息が出来ない。深海の暗い暗い場所。圧力で潰される自我が、悲鳴を上げている。間桐凛は息が出来ずに目を細める。喉が蠢いて、酸素を求める。もし死ぬのならそれまでで、もとからあってなかったような自我だった。もしもここに心安らかなものがあるのなら、深海ゆえに涙を流しているか自分ではわからないことぐらいだろう。
 世界は憎悪に満ちていて美しい。生きている人間に駆り立てられる気持ちの清浄さに凛は笑い出したくなる。自分の心のうちは、虐げられていたときよりもずっと綺麗で平坦で、安らかだ。激情さえも凪の前の戯れに過ぎなく、ふわふわと嬉しさに笑ってしまうばかりだ。笑う、と士郎はひどく悲しそうな顔をした。どうせ私を助けたいと思っているんだわ、と凛は思った。
 こんなに無力に床に転がる士郎にいつか救われるのかしら、と考える。魔力を吸い上げなければ息ができないが、しかし吸い続ければやがて体の機能はひとつひとつ崩れていき私は死ぬのだろう。どちらでも同じ事、どちらでも変わらない。まとう、とつぶやく声は遠い昔に望んでいた、救いの声、だったのだろうか?希望は褪せて琥珀のようになって、忘れてしまった。
「ねぇ」
 凛は笑う。声は気持ち悪いくらい甘くて、やっぱり気持ち悪いのだけれども苦しいのだからかまわない。しなやかに指し示す指の爪は伸びて、綺麗に整えられている。桜色のマニキュアが塗られていて、凛は満足する。指先まで気遣える時間を反芻する。
「ねぇ、衛宮君、私は聖杯なんていらないの、貴方に譲るわ。なんだったらセイバーも返すし、黒化したのが嫌だっていうのなら、もういちど召喚してもいいのよ?だから」
 だから、私のことなんてほうっておいてくれないかしら?
 笑う。笑う。嘲笑に近いのを知っている。そのような表情しか浮かべられなくなったのかもしれない。どうでもいい。酷く苦しい。苦しいのに安らかだ。生きていても良いと思えている。存在しても良いと思えている。世界を恨む事で、凛は凛が存在しても良い確証を得ている。
「まとう」
 ふふ、と漏れる声に、これじゃあヒーロー物の女ボスみたいじゃないか、なんて馬鹿らしい思考がよぎった。腕を上げて、自らの後ろにたっている騎士の頬に手を滑らせる。暗闇に浮かぶ、金色の瞳。飢えた獣のように静かな瞳。褐色の肌は色が抜けて、ただ外套だけが黒い。首から頬にかけて赤黒い蔦のようなものがはいずっている。凛が少しでも激情すれば、蔦はきしきしとうなって彼を苦しめる。静かにひそめられる金の瞳。愉悦。それはまさに異形で、凛は思う。わたしと、おなじだ。
 足元に転がる肌色の優しい少年ではない、わたしとおなじ、異形の、祝福されなかった、なにか大きなものに絶望した、なにもかもをうらみそこなっている、あわれな化け物。
「ほっておくなんて出来るわけないだろう」
 そうね、と凛は答えた。貴方はそうだった、忘れていた。
「私のアーチャーと同じ」
 塗りつぶした絶望も、苦痛も、悔恨も、思い出も、幸せも、悲しみも、愚かさも、本当に本当に、素晴らしかった。全てを手に入れる事など出来るわけもなく、凛は全てを塗りつぶした。彼の生い立ちも情報も、忘れていた事も、わずか覚えていた事も全て、全て。灰色の瞳を塗り替えたように、貪り食らったのだ、多分。
「衛宮くん、あなたが」
 わたしを遠坂、と呼ぶような世界だったら良かったのに、と凛は囁いた。凛の後ろにいる弓兵は、金色の瞳を揺らす事もなく、無表情に衛宮士郎を見下ろしていた。