ホテルロータス







 それは本当に唐突な一言だったので、昼間にたまたま一緒に居たランサーは酷く驚いてしまい、驚いたと同時になにやら欲情した。欲情したし、はっと胸をつかれたようにも思った。つまりその一言がランサーに与えたものは衝撃と衝動だった。

 二人が暮らし始めて、三日がたつ。本当はもっと長い時間を一緒に居るのだとわかってはいるのだが、体感としては三日目になる。かつて起こった出来事が次の四日の初期配置にかかわるのは喜ぶべき事だった。英霊は人間と意識の働きが多少違っていて、もうすこし俯瞰した位置から四日間を見ることが出来た。自分ではない自分が起こした出来事を自分が起こした事だと認られるだけだったのだが、幾千の繰り返しの中でそれはそれなりに重要だった。
 ランサーは港で長い間釣りをしているし、アーチャーは長い間ビルの上から弓を射っていた。今や衛宮士郎は橋を突破して、教会にもたどり着いている。ランサーのマスター、という事になっているシスターも衛宮士郎は知覚している。終わりは近いが、しかしまだ遠かった。英霊にとって時間はあってないようなものだが、ぬるま湯のような生活の終わりは少しばかり残念だった。ランサーにとってこの召喚は記憶にも記憶にも残らず弓兵の事など忘れてしまうだろう。忘れてしまう、というよりはこの幻と同様に存在しなくなるだけだが。
 一体何回、この槍はあの少年を殺したのだろうとランサーは時折考える。そして何回弓兵と戦ったのかと。いくつかは勝利し、いくつか敗れたのだろうか。世界の外に消えていった記録を辿ることは出来ない。今、かろうじてその断片がつかめるのは、聖杯戦争の終結に至るまでのあらゆる可能性の集合体としての自分だからで、座にもどればそんな時間の存在自体がなかったことになる。何回も複製されていくうちの、劣化し変質したコピーのようなものなのだろうか、と思う。
 そしてこれも、あらゆる可能性の一つの結果にすぎない。今までこのようになったのが何回あったのかをランサーは数える事が出来ない。何回衛宮士郎を殺し、そして何回しとめそこなったのか。隣り合う平行世界をサーヴァントとして無数にわたってもやはり意味はない。答えの出ない事の意味を考えるのは好きではないので、そこでやめにした。とりあえず今、ランサーはアーチャーと共に暮らしていた。
 記憶、記録、過去、夢、どのような言い方も出来るが、それを辿ればきっかけは些細だった。なんとも途方にくれたような顔でだらだらと歩いているのが悪いのだ。ランサーはシスターから逃げながら、そんなアーチャーを見かけて他愛のない話をするうちにそんな流れになった。どうして、ただ在るだけではいられないのか、と自己に対する嫌悪さえ滲ませていうものだから、ランサーはきっとアーチャーは暇なのだろうと思った。暇で、そしてやることがないから要らない事まで考えるのだ。
 求めるものが意味ならばそんなものは存在しない。ただ在るだけならば、すでにこの世界にいるものがみなただ在るだけだ。食事の最中に、食べたい、という事がすこしおかしなようなものだ。耳を塞ぎ、目を閉じて、口をつぐみ、必要とされるまで待っている事が出来ないと嘆いているのか、それともそんな事を考える自分を嫌悪しているのか、ランサーには想像が出来ない。
 ただ、暇ならば目的をつくればいいと思っただけだ。誰かといるのも良い。一人ではない事は時に孤独を増やすが、しかし常に一人でいるよりもいいとランサーは思っている。孤独自体は悪いものではないが、穏やかな時間に一人でいられるのは気が引けるものだ。楽しんでいるものも楽しみきれなくなる。アーチャー自体を心配したわけでも哀れんだわけでもなかった。
 ランサーが暮らしていたのはアパートの癖にホテルと名のついた大層な所だった。一人で暮らすにはすこしだけ広い感のあるその部屋は二人で暮らすと少し手狭だった。賃貸契約には、セカンドオーナーである遠坂凛が力を貸してくれたらしいという記憶がうっすらとあった。何回目の四日間、その三日目に、ランサーはアーチャーの横顔を見た。今まで見た事のない無防備な横顔だった。何を見ているわけではなく、微笑んでいるわけでもない、寝顔のように安らかでもなく、途方にくれたような顔をしているわけでもなかった。ただ、そこに在るだけの無防備な表情だった。
 窓の外をアーチャーは見ていた。静かな午後だった。ランサーはたまたまバイトがなくて、アーチャーがたまたま家にいたのだ。二人は他愛のない話をしながら、何をするでもなかった。暇、ではあるが無為ではない。ランサーはこんなとき、どうしてアーチャーを一緒に暮らそうと誘ったのか、そうしてどうしてアーチャーがそれに乗ったのかを不思議に思う。嫌いではないが、決して仲が良い訳ではなかったので、なおさら不思議だった。けれど問うこともしなかった。
 何を見ているわけではないのだ、と知りつつもランサーはアーチャーの見ている先を見た。そこには窓があり、それは開け放たれていた。最上階にある部屋は夏はひどく蒸し暑かったし、冬は冷えるだろうが、秋口のこの季節では快適だった。空が移り変わる様子を見るのは久しぶりだとランサーは何処かで思う。こんなにも長く限界したのははじめてだ。夏の濃く低い空から一転して、空気は澄み渡り、薄くなり、高くなる。雲は間延びして紗がかかったようになる。良い日だ。
 そうして沈黙し、もう一度アーチャーの横顔を見た。ぼんやりとした目だ。すこし眠そうに瞼が下がっていて、何かをいとおしむような顔にも見えなくはなかった。口が薄くゆっくりと開いて、呟かれた。
「見えない」
「はぁ?」
 目が、と小さな声だった。それ以上アーチャーは何もいわなかったし、空気は変わらなかった。
 ランサーは何か不意をつかれたような気分になった。よくわからなかった。何とはなしにひかれていた一線がいまこの瞬間ふと消えたような感触だった。今問えば、どうして着いてきたのかも何もかもに弓兵は答えそうだった。見られることを意識しない横顔。ランサーはそれを見て、盛大に顔をゆがめた。もっとも、アーチャーには伝わりはしないだろうが。
 例え、アーチャーの正体を知っていても(いや、きっとどこかで知ってはいるのだろう、そして予感している)ランサーは悲しいとか哀れだとか、思わないだろうと思っている。なるほど、そういう形もあるのだと思うだけだ。けれどそれを超えたある一瞬どこかで、とっさに弓兵を悼むことがあった。そうさせるものが時折アーチャーにはあった。なんというかそれは、嘘だとわかりつつ映画の結末を悲しむのに似ていた。ランサーは舌打ちをしたくなる。これだったらまだ欲情のほうがましだ。
「これは少し不便だな」
「そういう問題か、お前なぁ!」
 もはや癖なのだろう皮肉っぽい笑顔でそう言うアーチャーにランサーは思わず声を荒げる。焦ってもしかたなかろう、だとか、そういう問題じゃねぇだろ、やら言い合っているうちにランサーは衝動も衝撃も忘れてしまった。
 やはり穏やかな三日目の午後だった。そうして明日には消える世界だった。その結末を知っていて、いまだ抗うつもりは誰もなかった。誰しもが四日目の夜に眠りについた。この弓兵は別だったかもしれないが、そんな事ランサーは知らない。




アーチャーの横顔が大好き!というそれだけの話。あと睫。