祈り捧げられる石像の足。触れる手ですりへる。それがなくなるまでの時間。それよりももっと長く。

 風は潮の匂いを運んでくる。白い太陽がきらきらと海面を照らしている。甘そうな緑色のとろりとした水の色。ざらざらと粗い砂浜の波打ち際の辺りではセイバーや凛や桜、士郎が遊んでいるのが見えた。イリヤは砂浜に突き立った虹色のパラソル(彼女は本当にセンスないわ、とパラソルを見ながら非常に不満げだった)の下でメイドを二人従えて笑いながら士郎たちを見ているようだった。先ほどはしゃいでいたからきっと疲れたのだろう。
 真っ黒な高台の上で、アーチャーが座り込んでいるのをランサーは見た。高台は切り立ってするどく、二メートルほどの高さで、海へのちょうどいい飛び込み台のようだった。ランサーは肩にパラソルを担いで、砂浜から高台へと続く小道をぺたぺたと歩き出した。英霊に熱射病も何もないだろうが、これは視覚の問題で、要はアーチャーが木陰にも入らずに一時間も二時間も、そうして日に当り続けているのを見るのが暑苦しくてしょうがないのだ。太陽の光は眩しく、むき出しの地面を暖めていた。湿気を含んだ風が道の間を通り抜けてはランサーの身体にまとわりつく。シャツのすそがはためいて、ばたばたと音を立てた。
 真っ黒な崖の上は不思議に滑らかで、そこまできてはたとランサーはこのパラソルを一体何処にさすつもりだったのだろうと考えた。岩には生憎ささらないし、持ってくるだけ損だった事に気づく。今更気づくなんて大分頭をやられている。暑さのせいにしようとすぐに決めて、ぼんやりと崖の突端に腰掛けて、海の向こうを見るばかりのアーチャーの背中を見つめた。
 漣の音は穏やかで、どこまでも凪のような海面が続いている。潮の匂いは懐かしいもののような気がするが、さて、海に縁深かっただろうかと考える。海は広大で果てなく思えるが、障害にしかならないような気もする。ランサーが歩を進めれば岩のこすれる音がした。アーチャーはおそらく背後のランサーに気づいているだろうに振り返ることもしない。その様子を見てランサーは、パラソルまで担いできて自分はまるで馬鹿のようだと笑ってしまう。遠くはしゃいでいる声が聞こえる。合間に、ぱつん、と小さな何かはじけるような音がする。ランサーは英霊で、一般的な人間よりも力も体力も技術もあるから、パラソルくらいの重さは負担にならない。ならないので、まるで傘でも開いて気軽に日にかざすような仕草で、アーチャーの頭上にパラソルを差し出した。
 急に日が翳った事でアーチャーはようやっとランサーのほうを向いた。ぱつん、と軽い音がして、アーチャーの左手の肉が裂けた。ランサーは、またしょうもないことをやっているのだなぁ、と半ば呆れ気味に思いながら、口を開いた。
「なにやってるんだよ」
 潮の匂いにまぎれて気がつかなかったことに多少の不覚を覚えながら、ランサーはパラソルを持ったまま、アーチャーを覗き込んだ。アーチャーは灰色の目でこちらを見てから、あぁ、と気の抜けたように呟いた。
「この身は魔力で出来ているだろう。魔力で構成されているという事は、組成を変えて、何か別の物質に変化したりするのだろうかと思ってやってみていたのだが」
 元々、魔力の流動は得意ではなくてな、と付け足してアーチャーは自分の手に視線をやり、二三度開いたり閉じたりを繰り返していた。繰り返している間にも、何かを試みているらしく、爪が割れたり忙しい事この上なさそうだ。
「上手くできんのだよ」
「どうしてこんなところにまできて、そんな事考えたり出来るのか俺は不思議だよ」
 聖杯戦争は終結。協会にも、教会にも、英霊が現界したままだなんて異常事態もばれずに、大聖杯の解体まで出来て、気持ち悪いくらいの大団円だ。あらかたの事が落ち着き、小旅行くらいなら出来るだろうと、連れ立ってやってきたアインツベルンの所有する南の島。
「ここは、もう、普段の憂さもしがらみも忘れて、何もかも楽しむところじゃねーの?なかなか綺麗なところだしよ」
 そういってランサーはアーチャーがぼんやりと見つめていたらしい高台からの景色を見る。海には殆ど何もない。他の島の影も、船の帆先も何も見えない。ただどこまでも遠浅の碧が続き、珊瑚の生えている場所は黒っぽく、今は干潮なのだろう、所々に白い地面が浮き出ている。
