それを故郷とせよ
「ここから見える夕日はきっとうつくしいと思うの」 パラソルの立てかけてある、けれど波打ち際でイリヤスフィールは言った。自らの真っ白な足先を透明な水に差し入れてシレンのように笑っていた。足の指の先から、垂れ落ちる水滴はきらきらと真昼の太陽に照らされていた。この島の、とイリヤスフィールはベンチに腰掛け微笑んでいた。パラソルの刺さった砂浜を波は削ってその度にぐらぐらと揺れた。揺れるたびにイリヤスフィールの真っ白な顔の上で虹色の光が動いて、それに彼女は顔をしかめた。虹色のパラソルなんて、センスがないにも程があるわ。 「ねぇ、奇跡って見たことある?」 彼女は少し離れた場所でつまらなそうな顔をしているランサーに問いかけた。強い太陽の光にあたってなお、焼けることをしらないだろう肌の白さにイリヤスフィールは憤りたい気持ちになった。髪の青さも、赤い瞳も、なにもかもが遠すぎ、あまりにも違いすぎるので気づかずにいてしまうほどだった。 「魔術師が起こせる奇跡じゃない。いずれ追いつくものではない。力でも想いでも、まして技術や手法なんかじゃない。決して追いつくことのない、起こりえない奇跡よ」 イリヤスフィールの声はいつだって高く、時折騒がしく、はっとするほど静かだ。見かけよりも長く生きていると感じさせるときもあるが、年相応だと思わせるところもある。もっともホムンクルスにとって外見の成長など飾りにすぎない。風は潮の匂いを運んでくるが、それは薄暗いものではなくてどこまでも底抜けた明るさを伴っていた。甘そうにぬるんだ緑色と群青の境目で凛や桜や、士郎がはしゃいでいるのが見えた。 「何の話だよ」 ランサーはイリヤから少し離れた場所で、どこともなく視線を遠くにやっているようだった。イリヤはそれを見ながら、一体ランサーが何を見ているのかを考えたのだが徒労に思えてやめてしまった。所詮彼らと同じ物を見ることはイリヤにはできない。波がまたパラソルをさらって、ゆらりと揺れた。パラソルの端から見える空は影の暗さも相俟ってあまりにも青く、イリヤは赤い瞳を細めた。 「祈りが、届けられるまでの時間の話よ」 意味がわからないな、とランサーは軽く答えて立ち上がった。ぱたぱたと砂をはらって、イリヤのところまで歩いてくる。見かけに似合わない力で虹色のパラソルを引き抜いて肩に担いだ。とつぜん差し込む光にイリヤは目を瞬かせる。視線の先ではにやりと人を食ったように笑っているランサーがいて、彼は無造作にイリヤの頭を撫でた。ほら、と顎で士郎たちを指し示してランサーはどこかへと行くようだった。真っ白な砂浜を、歩きにくさなど感じていないかのように軽い足取りで歩いている。 「これ借りてくわ」 ひらひらと片手を振って歩いていくランサーに、イリヤはため息をついた。 「ランサー」 白い髪を揺らして、彼女はランサーに声をかけた。 幻に、祈る事など可能だろうか。 真っ黒な高台の上で、座り込んでいるばかりのアーチャーをランサーは見た。高台はきりたってするどく、海へのちょうど良い飛び込み台のようだった。パラソルは開かれたまま、ランサーの肩にかかっていて、ランサーの頬に赤や白や緑の、節操のない原色を投げかけれていた。高台までの小道は小さな下草がまばらに生えて、砂浜よりもむっとした匂いがした。緩やかな坂の頂上は抜けた青空しかなく、ランサーはそれに目を細めた。青空がもたらす開放感は、大きいというのにまったくあの弓兵は何をやっているのだろうと思う。どうせろくな事はやってはいまい。英霊に熱射病もないだろうが、暑さを感じないわけでも、まして疲れないわけでもない。陽光に焼かれ続けて微動だにしない男に、苛立ちながらもランサーは歩を進めていた。 太陽の光は眩しくむき出しの地面を暖めて、湿気を含んだ風はランサーの体にまとわりついた。