きっと空は青いだろう。救われる人がいるだろう。独房284号、死刑台まで220歩、階段数は13段、拘束台は必要ない。蒸す空気と砂埃、静かな魔力の波が馴染んだもので酷く困惑した気分になる。赤い宝石は今もまだこの手に。




 独房284から死刑台まで220



 永遠について考えるとき、遠坂凛は胸糞が悪くなる。永遠と停滞は似ていても別物である。停滞には始まりがあり、終わりがある。永遠は始まりもなければ終わりもない。永遠がある限りなにも動かず、なにも生まれず、何も滅びない。永遠とは地平線の彼方のかすんだ景色である。進んでも進んでも地平線はあるだけで、かすんだままで、変わる事がない。そして地平線を目指して歩き続けなければならない。それが永遠である。
 遠坂凛は胸糞が悪いまま、永遠よりは無限のほうがましだ、と思った。顔は無表情で、歩みは確かだった。無限とは限りがない事だ。イチ、ニ、サン、シと数えつつ続けて、死ぬまで数え続けられるという事だ。それは永遠に似ているが、しかし永遠ではない。遠坂凛は、無限を定義する術を知っている。無限とはn+1である。それ以外の何者でもない。
 (あつい)
 空は底がないかのように晴れていて、どこまでも青かった。その青はとても濃くて美しかったが、雲が一つもなく太陽が苛烈すぎるために見続けては居られなかった。見ていると眼球の奥が痛くなって、目をつぶるとじんわりと瞼の裏に星が散った。ローブのようなものをまとって、遠坂凛は果てしない砂を踏みしめて歩いていた。かつては英雄のように持ち上げられて、そして石ころのように捨てられる男を引き取りに来たのだった。男と遠坂凛はかつて師弟であり、二人の間には友情とも恋愛とも師弟愛とも違う何かがあったのだが、それが何かはわからなかったし、今の遠坂凛には何の感慨も及ぼしていないように見えた。
 (こんなにあついなら、死体はきっとすぐ腐る)
 遠坂凛はいまや、封印指定の実行者であった。


