オルテンシア







 好きな曲はない。鍵盤の上、指先がすべる。足まで気遣えるようになったのは、習い始めて一年目だった。そこからは早かった。ひける曲は多くなる。複雑な演奏も出来るようになる。並ぶパイプ、黄金色に輝いている。でも、銀色のほうが綺麗に違いないと、ステンドグラス越しに透ける光に思う。青いステンドグラスの上に、不器用な六角形のバラ。青、赤、緑。縁取りは黒で、銀色のパイプに映し出される。鍵盤一つ押せば、重厚な音。耳を劈いて、その音量になれるまでには結構かかった。ぼんやりしながらひいていると、時々音の大きさにはっとする。
 弾ける曲は多くなった。好きな曲はない。何曲弾けるようになっても、それは全て讃美歌に過ぎない。歌が祈りならば、捧げる音楽もそのようになるのか、カレンは考えた事がない。
 天にまします我らの父よ 願わくば 御名を崇めさせたまえ

 ぎしり、と長いすが軋む音を聞いて、カレンは演奏していた指を止めた。パイプオルガンの音は空気に長く余韻を残して、あっけなく聞こえなくなった。振動に肌がぴりぴりとするのは気のせいだろう。
「貴方が音楽をたしなむとは意外でした」
「俺だって音楽は聞くさ、礼拝に讃美歌が必要なように、戦いには音楽が必要だ」
 カレンが振り返ると、そこには怠惰そうに長いすに寝そべっているランサーが居た。長いすは木で出来ていて、クッションをおざなりにしいてあるだけだったので、決して寝心地も良くないだろうに問題にしていないように見えた。
「そうですか、音楽は精神を高揚する効果もあると聞きます。私には理解できませんが」
 そう喋るとカレンの目線の先で、ランサーは朗らかに笑った。いつもは自分から逃げ惑うか、極力顔を合わせたがらない彼の、常とは違う姿にカレンは訝しげな顔を浮かべたが、聞くのも面倒くさかったのでそのまま放っておいた。
「理解できないのに、讃美歌は弾くのか」
「理解するもしないも、関係ないでしょう。そもそも関係ないから、私はそれを好んでいるのです、ランサー。讃美歌も聖歌も感情をこめるものではありません」
 固い革張りの椅子から立ち上がって、ぼんやりとパイプオルガンを見つめるとそれは薄れて消えてしまった。幾本にも連なる山形にそろったパイプも、二段組みの鍵盤も、あっというまになくなる。真っ黒な鍵盤は指を置くたびに緊張するものだった。まるで間違いを許さないかのような色をしている。
「また随分と大きなものを持ち込んだな」
「大小など問題にもなりません。概念は大きさには左右されないでしょう」
 カレンが滑り込んだ際に持ち込んだ異物は、礼拝堂の中に常に存在は出来ない。彼女が望んだときにだけ現れ、そして消える。消えた跡には瓦礫の欠片が埃をかぶって落ちていた。それが窓からの光に照らされてカレンの目によりいっそう廃墟じみて見えた。
「いや、マスターにそれほど愛するものがあるなんて少し意外でな」
「それには訂正を要求いたします。私が愛しているのは天上に居られる主ただ一人です」
「嘘じゃないところが恐ろしいな」
「……褒め言葉と受け取っておきましょう、ランサー。含みはあるようですが」
 廃墟じみたその教会は、朽ち果てる前よりも幾分か神聖にランサーには映った。あの真っ当に狂っていた神父の淀んだ空気を打ち払うような荘厳さだった。巨大なオルガン、幾本ものパイプ、天使の彫像に、ステンドグラスから光が降りてくる。それを弾くシスターは性格はともかくとして美しい。あぁ、そうだ、あの淀んだ教会などよりよっぽど良いというものだ。
「含みなんてないさ、いや、その主ただ一人の為に死んでいくのかと思ってな」
「無粋ですね、ランサー」
 シスター・カレンはかすれた金色の瞳をひそめてそういった。ランサーはカレンの言葉に肩をすくめて、悪いな、と悪びれた様子なく謝った。礼拝堂の空気は埃っぽく、カレンはいつも少し息がしにくそうだった。彼女はゆっくりと胸の前で手を合わせる。修道服の袖からは包帯の巻かれた白い腕が見えた。
「あまりにも無粋な問いなので、答えてあげましょう、駄犬」
 カレンは美しく笑った。瞳は冷え切って、水晶のようだった。彼女の酷薄さには暖かなとび色は似合わないとランサーはいつも思う。彼女にはアイスグレイの、あの冷たさのほうが似合いだ。鏡のようにすべてを返して、そしてただそれだけだ。その身で悪魔を告発し、そして傷つくシスターは出来すぎているとランサーは思う。
「そうです。私はただ主の為に死ぬでしょう。祈れ、働けと主はおっしゃる、私は私の運命を受け入れ、それに従います。結果など何にもなりません。私は、そうですね、言うならば正義に従いましょう」
 正義か、と思わずもらすと、カレンはその瞳を閉じて笑った。ランサーはそれを見て、嫌なものをみた気持ちになる。偽善も偽悪も、偽ることには変わりなく、等しく無意味だ。限られた時間の中で、わずか偽るのなら幸せも演出できるだろうが、永遠に続く時間の中でそれがいかほどの意味になるのか、ランサーは舌打ちをしたくなる。正義とは何かと途方もない問いを、そしてそれすら飛び越してあやふやに突き進むしかない男を、ランサーは蔑む。
「何か思うところでもあるのですか?正義とは道理にすぎないと私は信じています。ただの理屈です、生き残り食い破ったものの論理にすぎません。そして、私はその論理に従い、この役目を受け取ります。そうして生きていくでしょう」
 祈りを捧げる姿で、カレンはそう呟いた。自らをゆだねるその流れをただの論理だと言い切り、なおそれに自ら全てを預けるという。
「冷たいな」
「そういいながら私を蔑む、貴方ほどではありません」
 ゆっくりと開かれた瞳はかすれた金色で本当はほとんど見えていないのをランサーは知っている。そのままあらゆるものを失って、最後には命さえ落とすのだと、そうわかっていてもランサーは腹立ちはしなかった。そう決めたのは他ならぬ彼女であって、そうしてその生き方を時々蔑んでいる。あまりに受動的すぎ、そしてあまりにかたくなで、ランサーには理解できない。
「それに手厳しい」
「そうでしょうか?やはり貴方ほどではありません。愛していると嘯くその口で、貴方はあの弓兵を蔑んでいるのでしょう?」
 その生き方を。
 瓦礫だらけの礼拝堂は淀んだ空気をもうすでに欠片も残しては居なかった。ランサーはぼんやりとアーチャーのことを考えた。
「嘯いてなどいないさ」
「蔑んでいないと答えると思いましたが、貴方は冷淡ですね」
 ランサーは笑った。酷く美しい相貌をしていた。彼は神の子で、人間ではないほどに美しいのをカレンはおぼろげに知っていたが、それに心を動かされる事がなかったので、よく理解できなかった。彼はあの弓兵を愛していてカレンが一言で亡き者にする正義に理想を抱いて、希望を持って、そして矛盾する弓兵を好んではいたが、蔑んでもいた。愛してはいても。
「貴方は美しいけれど、冷淡です」
 オルテンシアの名をもつ修道女は静かにそういった。



アジサイの花言葉らしいです。貴方は美しいけれど冷淡だ。
カレンにぴったりだと思ったのですが、ランサーに振ってみました。微妙だ…。