それは海風にしては乾いた風で、喉の奥が痛くなってしまいそうな気がした。ぱたぱたとシャツが音を立てる。真っ黒な高台の上は不思議に滑らかで、ランサーはアーチャーの変わらない背中を眺めた。自分が来ていることに気づいてない訳もないのに、こちらに注意を払わない事に、調子が狂った。アーチャーの常ならば、振り返って嫌味の一つくらい言うだろうに。 ランサーは、高台の突端に腰掛けてぼんやりとしているのだろうアーチャーの背中を見つめた。漣の音は穏やかで、時折聞こえるはしゃいだ声は幸福な時間の証だった。凪のような海面も潮の匂いも懐かしいような気がするが、錯覚に違いない。 遠く鳥の声が聞こえる。ぱつん、と合間に何かがはじめる音がした。 アーチャーとランサーは、存在の成り立ちが違う。人間ではない、というところだけが共通していて、それすらも結果論にすぎない。ランサーは人間の幻想であり、アーチャーは彼自身の妄念だ。だがやはり、どちらも幻であることに変わりはない。 「なにやってるんだよ」 ランサーはそう話しかけながら、傘でも差し出すような軽い仕草でパラソルをかざした。急に日が翳った事でアーチャーはようやくランサーを見る。ぱつん、と軽い音がして、アーチャーの左手の肉が裂けた。ランサーの頬に、はじけた血液がとんで、彼はすこし眉をしかめた。それを認めて、アーチャーは灰色の目で視線を合わせて、あぁ、と気の抜けたように呟いた。 「ちょっとした実験だ」 この身の組成は変えられるのかという、実験だ、と呟くように言って、アーチャーは自分の手に視線をやり、二三度開いたり閉じたりを繰り返した。繰り返している間にもその実験とやらを行っているらしく、爪が割れたり肉が裂けたりしている。 「それにしても上手く出来ないな」 そういって笑うアーチャーの笑顔がまったく平穏なそれと変わりがないのでランサーは盛大に眉をしかめた。高台から見える海には殆ど何もなかった。遠浅のみどりがつづき、珊瑚の生えている場所だけが黒く見えた。今は干潮なのだろう、所々に白い地面が浮き出ていた。 「暇でそんな事をしてりゃ、世話ねぇな」 水平線は丸く、決して海と交わることなく世界を二分している。吸い込まれそうな薄い境界線はけれども絶対だ。絶対などというものが、ランサーは好きではなかった。好きではないが美しいとも思っていた。はっと嘲るようにアーチャーは息を吐き出した。 「そうかね」 そうだよ、と返したらアーチャーは意地が悪そうに、しかし楽しそうにくつくつと笑った。嫌な笑いだった。教会の前で、汚れなどと言ったあのときのようだった。それは血まみれの左手を見たときから感じていた事でもあったので、無理に止めようとは思わなかった。強いて思うことがあるとすれば、お前は嬢ちゃんと契約しているわけではないのだから、無駄に魔力を流すなよ、とそれくらいの事だった。 耐えられないのだ、とアーチャーは言った。ランサーは頬の血液をぬぐいながら、その声に返事を返すべきか迷った。迷って、考えるのをやめた。 「こんなにも、あらゆるものが穏やかで、優しいと」 あの、と血まみれの左手でアーチャーは水平線を指した。褐色の掌から伸ばされた指の爪は割れて、そこからぽたぽたと血が流れては海に消えていった。 「水平線の向こうで、泣き喚いて、嘆き絶望して、それでも助けをまって祈っている人々がいて、そのような人々のあらゆる叫びを無視しているから穏やかなのだと思うと」 耐えられない、とそういってアーチャーは左手を下ろした。薄く絶対的な境界線を目を細めて眺めている。海と空にゆるやかな線を引いた水平線は、そうしてその先の全てを覆い隠す。嘆きも悲しみも、祈りも、幸せも。灰色の目はぼんやりと奇跡を待っているのか、下らない。起こすための取引の、算段でもしているというのか、くそくらえ。 「…てめぇなぁ…!」 