述懐









 知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。


 男は夢を見ている。ずっとずっと夢を見ていた。笑いたかったが、喉が潰され痛みが増すので心のうちだけで笑っていたら、どうして笑っていたのかわからなくなってやめた。何か辺りが白い気もしたが、よくわからなかった。体の感覚が薄く、意識がはっきりとしなかった。
 男は夢を見ている。逃避ではなかった。なぜなら夢の中で男は幾度も切望し、その度に及ばない自分を責めてきたからだった。いろいろな事を忘れていて、時々あぁ、これは夢なのだ、と思い出したりはするのだが、それもすぐに忘れた。夢がとても綺麗だったので、忘れてしまう事は悲しかった。


 褐色の肌がとても恐ろしかった。瞳は色がなくて感情など理解できないように見えた。声は冷たくてまるで鉄のようだった。強さが人間とは思えなかった。どこからともなく剣を出し、実戦に持ち出したら笑われるような弓でありえないほど離れた敵を射った。人を殺す事に罪悪感など抱いていなかった。(誰もがだろう、と下卑た男が笑ったが誰もが取り合わなかった)戦いのたびに訪れ、まるで戦う事が生きる喜びのようだった。あれがいる場所には常に凄惨な戦いがあった。恐ろしい速度で下される決断は、間違いなど考えてもいないようで恐ろしかった。人間とは思えなかった。まるで死神のようだった。
 薄汚れた男達は笑って、子供は泣きながら石を投げる。女は家に閉じこもる。


 人と接するのが好きではなかった私は、ただただ歩き回る仕事をする事にしました。かける声は十を少し超えるくらいです。狂人の挙動にもなれて、死を間際にする人間の反応が種類別に分けられた頃にその人はやってきました。それにしても死刑制度というものの残酷さは、何時執行されるか分からないことにあると私はおもいます。
 今日の午前か午後か、それとも明日か、もっと先なのか。そうして十年を超えるのもままあるそうです。時々私は友人に自分が死刑囚ではないかと窒息しそうにならないのかと心配されますが、まさかそんな事はありません。私は自分が今日の午前、午後、もしかしたら明日に、首を吊られるかもしれないと不安におびえることはないのですから。
 特別移送対象との達しでその人はやってきました。威圧感を感じさせる事を目的としているかのような護送車に、芋虫みたいに詰められてやってきました。褐色の肌と白い髪、東洋系の顔立ちは無国籍な感じしか私に与えず、犯罪者としては便利なのだか、便利ではないのかいまいちよくわからない容姿だ、としか思えませんでした。居て数日らしかったのですが、何をもめているのかその人は一週間たっても移送されることはありませんでした。特別移送対象である死刑囚の目は、冷たい鋼の色をしています。私は時折声を掛けたくなりますが、すっかり声の掛け方を忘れてしまって、十を少し超える掛け声以外は彼にかける事は出来ませんでした。


 気持ちの悪い男だったよ。どうしてこんな事をしているか、全くわからなかったからな。誰にだって理由はあるだろう。単純でいいんだよ。こういう道しか選べなかったーとかさ、糞みたいなこの仕事が好きなんですとか、国の為に、兄弟の為に、家族の為に。わかりやすいほうが、まぁ、和気藹々とはしやすかったよ。悲劇的だとなおラッキーってなもんさ。そういう奴らが多かったからなぁ。それで暇な時間に、暇な時間とかホントはあんまりないんだけどよ、気張りっぱなしだと疲れるだろ。抜きすぎるとうっかり死ぬけどな。
 誰もが馴れ合わないわけじゃねぇよ。むしろつながりは深いほうだと思うぜ。傭兵の給料なんてやっすいんだよ。安すぎて、自分の生まれた国で働いてまで傭兵やってる奴もいたよ。どうしてそんな事やってたのかね、俺には理解不能だったが、好きだったんだろ。話してみればいい奴さ。
 欲とか、あればな。あれば納得するだろ。こいつも俺たちと同じなんだー人間なんだー人間ってしょうがねぇ生き物なんだなぁ、でも綺麗だなぁとか付けばどっかの文学みたいだろ。かっこいい自分が好きとか、銃が好きだーとか、ヒーローになりたい! とか、幸せに暮らしたいとか、こうすれば国は豊かになるとか馬鹿みたいだったり、ご立派だったり、色々あるだろう。何にもないんだ。気持ちの悪い男だった。
 何にも選ばないんだ。何にも要求しない。与えようとばかりする。気味が悪かったよ。いつかこいつから、何か取り返しの付かない要求をされるような気がして、お近づきになりたくねぇなぁと思ったよ。何考えてるかわからねぇからな。何も考えてなかったのかもな。
 あっはっはっは、人間じゃねぇなぁ、そんなのは。


