アヴェンジャーはきしし、と笑った。彼は人間なんか大嫌いだ。怖気が走る。気持ちが悪い。彼はまったくの理性を持って人を殺す。熱に浮かされることもない。身体はどんどんと調子よく滑らかにすべりだすけれど、頭は冷え切っている。この刃を首に引っ掛けて横なぎにすれば、ほら老人は自らの重さで回りかけ、自らの重さで首を切断される。老人の顔は、いつも違うけれどどれも同じに思える。 血の匂いをアヴェンジャーは憎む。かぎなれていて、生暖かくて、糞のようで、清らかで、馴染まない。泥のようなものが良い。そちらのほうが慣れている。苦痛なんて、幸福や快楽とどう違うのだろう。 「ばかなおとこだなぁ」 アヴェンジャーは橋の上で笑った。ひゃひゃひゃ、と腹を押さえて笑った。腹の中身は真っ赤で、腸が飛び出している。もう中に戻せないので出しっぱなしにしている。彼の愛しくて殺したくなるマスターは四キロ先のサーヴァントが放つ矢をどうにかよける事に必死だ。 「アヴェンジャー、何をぼんやりしているのです、宝具を」 「あー、悪いがマスター、ちょっとどこにいるかわからない敵にはむりな。位置がわかればあれだけど」 ちっと、マスターは厳しい顔で舌打ちをする。アヴェンジャーは食道を逆流してくる血を口から吐く。腹に穴が開いてるんだから、腹からでりゃいいのにさ、と笑う。 「なにをわらって」 びしゃんと濡れた音がして、バゼットの左腕が飛ぶ。粉々になって蒸発したのか消える。苦痛に顔を滲ませたマスターは、いきなり棒立ちになる。 「マスター、棒立ちは危ねぇよ」 聞こえてないだろうなぁ、とアヴェンジャーは思う。うん、これは聞こえてない。無理だね。左腕がネックなんだよなぁ。困ったような顔をしてる。こっちを向いて、びっくりしてる。 「アヴェンジャー…左」 うでが、という前に、彼女の眉間を矢が貫いた。棒立ちだもんな仕方がない。俺でも打つね、とアヴェンジャーは笑う。そして新都のビルの上を見る。四キロ先の、高層ビルの上。もちろん、見ても見えるわけがないのだが、すぐに想像がついた。昼間の記憶のお陰だろう。 あぁ、腹いてぇ、とまるで空腹を訴えるように軽くアヴェンジャーは言った。視認するのさえ難しい速度でもう一度迫り来る矢をよける術も持たずにただその方向を見る。高層ビルの上の男にはきっと見えているだろう。アヴェンジャーはきしし、と楽しそうに笑う。 「ほんと、おまえは、ばかなおとこだなぁ」 一体何に殉じているのだか、と思う前に矢はアヴェンジャーを打ち抜いた。 かみさまのすきなもの 夕焼けがあんまりにも赤く、見事に沈んでいくのでアーチャーは何かを思い出しそうになった。多分それは、自分を育ててくれたあの義父の何かなのだろう事は察しがついたのだが、それがどのようなものだったのか詳しくは思い出せなかった。思い出そうとする端から何か別のものがぼろぼろとこぼれていくようでもあった。 雲の多い空は、太陽の光をまっすぐに受け取って、気持ちの悪いほど赤い。赤い、どこまでも赤い。ぞっとするような赤さだ、とはアーチャーは思わない。ぞっとするような赤さはこのように透明で美しくはない。それはただ禍々しく、鼻の奥で鉄の匂いがわだかまる様なものだ。 「夕方は、よく魚が釣れるな」 隣では男が釣竿を海面にたらしていた。太公望でも気取っているのかと思えばしっかりと食べるつもりらしい、釣り針は曲がって、ちゃんと魚を引っ掛けるものだった。 「君は、いつも本当に無駄なくらい楽しそうだな」 「そりゃまぁ、そうだろ。こういうのはな、楽しまなきゃ損なんだよ」 どうせいつかは終わるのだから、と何の未練もなく男は言い放つ。アーチャーは時折、そんな男を羨ましく思う。この身は後悔ばかりだった気がする。いいや、本当に、この身は後悔ばかりだっただろう。そうなった時から後悔している。けれど、では一体何に絶望して、何に磨り減り、そして何を願ったのか。何を後悔したのか、嫌なのは、脳内でわだかまる人の悲鳴、嘆き、涙。 涙。 「あの太陽も」 男は静かに言う。 「あの太陽も、沈んでなくなっちまうだろう」 それは、そうだろう、とアーチャーは言う。また明日昇る陽もあるが、それを見られるか、定かではない。サーヴァントである彼らは酷く不安定で、いつ消えてもおかしくはないのだ。 太陽はもうその姿の大半を水平線に隠し、光だけがまだ太陽が生きている事を知らせていた。雲は西から流れ、そして山の向こうへと消え去っていく。男の釣糸が水中で揺れる。水面は、太陽の光をものともせずに緑がかった青で、視線を遠くに移すと、ぽつぽつとまるで縋るように水面が赤く光っていた。 「あれは、綺麗だなぁって思うだけでいいんだよ」 それだけでいいんだ、と繰り返す男の穏やかな顔に、ふと取りすがりたくなってアーチャーは笑った。男はその笑い声に驚いたのか、振り向いてそして目を丸くしてさらに驚いていた。それに更にアーチャーは笑いたくなってしまう。 