馬鹿か、と叫びたい気持ちすら堪えてそう言うと、アーチャーは笑った。その顔に、諦念と、それでもあきらめきれない何かが混ざりこんでいるのに、本当に頭にきた。どうしようもない。この男はどうしようもないのだ。そして、そのどうしようもなさが、この男を男たらしめているに違いない。どうしろというのだろう。こんな男に、怒らされるのも、嫌気がさすのも、途方にくれるのも、本当に心の底から腹が立つ。虹色のパラソルは空々しくて仕方ない。 「ふざけんな!」 首元を掴んで、地面に叩きつけるつもりだった。だがここは高台の突端でたたきつけた先には何もなく、仲良く二人で海へと落ちることになった。視界がぐるりと回って、どちらが海でどちらが空か一瞬わからなくなった次の瞬間には海に落ちていた。水は思っていたよりもずっと冷たかった。海面にあがると、近くに突然の行動に驚いたらしいアーチャーがいた。驚いているにもかかわらずどこか苦笑を滲ませているように見えた。何に対して苦笑だか、あまり考えたくはない。 「ランサー」 「なんだよ」 今だ傷を塞ぎさえもしない左手で、アーチャーはランサーの髪を手に取った。海中でゆれて、それは酷く美しかった。 「君の髪は常々青いと思っていたが、まさか海より青いとはな」 驚きだよ、というアーチャーにランサーはぐっと詰まって、どうしたらいいかその瞬間に途方にくれた。血はすぐに海水にとけて見えなくなってしまう。当然だ、海は何ガロンもの鯨の血ですらすっかり飲み込んでしまう。はしゃいでいる子供の声がして、それはこの場所とすっかり続いているというのに。 幻の祈りなど、届く事があるだろうか。 もどるか、とアーチャーが言った。ランサーは毒気を抜かれてどこかに置き去りにされた怒りに何か取り返しのつかないものを感じながらも、そうだな、と答えた。あんな高台の上で一人どうしようもない事をしているくらいならば遠坂凛の隣にいるほうがどれだけいいだろうと、思ったのも確かだった。パラソルを高台においてきてしまった事に今更気がつく。海の水は思った以上に冷たい。 楽しそうにはしゃぐ声が木霊していた。漣は穏やかで、荒立つ波などなかった。完璧な南の島で、そしておそらく刹那の幸福ですらあっただろう。聖杯戦争の現界の記憶は英霊には残らない。アーチャーといると、ランサーは自分はひどく無力なものだと思ってしまいそうだった。そんなのはごめんだった。 「私は無力すぎる」 幻の祈りは聞きどけられない。言葉は何にもならないし、彼の左手は元通りになって、傷など跡形もない。 「ランサー」 イリヤはランサーに声をかけた。波が彼女の白い足をさらっては、足の下の砂を持ち去っていた。真っ白な砂浜は砕けた珊瑚の死骸で、太陽の光を反射してあますところがなかった。 「ある国のね、寺院の前にとても質素な像があるの。石でできていて、表面が磨き上げられたわけでもなく、特別優れた造形をしているわけでもない。でもその像には幾百人もの人間がやってきて、祈りとともにその像の足を優しく撫でるの。その為に、その像の足はすっかり磨り減って、そうね、きっともう数百年したらなくなってしまうと私は思うわ」 にこやかに笑う、イリヤスフィールはホムンクルスであろうと生きている。肉をまとった生き物だ。士郎も凛も桜も、サーヴァントのマスターたちは肉を持って、ただ今を生きる人間にすぎない。そしてまたランサーやアーチャーもかつて肉をまとっていただけで、いまや魔力で肉があるように見せている、ただの幻にすぎない。 「そうしてまでも、祈りは届くのかしら?祈りが届くまで、石像の足が磨り減るまで。ねぇ、幻の手は、祈る事が出来るのかしら?」 「……何をいってるか、俺にはわかんねぇよ、嬢ちゃん」 |
…もう槍と弓とイリヤの性格なんてわからない!
このイリヤ、口調が凛だよ!