惰性







 世界の終わりに降り立ったのは女だった。長い黒髪はゆるやかに波打って、美しい青い瞳をしていた。その手には無骨な形の杖のようなものが握られていた。剣の形はしていたが、ひどく短く、刀身は荒々しく削られていた。宝石の原石のような剣だった。華やかで美しく、無骨な剣の中で光がゆるやかに滲んだ青から、ゆらめく赤へ、さんざめいては黄色や緑、藍や紫へ移り変わっていた。世界の終わりに降り立った女が持つ剣はまるで希望のようだった。
 女は軽やかに地面に降り立った。もうすでに埃でくすみかけた赤い外套のすそが焼かれた風に舞った。空気は高熱を伴って、女の肺や肌を焼いた。肌はみるみると水分を失い縮こまってめくれていき、瞳は白く濁ったが、女が何かを静かに呟くと同時にそれはあっという間に元通りになり、代わりというのように右手が痙攣した。
 女の肌は白く、顔立ちは人形のように冷たく整っていた。熱が地面でぶつぶつと音を発していたのに、彼女の周りだけは温度が下がっているようだったのは、彼女の瞳があまりにも冷たいからだった。まるで、機械のレンズのような目をしている。
 女は降り立って、ふと首をかしげた。腕はわずかにも動かなく、指は剣をゆるく握っていたが、どうしてそれでその剣が地面に落ちないのかと不思議に思うほど、力なく垂れていた。彼女の真正面には少女が一人居た。彼女と同じ顔をして、同じ髪をして、同じ瞳の色をしていた。彼女と同じ形の剣さえ持っていた。違いといえば、少女は彼女よりも十ばかり幼かった事くらいだった。
 女と違って少女は、凛とした強い瞳をしていた。少女の周りでは終わりの熱気さえ沸き立たずにはおれないような雰囲気があった。剣を握る指は白くなるほど力がこめられて、女を問い詰める声はぴんと張られた皮のように弾力に富んでいた。
 少女は終わりに憤り、女は終わりに飽いていた。目的を忘れてはいなかったが、達成を半ばあきらめていたに等しかった。十回までは男によって死んでいった人の顔をおぼえていた。百回まではどうしてそうなったのか原因を考えた。二百回を越えたところで死んだいった人間に悲しみを覚えなくなり、五百で終わる世界もただの画面のようになった。千を過ぎて、終わりを見る意味を見失った。それから先は楽だった。しばらくして回数を数えるのをやめた。そうして今、手に握った剣の有用ささえ忘れそうだった。
「世界の終わりへようこそ」
 少女の言葉は歓迎であったというのに、挑戦のような強さがあった。まるで女を責めるような言葉だった。女は、ここはまだ本当の終わりではなく、少女とおそらく少年、もしかしたらあの金髪の騎士王もいるのかもしれないと思ったが、今は少女以外は見当たらなかった。
 女はひどく億劫だと思いながら、口を開いた。誰かと会話をするのは久しぶりのような気がした。
「なぜ?」
 自分の出した声の冷たい響きに女は驚いた。もっと疲れた声がでるのだと思っていた。少女は女の声に嫌悪感さえ募らせたようで、視線を厳しくした。
「何故?何故ですって、遠坂凛!笑わせるわね、その宝石剣を何のために作ったのかも忘れてしまったの?」
 少女に言われて女は反対側に首をかしげた。宝石剣は平行世界への穴を開けられる剣だ。それによって女は平行世界を渡っている。いくつもの可能性を渡って、男を救いたいと思ったはずだった。守護者として舞い降りた男の、その喉首を掴みとるつもりだった。それより前、彼女は男を幸せにするように努めた。そのために十年、目を配り、側に置き、男が自らを引き換えに奇跡を求める前に共に事態を解決する事に努めた。タイムリミットは十年だと思っていた。それ以上は男の体のほうが持つまいと、漠然と考えていた。男を置いていくよりは置いていかれるほうがいいとさえ思っていたことは否定しない。
