イタリアに銃口を向けることを実際のところドイツはさほど躊躇しない。たとえば最初に出会ったころに彼を銃抵で殴ったように、彼と敵対したならばドイツはイタリアに銃口を向けることができる。簡単に想像ができた。きっとイタリアは一度だけ驚いた顔をするだろう。茶色の瞳を丸く見開いてから自分の名前を呼ぶのだ。 ドイツ、ドイツ、うそでしょう、と。 いくらなんでも希望的観測過ぎるだろうかとドイツはその考えを奥歯で噛み潰したくなった。すると脳裏で彼の兄が赤い瞳を光らせて笑う。 おいおい、銃口を向けるのは残念だけどイタリアちゃんにだってできるんだぜ。重要なのは引き金がひけるかどうか、そうだろう、ヴェスト、とプロイセンはまるで軍歌のように勇ましく、あるいは残酷に言う。 それは本当にまったくそうだとドイツは思う。銃を構えるだけならばそれこそ子供にだってできるのだ。その引き金を引くことができるのか、その銃弾を当てることができるのかそれが重要なんだと、ひどく疲れながら思った。そうだ、今はひどく疲れている。今や自分の顔は土埃にまみれて、汚れてひどい有様に違いない。目の前のイタリアの顔がやはり汚れているように。 そこまで考えてドイツはひとつ思考を終わらせた気持ちになった。これ以上考えると良くないことを実行してしまいそうだったからだ・ 「イタリア」 名前を呼ぶとイタリアの肩がぴくりとゆれた。そんなに恐ろしい声を出しているだろうかと頭の隅で考えたがどうでも良い事だった。そうだ、ドイツは今まさに何もかもを投げ出して座り込んで眠りたいと思っていた。たった数十メートルを取り合い続ける塹壕戦も補給も満足にやってこない東の戦線も、尽きることのない砲弾と銃弾の出所も、海を越えての進軍も、いくつものあの内乱も、忘れて眠りに尽きたかった。 雨は数日前にやんでいた。暖かな陽光が塹壕の隙間から差し込んでいて、それは自分がまだ幼かったころの幸せな記憶を容易に思い起こさせた。それは不思議なことに銀髪の赤い瞳の勇壮果敢な兄との思い出ではなくて、金髪にすみれ色の目をしたあのフランスとの思い出だった。 ねぇ、ルーイとフランスはよくドイツにいったものだった。お前からはお日様と土の匂いがするよ。手入れされた庭園の匂いではないね。ブリティッシュガーデンのあの生垣の匂いでもない、よく育った豊かな土の畑の匂いだね、と。 そうしてドイツの手をとってフランスは、今日はどこに案内をしてくれるのと笑った。お前の秘密基地はそれこそたくさんあって、俺には把握しきれないからと。 甘やかな記憶はいま思い出す類のものではないとドイツは思っていた。イタリアといるとき時々ドイツは思い出すことのできないことを思い出せと迫られているように感じることがあった。この手の中には何もないのに、まるで宝物があるかのようにイタリアが甘くねだっている。 塹壕の土壁はところどころ根をむき出しにして、じわりと湿気を含んでいる。空気中にとけ切れない水分が服の隙間に入り込んできそうで不快だった。 陽の下であまくねだるようにイタリアが泣いている。 「大きな声で泣くな」 それでもうるさいと言わずに代わりの言葉を探している自分をドイツは面白いものだと他人事のように思った。だがイタリアの頬をぬらす涙をぬぐってやるほどの優しさをもうドイツは持っていないのだった。疲労はドイツや、もちろんイタリアを蝕んでいたし、それ以上に余裕がなかった。 「だって」 イタリアがだって、とかすれた声で繰り返している。先ほどからそればかりを言っている。だって、だって、と何を強請っているのだろう。それとも何かを否定しているのだろうか。イタリア人の、ひいてはイタリアの考えることはドイツには予測できないことが多かった。もう予測することすら放棄すればいいのだろうが、それもドイツには難しかった。疲労は全身を覆って、腕をあげる動作ひとつすら重かった。 焦点が結びづらい視界の中で、イタリアの瞳から次々と涙がこぼれる。できるならその下に寸胴の鍋を持ってきてパスタをゆでてやりたいくらいだと投げやりに思うと、乾いた笑いがこみ上げた。よくもまぁそんな元気があるものだと思うだけだ。涙は日の光をあびてきらきらと光って塹壕の土の下へと落ちている。あの嫌な寒々しい雨と違って暖かそうだった。 「イタリア」 ドイツはもう一度イタリアの名前を呼んだ。ドイツの声は彼自身が思うよりも優しげに響いたがそれだけだ。そうだ、実際のところドイツはイタリアに銃口を向けることをさほど躊躇いはないのだ。いまだって、命令されれば銃口を向けることなどたやすい。 いたりあがきゅうせんきょうていをはっぴょうしましたどいつぐんはここのかにろーまへとしんこうしみなみろーまにのがれたせいけんは さぁ、イタリアをこの手にと言われたら、引き金をひこうではないか。この泣くばかりの脆弱な男を。優しい手を持ち、旨いものをつくり、眠ることが大好きなこの男を。 思考はこぼれるように脳内で溶けていっている。どうしようもない、とドイツは一度思った。そう思うと楽だった。イタリアを泣き止ませる方法を彼は何一つ持っていなかったのだから。 「何を泣いている」 「悲しいから」 打てば響くような返答だった。