戻ってはこない







 子供が泣く。青い瞳から涙を流し続けて、わめき続ける。黒い髪、白い肌。琥珀色の目も赤茶色の髪も受け継ぎはしなかった。せっかく彼の子供なのにと、間桐桜はため息をついた。疲れているのだと、自嘲気味に思って目をつぶった。涙が流れてくるだろうかと願ったが、自分の藤色の瞳は乾いたままだった。この桜色の髪も、藤色の目も、元は泣き喚く子供と同じだったはずだった。黒い髪と青い瞳と白い肌を自分を持っているはずだった。この手に欲しいものは何一つ残らず、何一つ落ちてこなかった。そしてそれは、どこか知らない土地で絶えてしまった。恨むことが誰に出来るだろう、そんなものは許されていない。
 子供は縁側で、泣き喚き続けている。テレビではどこか知らない国の内戦が締結したことを淡々と告げている。

 衛宮邸の縁側で、黒い髪の女が一人ぼんやりと佇んでいた。傍らで子供が泣いていて、女はその扱いに多少困っているようだった。
「元気でしょう?」
 唐突にかけられた声に女は振り返った。子供と同じ青い瞳をしていた。そうね、と静かに答える様は桜の記憶にある常の彼女とは大分違った。とは言っても彼女と桜が会うのは数年ぶりかあるいはそれ以上だったので彼女の変貌は随分まえになされた事かも知れないし、無責任なあのニュースがもたらした結果かもしれない。彼女、遠坂凛は子供の泣きはらした頬に指を滑らせる。
「泣き止まないわね」
「人見知りなんです、その子」
 風は涼しかった。日差しは苛烈で、濃く短い影を庭に投げかけていた。廂の影で凛の表情は桜にはよく見えなかった。桜は出来れば凛が傷ついた顔をしてくれないだろうかと思った。自分の欲しかったものを、まるきり完璧に微笑んで手に入れた姉の、失敗して傷ついた顔が見たかった。助け出されもしなかったあの暗闇で一人うずくまり耐えている間に姉は笑顔で彼まで手に入れて、全てを振り切るように日本を飛び立った。
「そうね、私は母親じゃないもの」
「…血は水よりも濃いとも言います。能力的にはきっと遠坂先輩の才能を受け継いでいますよ」
 それは嘘ね、と凛は静かに呟いた。桜はそれに追従しようかと考えたが泣く子供の声がかれてきたのに気がついてやめた。それに凛が何に対して嘘だと言ったのかがよく分からなかった。桜は廊下に寝そべっている子供を抱きあげてあやす。座ったままでいた凛は視線を子供に移して、穏やかに笑った。
「私ね」
 桜は子供をあやしながら考える。子供がやってきたのは二年前だった。凛の子供で、彼女が衛宮士郎について世界中を飛び回るために日本で両親からはなれて育てられる事になった。それを聞いて進んで引き受けたのは桜だった。憎悪や僻みよりも、純粋な好意だった。衛宮士郎と遠坂凛の子供というそれだけで、間桐桜はその子供を深く愛することが出来た。子供が日に日に育っていく様子や、できることが増えていく様、初めての言葉も全てを掛け値なしに喜んだ。遠坂凛がそれに触れることが出来ないのにも深く悲しんだし、衛宮士郎の面影を垣間見るたびに胸がしめけられるような気持ちになった。
「魔術師になったのを後悔したことがないわ。やらなければならない事はしたい事だった。やりたい事はそのまましなければならない事だった」
 それは幸福なことですね、と桜は呟いた。言葉が冷えて響いたのに、すこしだけ失敗してしまったと思ったがフォローする気もなかった。遠坂凛のその性質を桜は羨み、憎んでいた。あまりに明るい姉の正しさの、その光が作る影の中で自分がずっともがいている気持ちになるからだった。
「でも、私は…」
