つきの触手
空にかかる月はいつだって満月だ。柔らかくて粘着質で、気持ちの悪いものを体中にくっつけては、触手をのばそうと試みている。飴の様にぬらりと、伸ばされる光。 ざっくり。肩から切り込んで心臓を目指して、鎖骨を砕いて背骨を斬って。アーチャーはそのようにイメージをして斬り込んだ。殺すつもりの一刀で、しかしよけられる事を前提としていた。最速の英雄が、斬られることがわかっている太刀筋を避けられない筈がなかったからだ。だがアーチャーの予想に反して、滑らかに刃は肩に食い込み、鎖骨を割って、心臓に達した。ランサーは微動だにせずにアーチャーの刃を受けて笑っていた。口から力なく血を吐いて、アーチャーの頬に返り血を浴びせた。英霊にも血液が流れている事も、それが鉄くさく、生きている人間の血液となんら変わらぬ成分であろうことも、忌まわしくて仕方がない。その為に呼ばれて、そしてその為に消えるというのに、アーチャーはそれが忌まわしい。忌まわしい自分が疎ましい。頬をすべる暖かいそれは、嗅ぎなれたもので、アーチャーはどうして自分はこのように動揺するのだろうと考える。こんな事にはなれている。それに、殺すつもりで放った一撃が、相手を殺してしまったからと動揺するなんて馬鹿らしいにも程がある。 こんなに呆然としているなら、常々しぶといランサーのことだ、その槍であっという間に貫かれて相打ちになっているだろうに、自分は無傷で、そしてランサーは致命傷を負って笑っているのだった。 「なぁ、アーチャー」 アーチャー、とランサーは囁いた。綺麗な低音で、アーチャーは突然泣いてしまいそうになって、顔をゆがめた。ランサーはアーチャーのその目の無防備さにひどく驚いてはいたのだけれども、アーチャーは動揺していてそれには気がつかなかったし、ランサーも気づかせるようなことはしなかった。 「今回は、俺が一足先に戦線離脱だ」 こまったなぁ、とまるで何にも困っていないような口調で言うので、アーチャーはどうしていいかわからなくなった。そうして、ただランサーの名前を呼んだ。その声はかすれて力がなく、アーチャーは自分が何にこんなにもおびえているのかと不思議に思った。ランサーはすこし困ったように眉を寄せて、なんでもない、というようにアーチャーの頬の血液をぬぐった。優しい手と指で、アーチャーはそれをはらいのける事が出来なかった。 「泣くなよ」 「泣いてなどいない」 声は震えて、アーチャーは自分はもう少し、嘘をつくのが上手かったはずだと考える。いや、そもそも自分は泣いてなどいないから、うそではないのだけれど、そうではなくて、もっと色々な事を上手く隠せたはずなのに。 赤い瞳を細めて、ランサーはへらりと笑う。 「喜んでくれよ」 お先に逝ってまいりますって奴だよ、と本当に軽く言う。その様を遠坂凛が見たならば、彼女はそれをあの冬の日の城で見たものとそっくりだというだろう。気楽な顔で、つまらない結末かどうかも判断しないその声で。 映画と違って天国では待てないけどな。 「何故だ?」 「何が?」 「何を喜べというんだ。こんな」 理解不能だ、と弱弱しく呟いた。ランサーはすでに槍すら持っていない。膝をつかないのは、やはり彼らしいと冷静ならアーチャーは思っただろう。ランサーの肩を切り裂いた剣は刺さったままで、アーチャーはランサーの前で呆然と膝をついていた。まるでアーチャーの方が致命傷を負ったように見えた。 「なぁ、アーチャー」 柔らかな声だった。その声があまりにも柔らかで、アーチャーは怯えそうになった。彼が恐れるのは、断末魔が優しいという事実だった。恨まれるのならどれほど楽だろう。そうすれば彼は自分がまだ至らないのだと思うことが出来た。自分を憎む事で進む事ができた。断末魔が優しいという事実は、アーチャーを常に打ちのめした。その先の幸福はもうなかったのだと言われているようだった。 幸福を欲張る。これではだめだ、もっと、もっと何かあるはずなのだと。優しい顔で殺される人間に彼は常に怯えた。 「喜べよ」 何を、とアーチャーはもう一度呟いた。何を喜べというのか。四日間は廻り続ける。砂上の楼閣、幻の日常。本当は知っているはずだ。でも、何を? 「この四日間が、化け物に食われ無事朽ちる事を、だよ」 「ランサー?」 いつか話した。ランサーはてらいもなく笑って、俺は天才だろう?と言った。そうしてお前は凡人だ、と。だから本当は殺される事などなかったのだと。ランサーはこの日々を惜しんでなどいない。いつ終わっても良いと思っている。ふってわいた幸運。泡のような日々は、生まれたときと同じようにあっけなく消えるのだ。その裏に、どんな決意が、決断が、悲しみが、喜びが、希望が、絶望があろうとも、当事者でない人間にとって全ては泡のようにあらわれ、そして泡のように消えうせる。 「埋まらない隙間を作ることで、お前が幸せならば、俺はいつまでだってお前に殺されてもいいんだがな」 でもこういっちまった以上、お前はもう俺を殺さないだろう、とランサーは言った。アーチャーは、本当は知っているはずだ。ランサーが一つの鍵で、彼が教会に行かない限り伽藍は埋まらない。 「でもお前は全然楽しそうじゃねぇよ。俺も殺され損だ。そろそろな」 何度繰り返したか、もう覚えていない。時折起こる情景は、他の風景にまぎれて消えてしまう。ランサーは優しい顔をしていた。アーチャーは優しい最期にいつも怯えた。 「これが、最後だ、アーチャー」 剣がずるりと肩から外れて落ちて、ガラスのように割れた。割れた欠片はきらきらとさんざめいて月の光を反射していた。青い髪は夜の空よりもなお暗かった。真っ赤な瞳が細められていて、獣の瞳孔のように光っている。異形だ。アーチャーはいつもそのようになりたかった。本当はいつも。 「そうか、最後か」 あきらめた気持ちも驚きも、なにもなかったのに、出された言葉はかすれて疲れていた。そうだ、とランサーは言ってそのまま大気にとけて死んでしまった。血液も残らず、そしてそれはアーチャーを安堵させた。安堵した自分が、疎ましいと思った。 空の中天で、月は薄汚い触手を伸ばして、何かを絡めとる準備をしている。 |
コネタに入れるか迷ったのですが、こっちで。
茫然自失な弓が楽しかったです。