 時折、彼と格子ごしに目が合いました。ぼんやりとした目は変わった色で私は好きなのですが、そこに理性は見出せませんでした。彼はぐったりとうなだれている事が多いので、あまり目を合わせる事はありません。恐怖を浮かべているわけではないのは、もう既にどこかかけているからではないかしら、と私は思わずにはいられませんでした。同僚の噂話はよく聞きます。私はあまり上手く喋れません。彼が国際的な犯罪者らしいと、全くそんな事は思えません。だってそれにしては、彼は存在感も威圧感も薄すぎます。目の前に居ても、まるでいないように思えるほどで、私は居心地が悪くなって、はやくどこかへ行ってしまえばいいのに、と思うばかりです。
 仕草が、何かに似ていると思っていたのです。ぼんやりとした目がどこかで見たことがある目だと、格子越しにあった目に思っていました。それは盲目の人の瞳に似ています。生まれながら見えていなかったわけではなさそうなのは、目の周りの筋肉が退化していないから分かります。それに気づいたとき、つい声を掛けてしまいました。
 目が見えないのですね。
 彼はゆっくりと微笑みました。まるで、私が慰められているような気持ちになりました。号令以外でかける声はか細くかすれて、子供のようでした。だから彼は微笑んだのかもしれません。彼は喉が潰されていて、声が出せないのを、私は知っていました。
 体が動かないのですか?
 うなだれているのは、神経が麻痺しているせいだと知っていました。回復しては退化していく繰り返しをしているように見えました。彼は微笑むばかりです。私は癒されたような気持ちになりました。きっと錯覚でしょう。彼は眩しいものでも見るように目を細めます。私は、彼が喋れたらいいのに、と思ってしまいました。こんなところではなくて、外で出会えたら一目で恋に落ちてしまいそうだ、とも思いました。もしかしたら私は知らずにまいっているのかもしれません。感情を揺らされるのを、私はあまり好みません。
 早く、彼が移送されてしまえばいいのに。


 男は夢を見ていた。体は動かなかったし、目は見えなかった。魔術回路はずたずたで、神経を道連れにやられていた。これは夢だと思った。注がれる光で視界は白かった。出発点はもう忘れていた。目的だけがあった。手段は常に納得できなかった。自らは機械だった。救いたいのは嘆き悲しんでいる人々だった。
 自分の死すら、何かの助けになるのなら、それはとても満ち足りた事だった。こんなにも余すところなく、成るのなら、幸せだった。


 彼が移送されたのは、そう思ってから数日もたたない頃でした。迎えの護送車はやはり威圧感を感じさせる事だけを目的としたような車で、来たときと同じように芋虫みたいに彼は詰められました。私は彼の表情を思い出していました。あの微笑みの意味を考えて、考えて、考えているうちに車は走り去っていきました。
 車が塀の向こうを出る頃に、あぁ、きっと彼は人間ではなかったのだと、そう納得して、そして忘れました。数日後、テレビで死刑が執行されたとニュースで聞きました。死体が消えたらしい、と噂が流れてきましたがもう関係のない事でした。