アイン・ソフ







 「釣りの極意を知っているか、イリヤスフィール?」
 低い声は冷たさを伴って鼓膜を撫でる。けれどその声には苦笑の響きがこもっていてイリヤは笑ってしまう。それを見てアーチャーも仕方なさげに苦笑した。イリヤはバーサーカーの肩にのって森を歩き回るのが好きだ。樹の根元に座り込んで、息も絶え絶えな弓兵のその首にはバーサーカーの斧剣が突きつけられている。
「いいえ、アーチャー、知らないわ」
 アインツベルンの城がある森で、イリヤとアーチャーは対峙していた。

 秋も深くなってきた日々に唐突に放り出されたのをイリヤは知っていた。日々に続く記憶がだんだんと埋められていく様を探し出す事も出来た。アカシックレコードにはいくつの世界が刻まれるのかをイリヤは知らない。けれどこれが何処にも刻まれない記憶なのだろう事はわかっていた。ある瞬間からある瞬間へ出来事が飛んでしまう。そのつなぎ目はあまりにも自然だからきっと誰も気づけないだろう。時間は川のように流れるものではなくて、過去も未来も現在も一体となった円のようなものだ、そう考えるとここはよく出来た場だった。
 四日間で閉じられた円環。終わり埋もれていった幾百幾千もの四日間を苗床に、新たに始まる世界。断片をいくつも抱えて、知っている結末の中で、知らない流れを誰かが必死に探している。
「アヴェンジャーを呼び出し、四日間で敗退したアインツベルンの聖杯、役からこぼれて森にこもるバーサーカーのマスター、第五次聖杯戦争の聖杯、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」
 イリヤは引っ張り出してきた革張りのイディッシュの本を読みながら言い聞かせる。本の中にはセフィロトの樹の図が描かれている。10個のセフィラ。この世の東の楽園の中心に立つ樹。
 窓からは秋風が吹き込んできて冷たく、日差しは薄い。もうすぐ森は葉をわずかに落としていくだろう。寒々しい小枝の隙間から見えるうす曇の空は想像するまでもなく目の前にある。
「役どころありすぎて目が回っちゃう」
 一個くらいバーサーカーにまわしてあげたいくらいだもの、と歌うようにイリヤはいう。ぱたぱたと赤い表紙の上を指が遊んでいる。
「アーチャーにも一個くらいはあげたいわ、そうすれば一人で一つくらいになるじゃない?」
 ねぇ、と無邪気に笑うイリヤに手持ち無沙汰で向かいにいたアーチャーは苦笑した。自身がどの役を割り当てられていようとも気持ちの悪い事にしかならなそうだと想像したのだった。
「生憎だが、私にも役は割り当てられていてな」
「橋守でしょう?四日間を守るための最初の鍵、ねぇ、でも」
 私が言いたいことはそうじゃないのよ、とイリヤは本を読みながらいう。
「衛宮士郎の妹、キリツグの娘、タイガとは気が合って、桜とも仲が良い。セイバーをからかうのは楽しいわ。お兄ちゃん、シロウをからかうのは私の生き甲斐なのよ」
 イリヤは少しばかり口を尖らせて、けれど歌うように喋る。アーチャーはそんなイリヤを見ながらどうしてこんな事になったのかを考えている。森に、足を運ぶのではなかったとうっすらと後悔しているが今更そんな事を考えてもしょうがない。そういう、役はないの?とイリヤは問う。無邪気に、とも取れるし確信犯とも取れる。アーチャーは、昼間に舞台には滅多に現れない。この森と城が衛宮士郎を拒んでいるのと本質的には同じ理由で、違うものを含めながらも。
「そうだな、結論を言えば無い、だろうな」
「どうして?」
 幾万もの四日間の残骸。イリヤもアーチャーも聖杯戦争の終わりから続く記憶を持っている。それはいくつも矛盾し、異なる結末を抱えている。イリヤはあるいは死に、あるいは生き残り、あるいは士郎の為に扉を閉める。あらゆる敵を殺し、あらゆる敵に殺される。大聖杯は壊れ、小聖杯はどちらも起動する。衛宮士郎を殺し、衛宮士郎に殺される。
 そこからつづく、無数の春の終わり、夏の記憶、を持っている。ありもしない記憶だ。いま、この四日間も。
「君はわかっているだろう、イリヤスフィール。私は、バーサーカーと似たようなものだ。橋守としての役割以外は大したものはないさ」
 えぇ、そうね、とイリヤはため息をついて本を閉じた。ぱたん、と音がして、机の上に本が倒れた。静かな声だ。
