎない。誰かがどのように崖から飛び降りるか。一、二、三のただの順番だ。 「くそ」 目を開けると日差しが目を射った。そうだ、このアトリエはサンルームの代わりにもなるくらい窓が大きくとられているのだ。アトリエには椅子が置いてあるだけで、床に散乱していたスケッチブックの紙も掃いたように綺麗になくなっていた。散らばっているのは消しくずだけだった。 くそ、ともう一度ロマーノは吐き捨てた。 湖はいつでもかわらずきらきらと輝いていて、まるで幸福そのものみたいだった。 * 日本とイタリアがドイツの家についたのは、明け方だった。空港でタクシーを捕まえてドイツの家に向かう途中で二人は太陽が昇っていくのを見た。イタリアはいつもドイツの家にいくのとは違って大量のスケッチブックと、すこしの荷物しかもっていなかったし、イタリアの目元はすこし腫れて赤くなっていた。彼の常である笑顔は今はなりを潜めている。 日本は、自分のところよりもいくらか低い位置へと上っていく太陽の明るさに目を細めた。それから心の中で数を数えた、ひぃふぃみ、よ、いつむぅ、なな。ちょうど一週間目だった。 「danke」 ドイツの家の近くでタクシーを止めてもらい、つたないドイツ語でそういうと、タクシーの運転手は笑ったようだった。ずっと笑いっぱなしだった日本におそらくつられたのだろう。ドイツの家についたころにはすっかり日は昇っていた。それでもまだ朝といえる時間だった。 ドイツの家は一人で住むのにちょうど良いつくりになっている。ドイツ自身はそのちょうどよさがあまり好きではないようだが、広すぎもせず、狭すぎもせず、日本には良いことだと感じられる。自分の家は自分一人で暮らすには少々広すぎるのだ。それは時に寂しいことだ。 「どーいーつーさーん」 日本は間延びした口調でチャイムを鳴らしながらひっそりと呟く。イタリアは黙って日本に手を引かれたままだった。うつむいている。イタリアはいつもこうだ、と日本は笑顔の下で思う。そのくせ、本当つれてきてもらいたがっているんですから、マゾっぽいですよねぇ、といささかねじのくるった頭で思った。 しばらく待っていると、がたん、と大きな音がして扉が開いた。 「なんだ、日本とイタリアか」 「はい、そうです、日本とイタリアですよ」 ドイツの言葉をそのまま返して日本は笑みを深くした。イタリアはびくりと肩を震わせた。 「すまないが、今、忙しくて」 「こんな朝早くにですか?」 日本がそういうと、ドイツは一度黙った。それからゆっくりとため息をつく。伏せたまつげが金色で綺麗だ、と日本は思う。 「昨日から徹夜でな」 「世界会議の時はこれから久しぶりの休暇だと」 日本の物言いにドイツはため息をついた。うつろな目をしている。それからようやく口を開いた。 「お前はどうしてこういう時に来るんだ」 イタリアをつれて、と言外にドイツは問うた。イタリアは相変わらず荷物をもってうつむいている。ドイツにしてみれば、イタリアがここに来たくなかったのは明白に見えた。そして日本がイタリアを無理やり連れてきたのだろう事も。 「来たかったからですよ、ドイツさん」 「お、俺もだよ」 日本の言葉に遅れてイタリアが続いた。ドイツはもはやつきなれているのだろうため息をもう一度ついてから、扉を大きく引いた。 「とりあえずあがれ、寒いだろう」 いくら初夏とはいえな、というと日本はありがとうございます、と笑顔でお礼を言った。イタリアはGrazeとイタリアらしくなく小さな声で続いた。 * ドイツはあくびをかみ殺しながら、ポットでお湯が沸くのを待っていた。目をつぶって腕を組んでキッチンの壁によりかかっている。ここ数日寝ていなかったので睡魔が襲ってきてはいたのだが、それは決してドイツを睡眠には導いてくれなかった。 「眉間の皺」 よってますね、と気配なく言われて驚いた。目を開けるとそこには日本が笑ってたたずんでいる。 「誰のせいだと思っている」 「ドイツさんご自身の問題かと」 「からかっているのか」 ドイツの言葉に日本はくくっと喉の奥で笑いながら、いえいえ、と答えた。かちっとポットがなって、お湯が沸いたことを知らせた。ドイツはポットを片手で持ちながら、コーヒーフィルターにお湯を注ぐ。 「もしかしたら」 日本は袖で口元を隠しながら呟く。 「ドイツさんの世界がゆがんでいるのではないかと思いまして」 ぴたりとドイツの動きが止まった。ポットの口からお湯が出続けている。お湯があふれる直前で日本は、あふれますよ、と口にした。