 side A / 魔法使いの祈り

 そこは酷く寂れた場所だった。むき出しの絞首台と、砂埃が舞うばかりの地面、幾百人もの民衆と、数人の魔術師がいた。固有結界をもち、世界と契約を果たした男の死体はどんなにか良い研究材料になる事だろうともくろんで、手を回してはその死体を手に入れようとする幾人かの魔術師である。遠坂凛も封印指定の実行者の立場を利用してこの場に来たのだった。
 かつて師弟であった関係を魔術協会は憂慮したのか、幾人かの監視役つき、という条件はあったものの、思いのほかすんなりと時計塔から出ることが出来た。その幾人かの監視役も隙あらば研究材料にしたい位は思っているのだろう。魔術の世界は秘密主義が横行している。誰もが自らの為に、自らの研究の為に、根源に行き着くために、神秘をより強力にするために、研究内容は明かさないのが常だ。
 死刑台の上に男が一人立っている。拘束台に乗せられて、民衆は沸き立っている。首に縄をかけられている。目隠しも何もない、ただ憎悪を一身に受け、内戦を終結させるためだけにこの男は死ぬのだ。罵詈雑言は耳に耐えない。お前がいなければ、とうさんをかえせ、あくまめ、おまえさえ、おまえさえ、おまえさえ、いなければ、しね、しね、しね、しね。遠坂凛は民衆が沸き立つ一番後ろで無表情に男に視線をやっていた。男の瞳孔は開ききって、きっと自分を見つけられないだろうと思った。それはただの事実であった、遠坂凛の心には何の影響も及ぼさなかった。
 なにか、言い残す事はないか、と横で嘲るように執行人が聞いた。遠坂凛は冷えた目で男を見ていた。おそらくまた下らない事をいうのだろうと思ったのだった。故郷や友人や恋人や、なにもかもを捨てたときのくだらない別れの言葉のような、途方もない言葉でもいうのだろうと。知らない誰かの為に、愛しい全てを捨ててしまう愚かな弟子を凛は冷ややかな目で見つめている。
 男は何かを囁いた。遠目に口が動いているのが見えた。声はもうすでに凛には想像できなかった。ただ、彼は一言こういったのだ。
 あくまだ
 執行人は笑った。本当に心の底から嘲るような笑いで、凛はそれを見て眼を細めた。あくま。あかいあくま。ロンドン橋から冬のテムズ川に叩き落としたとき、彼はそういって酷く困惑していた。きっと凛がどうして怒っていたのかわからなかったのだろう。朴念仁はいつまでたっても朴念仁だ。結局凛と彼は恋人になどならなかった。
 がくんと、彼の足元の板が外れて重力にしたがって落下する。民衆は喝采をあげる。これでこの世の全ての悪は死んだとでも言うように。かつて男だったものは振り子のようにぶらぶらゆれる。絞首刑は大体即死だ、脊椎が折れてすぐに死ぬ。しばらくは吊るされたままだろう。石があればきっと投げられているだろう。
 後ろで魔術師達がどうやって彼の死体を手に入れようかと算段している。あぁ、仕方がない、と凛はため息をついた。そうだ、そのつもりで来たのだった。そして彼は言ったのだから、仕方がない。あくまがくる。行ってやろうじゃないか。
「Es ist Beschleunigung,Beschleunigung,Beschleunigung. Es ist gros.」
 呪文を唱えて、加速、加速。あまりの加速度に血が上手く行き渡らずに、視界が暗くなる。踏み切って飛ぶ。拘束台まで一直線に。息をのむ、魔術師達はしかし魔術を使ってもいいものか判断をしかねている。一人一人が手練の実行者だ。その躊躇は刹那もあるまい。もしかしたら代行者だっているかもしれない。こんなところで魔術を披露すれば神秘の秘匿を第一に考える協会からも、奇跡を認めない教会からも追われる事になるだろう。
「きてやったわよ、感謝なさい」
 アベレージ・ワンの、第二魔法の体現者の、魔法使いだ。遠からん者は音に聞け、近くばよって目にも見よ。コレは平家物語だ。もっと軽いものがいい。馬鹿みたいで、能天気で、あまりに暑いから、頭のねじがすっぽ抜けたような。民衆達は驚いて、凛は獣のように笑う。逃げ惑え、そうだ、悪魔はきたりて笛を吹くのだ。
 宝石は虎の子をもってきた。宝石剣だってある。実行者として名を馳せた。負ける気はしなかった。どうしてこんな事をするのかといえばただ彼を故郷に帰したいからだった。誰の手にも汚される事なく、根源への可能性など全て捨て去って、彼の義父と同じ墓へと、彼がおいていった全ての人の下へ意味のないものでも帰れる様にとそれだけなのかもしれない。
 悪魔と契約するのなら、代償には魂を。
「ただ働きなんて、嫌いだわ」
 けれど彼の魂は、もうどこかとおい所へ。空は青すぎて、眼球の奥が痛い。