 そうして十年目、男は奇跡を起こした。女は永遠に男を置いていく事になった。女は男が絞首台で死んでしまったのを見届けて、あらかた男の身辺を片付けて、そうして世界を飛び越えた。
 世界の終わりで出会う男に女はいつも間に合わなかった。なぐるその手はいつもからぶり、やがて腕は動かなくなった。何回もつなぎなおした筋肉や神経は繋がっても動く事がなくなってしまい、怒りは均された。愛しさも遠くなってしまった。
 そこでようやく女は男が、かつて少女の時に出会った男が、どんな気持ちだったのかをおぼろげに理解した。女は男のようにかつての自分に出会い、そうしてただ疲れた気持ちで居た。女は男のように愚かではなかったので、殺そうなどとは思わなかった。ただ自分は変わってしまって、それはどうしようもなく、そして目の前の少女はそれをわかっていないのだと、そう思った。
 女がぼんやりとそんな事を考えていると少女は憎らしげに笑った。
「自分がそんなに腑抜けていると、本当に嫌になるわ、私はそんなに弱かったのかしら?」
 ねぇ、と問いかける態度があまりにも瑞々しくて女は懐かしい気持ちになった。あまりにも懐かしく、戻れないと切なくなってしまった。女は男を幸せにできると信じていた、そう、やってみせると決めていた。少女のように。
「えぇ、そうよ、遠坂凛。私は弱い。私は脆い。そうして世界は無数にある。今だったら、おぼろげに理解できるわ、彼の気持ちが。その膿んだ絶望が」
 でもあなたにはわからないでしょう、と女は思った。少女は一回息を吸って、自分を落ち着かせようとして、剣を振りかぶった。世界の終わりは燃え立って、少女を後押ししているようだった。
「貴方如きにわかるようなら、……士郎は絶望なんかしないわ」
 女は瞠目し、そうしてしばし沈黙した後でゆっくりと口を開いた。
「えぇ、そうでしょうね」
 少女の持つ剣がきらめいた。女は避ける術など持たなかった。自分の持っている剣がうずまいて新たな世界の終わりを知る。彼の降り立つ世界の終わりが訪れる。彼の新たな絶望と、終わらぬ自虐と、いずれ終わる自らの惰性の何もかもが女には悲しい。
「そうでしょうね、遠坂凛。私に理解できたのは、貴方と私が地続きであるという事実だけ、ねぇこれはまるで焼き直しのようだわ。けれど私は彼のように答えを得ない。無駄だから」
 少女はもう何も言わなかった。女はこんなに喋るのが久々でもう喉が枯れかけていた。声がひび割れて落ちていくのをはっきりと女は見た。
「やっぱり、アーチャーも馬鹿だったのね、こんな事もわからないなんて」
 かつての自分が磨り減っていく過程は地続きだという証だ。士郎が理解できないと訴えても、同じ道を辿ればそうなってしまう。女の過去である少女が今の女を理解できないように。ただ腑抜けだと思っているように。
「貴方には名前を呼ぶ資格だってない」
 少女は静かに呟いた。女は笑った。
「そうね、その通りよ」
 女は動かない指が痙攣して、時空に穴が開くのを知覚した。真っ黒い小さな闇のその向こうに、彼の降り立つ世界の終わりが待っている。
「でも私は行くわ。さようなら、遠坂凛。さようなら、私、またどこかで会えたら、今度はゆっくり話でもしましょう。貴方の世界の士郎の話でも」
 ふざけないでと怒鳴る声すら懐かしい。この世界の士郎は、きっと人間のまま死んだのだと、死ぬのだと、女はそう信じた。
 せめてもの気休めとして。




凛じゃないなぁ。凛じゃない凛も結局は地続きで凛。
士郎が何を言ったって、それは経験してた事のはずで、揺れるはずないのに、結局希望を見出してしまうところが
弓は士郎だなぁと思う。ばかだな
ぁ。