ドイツは黙ったままポットをあげて、定位置へと戻す。 「ゆがんでいる、とは?」 「そのままです」 そうですねぇ、たとえば、と呟く日本の口調は間延びしている。 「幻を見るとか」 「……生憎心当たりはないな」 「そうですか、テーブルにカップが二つあったのでてっきり」 お兄さんの幻覚でもみていらっしゃるのかと思ったのですが。日本の言葉と同時にボーンと時計が六時になったことを告げた。柱時計はベルリンのドイツの家からもってきたものである。古めかしいそれは、まだ比較的新しいこの家にはあまりなじんでいなかった。 「日本」 ドイツはそう言って日本を見下ろした。青色の瞳にキッチンの窓から光が入って透明に見える。日本はぞくぞくと背筋に寒気が走るのに気がついた。そして自分がいまだに笑っているのも、やはり感じ取れた。 「これは俺の失態か」 「失態といえば、一週間前から様子が変でしたよ?」 正確に言えばこの前の世界会議からだ。その会議にはアメリカもロシアも参加しているもので、ロシアは東ドイツとしてプロイセンを連れてきた。ドイツは西ドイツとして参加した。 日本はドイツを見上げた。世界会議の日も、こうして見上げて、同じことを聞いたことを思い出した。 『大丈夫ですか、ドイツさん』 するとドイツは急に笑い出した。それはしかし、喉の奥で小さく消えていくようなかすかな笑いだった。あるいは泣いているのかもしれないと日本は思い、ドイツの頬を両手で包みたいと思ったが、それは思っただけで終わる。 「大丈夫に見えるか?」 ドイツが言ったのは一週間前とは違う言葉であった。日本は笑ったまま首を振る。 「いいえ、ドイツさん」 いいえと、日本が言うのと同時に、コーヒーフィルターから最後の一滴が落ちる。 * イタリアはドイツの家のリビングにおずおずと座っていた。いつもは遠慮なく入っているリビングは今はどうにもよそよそしかった。テレビとテーブル、ソファがおいてあるだけの簡素のリビングだ。テレビの隣の棚には写真がたてかけてあった。どの写真もみな幸せそうに笑っている。オーストリア、ハンガリー。どの写真も。イタリア、日本、ドイツ。みな。プロイセン。幸せそうに笑っている。 イタリアは膝を抱えて、その膝に自分の頭を預けた。横になった視界にはコーヒーカップが二つおいてある。ひとつは飲み干されていて、もうひとつはなみなみと注がれたまま冷めている。 喉が渇いた、とイタリアは思う。だがそのコーヒーには手をつけようとは思えなかった。 (だってそれは俺のためのコーヒーじゃないもの) イタリアはそう思いながら、自分の荷物に視線を投げた。幾枚ものモノクロのスケッチは、記憶のスケッチだ。イタリアは時々、過去にむかって全力で疾走したいと思うことがある。現在を投げ出して、過去へ過去へ逃げていくように。そして選択を間違ったと思うときまで戻って、今度こそ正解を選ぶのだ。 ドイツのリビングを朝日が差し込んで明るくしてゆく。テーブルにも斜めに光が差している。なみなみと注がれたコーヒーにも光が差す。 例えばあの時あの子についていけばよかっただとか、例えばあの時ついていけばよかっただとか、と考えてイタリアは喉の奥で笑った。いつでもついていけばよかったと思ってばっかりだ。それはきっと、俺が逃げてばっかりだからだなぁ、とそんなことを思っていたイタリアの考えを打ち切ったのはコーヒーを持ってきたドイツだった。 「何をしている」 「なにも、してないよ」 「お前がそう静かにしていると、こちらが拍子抜けする」 言いながらドイツはテーブルの上にあったコーヒーカップを片付けるためにキッチンへと一度戻る。しばらく日本とキッチンで話しているようで、声になる直前の音がイタリアの耳に流れ込んできた。日本の流れるような声と、ドイツの低い声。明け方の街は静かだ。こうしていると過去に飲み込まれそうになる。いや、それを願っているのかもしれない。 「イタリア」 ぼーっとしていたのだろうか。気がつくとドイツが目の前でコーヒーカップを持って立っていた。数は二つだ。 「あれ、日本は?」 「時差ぼけで疲れたからすこし休ませてほしいと。イタリアからドイツまでお前をひっつかんできたらしいじゃないか」 ああ、うんとぼんやりイタリアは答えながらコーヒーを受け取る。温かい。なんだか芝居を演じているようだ。どこに行くのかは知っているのに、どうにか回避できないかドイツは必死に自分を抑えているのだろうと思うとイタリアはドイツがかわいそうだ、と思う。 