「えぇ、そうね、アーチャー。貴方は本当はここにいない筈のもの。凛と一緒よ、凛は必ずロンドンへ行って、貴方は結局どの終わりで生き残ってもここには残らないんだわ」
 どうして、とイリヤは聞かなかった。唯一テンノサカヅキの影響を受けなかった城。本当の聖杯が守る、古びた古城。ここだけはいつまでも空はうす曇だ。だからイリヤは衛宮士郎の下へ行く。
「アヴェンジャーの聖杯戦争のアーチャーという役割と、この世界を保つためのストッパー、それしかない。そしてだから、貴方は昼の舞台に滅多に現れない」
 凛が帰ってくればあるいは、何か違うのかもしれないけれど、と痛ましいような顔でイリヤは呟いた。イリヤはこの一時の祭りのように穏やかに浮かされた時間を永らえたいと願っている。この時間がどこにも残らなくて、誰の記憶にも残らなくても、今幸せならばそれを永らえたいと思う。本当の自分が生きているのかさえ、イリヤにはわからないけれど。
 「そうだな、まぁ、私の居場所など最初からないのだからいいのだよ、イリヤスフィール」
 イリヤのそんな顔を見て、アーチャーは笑った。苦笑ではない、穏やかな笑みだった。イリヤは聖杯で、全てを知っている。この世界のカラクリも、どうしてこうなったのかも、どうすれば終わるのかも、誰が引き起こしていて、そして誰が誰のフリをしているのかも。
「君は楽しめばいい、心から幸せになれば良い、いくらでも衛宮士郎をからかうがいい」
 ゆっくりと頭を撫でる手にイリヤは複雑な思いで笑った。顔には出なかったから、無邪気な笑顔になったのだとイリヤは信じた。それにそう言いたいのはむしろイリヤのほうだった。
「…いわれなくてもそうするわ、今を楽しむのは好きだもの」
 生命の樹の話。ビナー、ゲブラー、ホド、コクマー、ケセド、ネツァク、ケテル、ティファレト、イェソド、マルクト。そして隠された最後のセフィラ、ダアト、生命の樹の深遠をつかさどるのは知識だ。知る事は限界を悟る事でもある。終わりを見ることは、時々身を切るほどに悲しい。流れる時も、廃棄物のように捨てられていく四日間も、同じシーンの繰り返しも、何もかもが愛おしくなる。
「だからアーチャー、私の城にいるでしょう?」
 彼は世界を回し始めてしまった。いずれ橋を越え、可能性を埋めて、この城にさえ踏み入り、全ての可能性を埋めるだろう。そして世界の終わりがくる。祭りが終わるのは、仕方の無いことだ。始まりがあれば終わりがある。永遠は人の世には存在しないのだ。イリヤはそこまで考えて不意に悲しくなってアーチャーの手を取る。意味はなかったし、そこに見出される救いもありはしない。
 サーヴァントになれとはいわない。再契約を結ぶつもりも無い。ただ、アーチャーが士郎を殺し、やがて殺され、そして飽いたときに、夜の途方も無さにくれないようにしたいだけだ。それに、とイリヤは言葉を飲み込んだ。シロウをからかうのは自分の生き甲斐だから。
「イリヤスフィール」
 アーチャーは困ったように笑う。自分には穏やかな時間を見つめる席は用意されていないのだとでもいうような、笑顔だ。
「だめよ、アーチャー、貴方は私に捕まったのよ」
 森で言ったわ、とイリヤは呟いた。
 森で見つけたアーチャーをバーサーカーと殺気さえ滲ませて追い詰めた。もはや半死半生の弓兵に斧剣を突きつけてイリヤはいった。ねぇ、お茶をしましょう、シロウ。
「釣りの極意を知っているか、イリヤ」
 まるでイリヤの記憶をなぞらえたように弓兵が言う。くだけた口調はどうしてか、イリヤは知らない。彼の内になにがあるかも、本当は知らない。知っているのは、士郎がどれだけ優しくて、どれだけ愚かなのか、そして自分はそれをきっと許してしまうのだと、それしか知らない。イリヤは、だから誇りをもって笑った。
「いいえ、知らないわ、アーチャー」
 だって私がやったのは狩りだもの、とイリヤは言い放った。アーチャーは不意をつかれたようにきょとんとして、それからなるほどその通りだ、と笑った。不意をつかれた顔は存外あの少年と似ていた。
「紅茶を淹れてくれないかしら?」
 凛ばかり、ずるいから、と口を尖らせたイリヤにアーチャーは今度こそ心の底から微笑んだ。




…弓はホロウでイリヤの城にいればいい
とかありえない事いってみる。カバラなんて知らない!