「衛宮士郎がいる限り、私に平穏など訪れるか」
「そりゃ、業の深いことで」
 水平線は丸く、決して海と交わることなく世界を二分している。吸い込まれそうな、薄い境界線。はっ、と嘲るように吐き出される息に、ランサーはため息をつきたい気持ちになる。
「無論、冗談に過ぎないのだが」
「…お前の冗談は冗談にきこえないから困るな」
 困るか、と返されたので、素直にとても、と返したら、アーチャーはくつくつと笑った。嫌な笑いだな、とランサーは思ったのだが、その嫌な感じというのは、血まみれの肉が裂けたり、爪が割れたり忙しい左手が目に付いていた時から感じていたので、なんとなく止める気にはなれなかった。強いて思ったことをあげるなら、お前は嬢ちゃんと契約をしているわけではないのだから、無駄に魔力を流すなよ、とそれくらいの事だっただろう。
 耐えられないのだと、零すその声に返事を返すべきかランサーは少し迷った。迷って、考えるのも無駄な気がして、耐えられない?とそのまま聞き返した。
「時間がゆっくりと流れすぎて、こんなにもあらゆるものが優しく見えて、穏やかだと」
 良いことじゃねぇか、とランサーは返す。あらゆるものが優しければ優しいほど、おびえるほどランサーは執着していないから、そう返す以外答えが見つからなかった。やはり弓兵は笑ったまま、君らしい、と呟く。
「こうしている間にもあの丸い水平線の向こうでは泣いて嘆いて、救いを祈ってる人が居て、そういう人間のあらゆる叫びを無視してるから、穏やかなのだと、思うと」
 耐えられない、と目を細めて言う。水平線はすっと海と空にゆるやかに線を引いて、そうしてその先を覆い隠している。嘆きも悲しみも、祈りも、幸せも。灰色の目はぼんやりと、ありもしない境界線を見ているのだろう。虹色のパラソルがすかす太陽の光は空々しくて仕方ない。確かに、センスがないもんだ、とイリヤの言ったことを今更ながらに思う。馬鹿な奴、と口の中で零せば、アーチャーは笑うだけだった。
 嫌な感じだ。じれったい。眉間に皺を寄せているランサーを見て、いつもとは逆だな、とアーチャーは言う。そう言いながらたちあがったので、ランサーもパラソルを持ったまま立ち上がった。左手の指の先から、血がこぼれている。しょうもない男だな、と負け惜しみのように思った。アーチャーの、どうしようもない悪癖に対しての感想でもあったし、滴る血を涙のようだと思った自分に対してのものでもあった。
 戻ろうか、とアーチャーがいった。ランサーは、こんなところにいるよりも、あの嬢ちゃんの隣にいるほうがどれだけ良いだろうと思ったので、一も二もなく賛成した。パラソルをさしたままでゆるやかな坂道を降りようとすると、不意にアーチャーが立ち止まって、振り返る。ランサーはすぐについてくるのだろうと特に何も言わなかったが、二三メートル離れてから追ってくる気配もないのに、振り返った
 楽しそうにはしゃぐ声が木霊している。漣は穏やか。完璧な南の島。刹那の幸福、と弓兵は感傷と共に思っているのだろうかと邪推する。その横顔は砂浜から見たあの横顔と同じものだ。ランサーは舌打ちしたい気分になる。アーチャーといると、ランサーはなんだか自分は酷く無力なものに思えてしまう。そうやって、灼ける様な日の光の下で水も飲まずに立っているような男を、木陰に誘う力もないのかと。
「世界は広く、広すぎて、私の手は小さすぎる」

 真っ黒な高台の上で、男はそういった。ランサーは虹色のパラソルをさして肩に担いだまま、どうしようもないのだな、とそれだけを思った。それはランサーが自身がどうの、という問題ではなくて、おそらくはそこにたって下らないことを言う、男がどうしようもないのだとわかっていた。わかっていたのに、ひどく焦った気持ちになった。
「これ以上」
 これ以上立つつもりか。こんな岩場で高台で、太陽に焼かれて。この影を受け取れば、いくらも楽になろうというのに。

 言葉は続かない。彼の左手はいつのまにか元通りになって、傷など跡形もない。