時々イタリアは普段の様子をまるきり忘れたようなことを言う。ごめんねドイツだとか軽い調子で謝って、くだらない事でまた泣いて、そしてすぐに泣き止んで笑い出す、はずなのだ。 「そんなことはわかっている」 ため息とともに吐き出すと、違うよ、とイタリアは答えた。 「お前はわかってないよ」 イタリアは泣きながら、ドイツの頬に手を添えた。イタリアの手のひらは彼の様子に反して温かかった。ドイツは眉間に皺を寄せる。イタリアを嫌だと思うのはこういうときだった。彼は時々、ドイツよりも長く生きたことを覗かせて、ドイツの図りえない思い出をその瞳の表に描き出す。そして勝手に喜んだり悲しんだりするのだ。ドイツは頬に添えられた手のひらを払いのけたい衝動を抑えながら口を開いた。 「わかってないと思うなら、説明をしてくれ。俺の納得のできるような説明を。できないならもう泣き止んでくれないか、イタリア」 迷惑なんだという代わりに、頼むと懇願する口調を選んだのは実際のところ我慢の限界が近かったからだった。イタリアはドイツの言葉に唇をゆがめた。おそらく笑ったのだろうが、泣いているためにくしゃりとおかしな顔になっている。悲しみの底にある人間はなぜか皆一様に笑っているようにドイツには思える。死体のそばで慟哭する女も、母親に取りすがって泣く子供も、傷ついた体が言うことを聞かなくなって部下に見捨てられる兵士も。 イタリアは両手でドイツの頬を包んで、まっすぐとドイツの眼を見た。イタリアの茶色の瞳は水の幕がうっすらと張られてゆらゆらとゆれていた。きれいだな、とドイツは思った。この男は自分とは違って何もかもが優しげにできている。目元が赤らんで、涙の筋が土埃のついた顔にはっきりと残っている。かわいそうだ、とドイツ思った。 「かわいそうに」 だがそれを言葉にしたのはイタリアが先だった。 「俺が悲しいのは、お前がお前だからだよ」 何を言っているんだと思うのと、ドイツがイタリアの体を横からけったのは同時だった。イタリアはドイツの蹴りをまともに受けて塹壕の土壁に体をぶつけてうめいた。日の光が差す塹壕はまるでフランスと遊んだあの日のようだ。ねぇ、ルーイ、とフランスはまるで慈しむようにいったのだ。 お前が成長をしなければいいのに。お前がここでこのままいつまでも優しく楽しく、美しく暮らしていけたらいいのにね。お前の体からはいつでもお日様の匂いのするような、そんな。 そんな生活が、どこにあるというのだ。硝煙の匂いは鼻の奥に住み着いて、自分からは血の匂いがする。軍靴の音、一糸乱れることのないパレード、航空機のプロペラ、そしてラジオから流れる。本日五時四十五分から。 うめくイタリアの声にドイツは自分がイタリアを蹴り飛ばしのだと自覚した。 だがもはやそんなことはどうでも良いことだった。 銃口を向けるだけならイタリアちゃんにだってできるんだぜ、重要なのは引き金が引けるかどうかだ。 大事なことはすべて、とドイツは笑いながら思う。もしかしたら悲しいのかもしれなかったが、自分を省みることなどもうずいぶんと前に忘れてしまっていた。大事なことはすべて兄から教わった。フランスから教わったすべてをある日置いてきた。 「俺が変わらないからお前は泣いているのか。そうか、なら俺はどうしたらいんだ? お前の前から消えたらいいのか? それともお前の装備を一つ一つはがして、靴紐を結びなおし、荷物をまとめてやって、笑って送り出せばいいのか? さぁ、ここまででもう十分だ、お前はよくやった。お前はお前が安全だと思うところへ帰ればいいと、そういってやればいいのか。すぐにでもできるぞ。いつだって帰れる。イタリアは」 ドイツは倒れ付したイタリアの首元をつかんでそう一息に叫んでいた。イタリアは一度だけ息を詰めて、それから腕を伸ばした。ドイツの首へと回して、彼に抱きついて、ゆっくりと眼を閉じた。 「連合国側に、ついたんだからな」 「ごめんね、ドイツ」 俺は帰らないよ、ごめんね、ドイツとイタリアは繰り返した。それから、かわいそうに、とささやくようにもう一度言った。ドイツの視界ではイタリアの茶色い髪が揺れていた。それ以外にはただうつろな塹壕に日の光が差しているだけだった。この塹壕はどこまで伸びているのだろうと不意にドイツは考えた。 イタリアが何を謝っているのかドイツには到底わからなかった。塹壕はどこまでも伸びているように思える。その先はあるのだろうか。触れ合っている場所のイタリアの体は暖かかった。だがそれだけだ。 イタリアはいつの間にか涙を止めたようだった。 「俺には、お前のほうがかわいそうに思える」 ドイツはそういった。弱いお前、飛び出してきたお前、ドイツにはイタリアが庇護すべき損座に思える。戦うことに向いていない。本当は絵を描いて、歌を歌い、おいしいものを食べ、よく眠り、幸せな一日を思う。そういう生活が似合っている。それこそ彼のある場所だとドイツは思っていた。 そう、とイタリアが吐息のように答える。 だがそんなものは彼らの世界のどこを探しても今は存在しない。耳をすませてもきこえてくるのは泣き止んだイタリアの吐息の音だけだった。 |