思い出話
「思い出話をしましょう」 昼下がりの午後に女がそういった。目の前にはばつの悪そうな顔をした、褐色の男が座っていた。髪は白く、目は灰色じみて日本人には見えなかったが、仕方なさげに笑うその顔はどこか疲れてみえた。女はその疲れが何に起因するのかを少し考えて、はやりにこやかに笑った。 「十年前の、ね」 男はその言葉に、未熟な頃の自分のどうしようもなさを思い出して、どうしようもない気持ちになって目を細めた。もっとも今だって男は目の前の女に比べれば未熟であったし、愚かなことには変わりなかった。女は常に優雅たれ、という家訓どうりに一片の動揺も無様も見せずに、白い華奢なティーテーブルに手を置いていた。滑らかな青色のティーカップは、紅茶の色とはあまり合わない気がするな、と男はせんない事を考える。 「十年前の、か」 「そう、十年前の」 どうして、と女は聞かれるのを願っていたが、男は問わなかった。男は朴訥で人の感情の動き、とりわけ自身に向けられる好意には鈍感であったから、女がなにやらその体の内に慟哭さえできない悲しみを湛えているのだろうことがわかっていても、それが何から出ているかわからなかった。 雪がしんしんと降り続けていた。世界がくずれて焼け落ちた後の灰のような雪だった。真っ白く、優しく、全ての音を吸い取ってしまう。女は男の髪の色に目をやって、すぐに雪へと視線を移した。男の髪の色は死人のようにくすんでいて、見ていてどうしようもない気持ちになった。 「静かね、今日」 「あぁ」 女の青い目は彼女には珍しくゆらゆらと揺れていて、それは彼女らしくはないがそれなりに美しかった。女は息を吐いたが、それは白くならずに視認することはできなかった。何かを二人とも待ってはいるのだが、何を待っているかもやはり定かではなかった。男は、十年前の、もうあまり覚えていない思い出を優しく手でさらっては、断片的なものを愛しく思った。たとえばあの夜、あの朝、金色の髪も、小さな体も、おぼろげな記憶としてしか残らなかった。 ただ、鮮やかに覚えている一振りの剣と鞘の事を、脳裏に思い描いていた。男は世界の終わりのような風景を知っている。女は世界の終わりを夢で見たことがある。小さなものを大きな力がその掌で押しつぶす、圧倒的な無音。世界は世界自身の手によって滅びる。 「別れは、必然で、そして納得のいったものだった?」 女が聞いたものはそれだけだった。男は、ぐっと一端詰まって、そうして静かに答えた。別れなければならないと思った。彼女の誇りを汚す事はできないと信じた。その決意のまま、決意の元で死んでいく彼女を愛したからだった。朝日は暴力的で悲しく、しかし新しかった。男はそのとき、確かに世界の優しさを信じたし、その下で生きていく事を願った。 「あぁ、遠坂、とても」 そう、と遠坂凛は答えた。それはよかったわ、と慈愛と呼べるような笑みさえ浮かべていた。その笑顔に男は自分の、白い髪をした死んでしまった家族を思い出した。彼女もよく、こんな風に笑っていたなと思った。 遠坂凛はそのように笑ったまま、向かいに座る男の頬に指を伸ばした。男は驚きに襲われて一瞬椅子を引きそうになったが、遠坂凛の顔があまりにも優しいので動けなかった。彼女の白い指は、男の肌の上ではいっそう白く見えた。そのまま指は頬を伝い、瞼を撫でて、男の髪に行き着いた。 「…髪、痛んでるわね」 「あぁ」 世界は優しいと男は信じていて、そう願っている。あの朝日に照らされた町並みの幸福さに笑ったのを覚えている。 「衛宮くん、私はね、貴方が生きていてくれるだけで嬉しい」 衛宮士郎は、もはや琥珀色の目も、赤茶けた髪も持っては居ない。肌は魔術回路で焦げ付いて、髪の色は白くなった。瞳は褪せて灰色になって、背は驚くほどに伸びた。衛宮士郎は自分がいつかの弓兵にひどく似ていると思う。今考えれば彼の中華剣は自分が使うのに最適であったのだとさえ、思う。 「貴方が、そのまま普通に生きて、死んでくれるだけで嬉しい」 士郎は不意に、弓兵が聖杯に恒久的な世界平和を願っていたのを思い出す。あの時、遠坂凛はそれを笑い飛ばしたといい、そして弓兵はどう答えたのか。 「酷い言い草だな、遠坂」 そうかしら、と遠坂凛は笑って指を離した。 「貴方が衛宮士郎のまま死んでくれることが、本当に嬉しい」 世界が終わるわ、士郎、と凛はテーブルからはなれて、雪のような灰が降り続ける外に歩み出る。世界がその大きな掌で、圧倒的な静けさで世界をひねり潰していく。 「貴方がアーチャーにならなくて、本当に良かった」 遠坂凛はもう少女ではなく、すでに少女であったときからそうであったように、彼女はないたりなどしなかった。むしろ士郎のほうが、この終わりに対して慟哭し、絶望し、足掻き続けて、そして今だってどこかで世界は救えるのではないかと信じている。世界は優しく、人間が死滅するこの瞬間のなんて静かで穏やかな事だろう、と感じてはいても。 「私は行くわ、衛宮くん」 どこへ、と彼女は聞いて欲しかったのだろうけれど、やはり士郎は聞かなかった。そこで初めて遠坂凛は泣きそうに顔をゆがめた。士郎は彼女が涙を流したのかと思ったし、凛も自分が泣いてしまったのだと思ったが、それは世界の軽い軽い燃えカスが頬にあたって滑っただけだった。 「さようなら、士郎」 さようなら、遠坂、とただの人間である衛宮士郎は呟いた。別れの言葉が、こんなにもしっかりと形になるのだと、初めて知ったような気持ちだった。 世界は静かで美しかった。それはあの朝の別れよりもはるかに残酷で、厳しいもののように思えた。この先に道はなく、残るものは何もなかった。そしてそれが自重でつぶれた世界の、優しさなのだろうと士郎は信じた。信じた後で、このような事を話したら、遠坂は笑うのだろう、と懐かしい気持ちで思った。 |
Fateルート後の士郎と凛。