ドイツの家はフランスが来るときは別にして、一人で居るときは冷え切って冷たいのをイタリアは知っていた。何もかもに影が落ちているのだ。 「なんかねぇ、みんなおかしいんだよね」 俺も、おかしいんだ、とイタリアは思う。違う、おかしいのは俺とドイツと日本だけだ、と。それも本当は違うのかもしれない。 イタリアはコーヒーを飲みながらそうつぶやいた。ドイツは黙ってイタリアの言葉を聞いている。ソファに座りもしない。ただ壁に寄りかかって、イタリアを見下ろしている。イタリアはドイツの顔を見て、背筋がぞくぞくとする感覚を覚えた。彼の表情に常のイタリアに対する慈しみが一切なかった。それはものを見るときのような無感情の瞳だ。 「お、俺もね、頭の中がぐちゃぐちゃしてね、それが怖いから、スケッチ、そうスケッチをするんだけどね。これが昔の絵ばっかりで、ドイツとか日本とかと、合同演習してたり、思い出せる限りやるんだ。でもね、何枚描いてもだめで、」 「なぜだ?」 ドイツが無感情に質問をはさんだ。何故だって何が?とイタリアが聞き返すとドイツはまた機械的に答える。 「なぜ、何枚描いてもだめなんだ?」 ドイツの瞳は青くてきれいだなぁとイタリアは関係なく思った。あの子よりちょっと薄くて空のようだ。あの子は海のようだったけれど、髪の色は同じ。なによりここはあの子の土地、と脳裏で歌うように考えた。 「イタリア?」 いつまでたっても返答のないイタリアを怪訝に思ったのか、それともイラついたのかドイツが冷たい声で聞いた。イタリアは、はっとしてから、言葉を探す。 「ほんとは、描かなくちゃいけないものが、あるんだけど、それが描けないから」 あの子との別れ。イタリアが休戦表明をしたとき、ついてくといった時のドイツの顔。それでもついていけなくて、倒れてしまった三月の自分を見捨てるドイツの横顔。どうしてそこまでしてついて来るんだと、もういいんだ、といわれたときのイタリアの答えに傷ついた顔のドイツ。 「どうして描けない?」 「再現できない」 再現できない?とドイツは不思議そうな顔で答えた。それからテーブルにカップを置いた。イタリアもコーヒーカップをテーブルに置く。新しく淹れて来ようかというと、大丈夫、とイタリアは首を降った。 「お前の顔を、あんなに覚えているのに、もう描けない」 * がたん、とリビングで大きな音がしたのを日本は半分まどろみながら聞いていた。ここはドイツの家のゲストルームだ。少し疲れているのです、というと、自分の相手をするのに疲れたのだろうドイツが用意してくれた。 「お前らは馬鹿あるね」 「おや、中国さんの幻覚さんのご登場ですね」 いつの間にか中国が日本の枕元に立っていた。 「まるでそう立っていらっしゃると死人みたいですね」 「失礼なやつあるね」 中国は憤慨して、ベッドの脇にこれまた音もなく移動した。それから日本はため息をつきながら、そうですねぇ、と答えた。 「ドイツを刺激してどうするあるか、あんなのはほっとくのが一番ある」 中国の言うことはおそらくもっともなのだろうと日本は思う。自分や、イタリアがドイツに関わらないのが一番自分たちは傷つかないですむに違いない。特にイタリアはそうだろう。そして日本もこんな幻覚を見たり、疎外感を覚えずにすむに違いなかった。 「そうなんですけどねぇ、イタリア君は連れてきてもらいたがっているんですよ。あれでは自傷と変わりないですがね、ドイツさんを使う分悪質ではあるかもしれませんが」 中国が寝ている日本の頬に手のひらを滑らせる。幻覚なので感触があるはずもない。日本はそれでも中国の手のひらに頬を寄せる仕草をした。無意味な動作だった。 「お前も、ドイツまでくる必要ないあるよ」 「ドイツさん、かわいらしいじゃありませんか。私はドイツさんがかわいそうなのですよ。イタリア君よりもね」 贔屓はよくないあるね、と中国は意地悪くいった。日本はベッドの上で肩をすくめる。 「どちらがより可哀想と思うかに贔屓もなにもないですよ。ドイツさんはイタリアくんのナイフの代わりですか?でもそうすることで、ドイツさんが、安心するならそれでよろしいのですよ」 「安心とはなんのことあるか?」 日本は面倒くさくなって目を瞑った。しかし中国は幻覚だったので、まぶたの裏まで浮かんできて、にやにやと意地の悪い笑顔を浮かべている。日本は観念したようにため息をついて目を開けた。 「ああ、狂っているのは自分だけではないのだと、おかしくなるのは自分だけではないのだという、安心です」 今度は幻覚の中国がため息をつく番だった。