side B/魔術師の憂鬱

 遠坂凛は優秀な魔術師である。加えて優秀な封印指定の実行者でもあった。かつての弟子が封印指定になった時から遠坂凛は実行者になった。そうやって各地を飛びながらも同時に時計塔での研究にも熱心だった。時計塔の歴史の中でも上位百位に入るような天才。五大元素の使い手、リン・トオサカ。そんな名前を肩に乗せながら、遠坂凛は実行者をしていた。
 遠坂凛は美しい。ゆるやかなウェーブのかかった髪は腰まで伸びて、綺麗に光を反射するそれを黒いリボンで一つに束ねている。瞳は綺麗な緑色で、肌はとても白い。声は通る涼やかな声だ。表情は滅多に代わることがなく、動揺せずに任務を行う。まさに理想の魔術師だった。
 だから協会も遠坂凛の申し出を快く引き受けた。世界と契約した固有結界持ちの魔術師の死体を引き取る、という簡単な部類に入る任務だった。遠坂凛は一人でそこに立っていた。表情は無表情だった。おそらく教会関係者だろう人間に幾らか目星をつけては絞首台に立つ男は見ていた。それこそが遠坂凛の弟子だった。馬鹿な理想を掲げて、現実との摩擦に苦しんでは、それでも止まれなかった男だ。そうしてその代償にここで、彼が救った人々の手によって殺されるのだ。
 罵詈雑言は酷いものだった。おまえさえいなければよかったのになんて良いほうで、死ねとか、化け物とか、およそ現代とは思えない言葉であふれている。お前さえ居なければ全ては上手くいったのに。長い目で見ればそうではないのかもしれないけれど、誰かを犠牲にして誰かを救うことの判断は難しい。戦争など、終われば誰もが奇跡を求める。もっと上手くいったのではないか、こんなにも犠牲はでなかったのではないか、などと。
 執行人が嘲るような顔のまま、言い残す事はないかと言った。男は、誰もが悲しむ事がないように、と言った。遠坂凛は、なんて愚かな願いなのだろうと思った。男がこうなってしまう事で悲しむ人間を遠坂凛は少なくとも二人知っていた。だからその願いは愚かだった。
「ばかね」
 男の声は思い出せなかった。がたん、と足元の板が抜けて、拘束台ごと彼は蓑虫みたいにぶら下がった。振り子みたいにゆらゆら揺れて、遠坂凛はそれを眺め続けた。人々は興奮をし、喝采をし、石をなげ、怒鳴った。今此処に平和がなったのだとでもいいたいようだった。
 揺れる彼を隠すようにカーテンが引かれる。民衆はしばらく騒いだ後に、散り散りに散っていった。すっきりした顔の人間も、複雑そうな顔の人間も、したり顔で政治をかたる人間も居た。遠坂凛は無駄とは思いつつも、石を投げた、罵詈雑言を投げつけた人間の顔を覚えていようと思った。想像の中で八つ裂きにしようと、湿っぽい考えは暑さを受けてさらに腐る。
 遠坂凛は数分だけ無表情でそこに立ち尽くした。そしてため息を一つ付いて、刑務所へと向かった。盗み出すのは割合に簡単な作業だった。執行人を多少脅し上げ、記憶をいじってから、死体を持ち出した。研究に使うつもりで、教会にも協会にも渡すつもりはなかった。その為に固有結界のエキスパートだと思わせることまでした。その為に男が故郷を出て、そして封印指定を受け、世界と契約したのを知ってから、実行者にまでなった。
 遠坂凛は彼の体のもうどこにも魂がないのを知っていた。それがどこか遠くにある事も、守護者という存在も、その愚かさも。
 遠坂凛は優秀な魔術師だった。魔術師だったが魔法使いではなかった。シュバインオーグが系譜、もっとも第二魔法に近い魔術師、アベレージ・ワンのトオサカといわれてなお、魔法使いには至らなかった。遠坂凛は男は救いたかった。居場所はここだと引き止めたかった。そして男は死よりも更に遠いところに行って、かえってこないように思えた。遠坂凛はそれが我慢できなかった。男を取り戻すためならば、男の死体さえ利用しようと決意した。遠坂凛は魔法使いではなく、ただのきわめて優れた魔術師でしかなかったから目的の為にあらゆる手段を利用しようとした。それが魔術師の自分にできる最大限だと思ったからだった。
 友人にも、妹にも、きっと白い目で見られるだろう事がわかっていた。けれどそれがなんだというのだろう。凛は無表情だった。魔術で強化した体で出来うる限りこの国から時計塔の自らの部屋に帰ろうとばかり考えていた。死体は死体でそれ以外の何者でもなく、もうそんな事に遠坂凛は動揺などしなかった。愛していたのかも、声も忘れて、ただエミヤシロウの為に荒野を駆けていた。