 凛は子供の頬に手を伸ばした。泣き止みかけていた子供は、知らない人間の気配を感じてまた泣き出す。ふと、桜が凛の顔を見ると彼女の顔は冷たかった。感情をそぎ落としきれなかった結果、築かれた無表情だった。桜はそのような顔を望んでいたにもかかわらずひどく胸が痛んだ。
「この子には、幸せになって欲しい。どのような人生も、歩んで欲しい。あらゆる選択を与えたい」
 だから、と遠坂凛は呟いた。呟いて、沈黙した。風は涼しく気持ち良い。夏の湿気を押し流して、桜の体をかしがせる。子供の体温が高くて少しわずらわしい。
 凛は自分の横においてあった大き目の革鞄をそっと桜のほうに差し出した。
「士郎の遺品、中にあるわ。大したものは入ってないけど、桜に貰って欲しい」
 結局彼を愛した人は、貴方以外いなくなってしまうから。
「遠坂先輩」
 桜は呟いた。奥歯をかみ締めて呟いたらくぐもった声になった。怒りがわいて出たのだった。貴方が言うのか。貴方が、貴方が。何もかもを手に入れて、そして、彼を救いそこねた貴方が!
「お別れを言いに来たの」
 遠坂凛は、縁側の廊下からはだしのまま一歩進んで庭に下りた。太陽は真上から彼女を照らして、桜からはもう表情がよく見えなかった。凛の手にはいつの間にか宝石剣が握られている。強い太陽の光に反射してか、以前見たときよりもぎらぎらと光って目を刺した。光に気がついた子供が、楽しそうに涙を引っ込めて笑っている。やはり遠坂凛の子供なのだと、桜は怒りさえ伴って思う。
「貴方はずるい」
 桜の言葉に、凛は笑った。
「桜、貴方に遺品を届けるために戻ってきた。この家に帰るために」
 何もかも。私の目の前で、衛宮士郎も、その人生も、その途中も、その終わりも、子供という未来さえ手に入れておきながら。これから始まる苦痛もその先さえ、一瞬でも共にするのだと決定されているというのに。私は置いていかれるばかりだと、桜は思う。置いていくものはいつでも自分勝手に世界を切り開いていく。絶望に身を落としていくものに、最初から絶望にいた者の気持ちなど、分かるわけがない。けれど凛は無神経ささえ感じられるような笑みで桜に言う。本当は彼女がしたい事、けれどできない事。そう決められない事を軽々と飛び越えていく凛を桜は深く憎んで、そうして愛していた。
「そしてもう一度、衛宮士郎に会うために、殴り飛ばすために、世界の終わりまで」
 凛はもう一度笑った。その笑みはおよそ遠坂凛には似合わない寛容な笑みで、桜は彼女はいつから変わってしまったのだろうと思った。それは顔を合わせる事のなかったのこの十年の、どこかかも知れなかったし、どこかの国の内戦に巻き込まれ絞首刑で死んだ衛宮士郎を見届けてからだったのかもしれないが桜には分からなかった。持たざるものは持つものを真に理解する事は出来ない。
「私は行くわ、さようなら、桜」
 桜は心の底から遠坂凛を、愛し、憎んで、羨んでいた。光はいっそう瞬いて、まるで世界が今終わるのではないかと桜に思わせた。そのせいで、きっと涙が出るのだと。ねえさん、と声にならなかったというのに、それを見て凛はしかたなさそうに微笑んだ。衛宮士郎とよく似ていた。
 光がおさまった後には先ほどと何ら変わりない風景が続いていた。違うのは大きな革鞄が一つ置いてあることと、腕の中の子供が朗らかに笑っていることくらいだった。

 止まらない涙と笑う子供に、桜は遠坂凛を憎んだ。





磨耗様という題名が付いていました。磨耗凛様。
誰からも助けられなかった桜からみたら凛は、すごくしくじった挙句にずるい存在なのではないかと思って。
子供とか出してすみません。