肩をすくめて、やれやれある、と言っている。 「仲良しごっこも、過保護も大概にするあるよ。我々は」 「国なのだから」 中国の言葉尻をとって、日本は言った。 「こんなフリをしなくてもいいある」 「狂人のふりをして刃物をもって通りを歩けばもう立派な狂人ですよ」 自分の頬に手のひらを寄せていた中国の腕をとった。ぐっとひくと、するっと自分を通り過ぎて、幻覚はどこかへ消えた。 * 「もういい加減にしてくれ」 突然のドイツの激昂にイタリアは目を丸くした。あるいはそれを予期していたので、やっとそれが来たのだという気持ちでもあった。 「俺を通してそいつを見るのをやめてくれ」 ドイツは無表情のままでものを見るようにイタリアを見下ろしていた。どうしてそこまでしてついてくるんだと聞かれたとき、イタリアはなんと答えただろう。 だって、今度こそお前を失わないように。 すると今まで悲痛な顔をしていたドイツの顔からまるで絵の具を溶かすように表情が消えていって、それから彼は一度うつむいた。もう一度顔を見たと思ったときには今のような無表情になっていた。そして冷たい声で言ったのだ。 ドイツはもはやイタリアを維持してはおけない。俺はお前を捨てる。 「ちがうよ、ドイツ」 「いいや、違わない」 ドイツの冷たい声にイタリアは心のそこから震え上がる。恐れというよりも傷つけられている。しかしそれを望んでいる自分もたしかに存在している。 「いつもそうだ。俺に向けられる愛情は結局そいつが全部持っている。オーストリアも、兄さんも、フランスだって」 そしてお前も、とドイツは冷たい声で言い続ける。 「そうだ、兄さんだって、最初はあんなに言っていたのに、俺のドイツ。俺たちの帝国。ところがどうだ、お前があの時いったように、今度こそお前を立派な国にしてやるだと?いい加減にしろ。お前らは俺をなんだと思ってるんだ」 お前が、あの時?とドイツは自分の言葉を冷静に繰り返した。イタリアにはドイツが泣いているように見える。この顔だ、とイタリアはいつも思う。思うのだが、やはりそれを描けたことはない。 「そんな約束、俺は知らない。お前とした約束なんかなんにもない!」 「ドイツ、ドイツ」 イタリアは無表情のままのドイツの頬に手のひらを重ねた。ドイツの頬を冷たかった。ドイツはイタリアの手のひらをぱんと力任せにはらう。イタリアは体勢を崩してソファにがたんとぶつかった。 「そうやって、自分は愛情深いのだと示して何がしたい。やめてくれ、俺は疲れた。きっとこういってもお前は俺を通してあいつを見ることをやめたりしないだろう。もう疲れた」 イタリアはよろりと起き上がって、それからドイツの手をとった。うつむいたドイツは力なくイタリアに手を引かれる。ドイツにぶつけられた言葉はいまだイタリアの胸の中でじくりじくりとのたくっていたが、イタリアにとってそれは心地よい痛みだった。やっと描くことから離れられるという、これで罰を受けたのだから大丈夫だというまこと身勝手な心地よい痛みだった。 「俺に触るな」 「ドイツ」 イタリアはドイツの名を呼んで、それからドイツの自室まで彼を導いた。扉を開けると部屋はきれい好きのドイツにしてはひどいものだった。あらゆる書類が散乱し、本が出しっぱなしで積まれている。ベッドメイクもされていなかった。 「もう誰も俺に触るな」 ドイツはイタリアの手を振り払った。 「ドイツ、でも俺は」 「うるさい」 そういって扉は閉められた。イタリアに向けられた瞳は真剣な侮蔑の瞳だ。イタリアはかくんと膝から力が抜けたように、ドイツの部屋の前でうずくまった。涙が勝手にあふれてとまらなかった。だがそれは望んだことでもあった。結局はこうされないと自分はだめなのだ。ドイツを利用している。 本当は。 ドイツが分裂して細切れになればよいと思っている。そうすればあの子に近づく。どんどんどんどん。そうしたら、とイタリアは思う。そうしたら俺は最初からやり直すんだ、あの子を失わずにすむように。 涙はどんどんあふれて、声は抑えきれないものだけが喉の痙攣とともに吐き出された。イタリアはドイツが出てこないのを知りながらそこで長い間泣き続けた。 * 日はいつのまにか上っている。ドイツの家の庭の緑がさんさんと輝いている。家の前の道はなだらかに丘を越えて続いている。向こうには麦畑が広がっている。ずいぶんと郊外にある家なのだ。麦畑はまだ青々としていて、早起きの農夫たちが麦を踏んでいる。 世界は平和に穏やかに見える。こんな時でも。 |