なにもかもがこの手をすり抜けて、アーチャーはそれを酷く後悔していたのに、結局守れたものはたった一つしかなく、それは酷く傲慢だったというのに。この男は、かの大英雄は、その生涯を掲げて穏やかに言うのだ。 全て、それでいいのだ、と。 「ランサー、いや、クー・フーリン」 思い出話を聞いてくれ、とアーチャーは穏やかに笑った。太陽は水平線の下に隠れ、やがて空は透明な青色に包まれるだろう。ランサーの瞳は太陽よりも赤い。それはぞっとするようなものではなくて、ただただ透明で美しい。何もかもがこの手をすり抜けていくことにもう慣れてしまった。それに絶望する事にもなれて、磨り減ったものが何であるか確かめる事が出来るほどの記憶もなくなった。 「冬の、話なのだがな」 静かにアーチャーは話し始め、男は赤い瞳をいやそうに細める。アーチャーはそれに笑ってしまう。嫌悪するのは、絶望したのは、助ける事の出来なかった人々の悲鳴、嘆き、涙。鼻の奥にわだかまる血の匂い。あぁ、とアーチャーは思う。 本当に潮の匂いは、鉄錆びの匂いと似ている。 ごらん、あれがてんごくだよ、と昔、聞いた。低い声の、やさしい手。じいさん、あれがてんごくなの?じいさんはいってかえってこないの?と手も足も背丈も小さい自分が一生懸命聞くと、煙草を咥えた無精ひげのだらしのない男がうれしそうに笑って。 あぁ、かえってくるよ、あたりまえじゃないか、と、頭を撫でる。その手はやにくさくて、いがらっぽくて、喉にからみついて、安心させる。体を通って、根を張って、雁字搦めで、ここにいてもいいよと叫ぶ。自分の中の空っぽに、ほんのり芽生える欲望はどんなものより浅ましくて。あの場所をめざせめざせめざせ。 真っ赤な夕焼けの水平線。じいさん、本で読んだんだ。あのね、岬に住む人は、檜で作った小さな船で、幾日分もの食料つめて、船の出口をぴっちりしめて、西吹く風が強い日に、船をだすって読んだんだ。真っ赤な西日のさす海へ、そうして、てんごく、いくんだと。 大丈夫だよ、と男は小さな荷物をしょいながら笑った。片足は小さな船にかけていて、何時戻ってくるかもわからないけれど、大丈夫だよと力強く言った。 しろうがまってくれるから、ぜったいにかえってくるよ、と。 自分は泣きたい気持ちになって、水平線に沈む太陽があんまりにも赤くて怖くて、すがり付いて安心したかった。ここにいていいのだと知りたかった。からっぽの中に、住み着こうとする欲望が怖くて、そうしたらきっと自分は、待っていてくれる人間の為に帰ってこれもしない気がして、助けを呼びたかった。小さな気持ちだった。それよりははるかにもっと、どうしたら、こうして笑顔で天国にむかう、男のようになれるのかと考えていた。それは助けを呼びたい気持ちを飲み込んで、切実さだけを残して、焦燥感をもたらして、ねぇ、どうしたら、そんなふうにわらえるのか、おしえてよ、じいさん。 声は出ない。 ほら、もう行かなくちゃ。 汽笛が鳴る。甲高い音。それを合図にしたように、灯台に灯がともる。帰ってくるよ、帰ってくるよ、遠くで手を振る義父の、優しい顔。 もう遠い昔になくした。 最初に消えたものが何だったのか、もうアーチャーには思い出すことが出来ない。消えたものは取り戻す事が出来ないように、削れたものは治る事はないのだ。やがて完成形だった頃の形も忘れ、そうして何を忘れたのか、そもそも最初がどのようなものだったのか、わからなくなった頃に、アーチャーはようやく、最初に消えたものがなんだったのかを考えた。 「聖杯戦争の終わりを覚えているか?」 おそらくそれは、ある戦争の顛末だったのだろう、と考えた。それはただの推測で、多分事実ではなかったし、永遠に正解がわかる事もないのだろう。ただ、どうしてそう思ったのかといえば、それが一番彼や彼らをとりまくあらゆる人々の中の、曖昧で茫洋な事実だったからだった。何事も、固いより柔らかいほうが削りやすいのだろうから。 「あー…んだよ、突然」 ぼんやりと腑抜けた声を出して、ランサーは目を細めた。その赤い目は太陽の光があろうとなかろうとあまり問題はないらしく、どこともしれない水の中をさまよっているように見えた。青く透明な空はもうじき暗闇をつれて、やがて灯台には灯がともるだろう。 「覚えてないのではないか、と思ってな」 「そうだなぁ、覚えてないって言えば覚えてねぇが、覚えてるって言えば覚えてるぜ。あのクソ神父の心臓えぐったなーとか、黒い奴に心臓えぐられたなーとか、金ぴかに心臓えぐられたなーとか」 どうにも偏りがあるその思い出にアーチャーは眉をしかめる。その表情を見て、ようやくランサーはいつもの調子で嫌味なく笑った。二人で話す事は珍しくて、どうにも居心地が悪いのだろう。それ以外の思い出はないのか、と苦々しく問えば、そうだなーと語尾を伸ばし気味にランサーはゆったりと考えをめぐらしているようだった。水の中を泳ぐ魚のような自然さは、アーチャーには羨ましい限りだ。 「あと、どれもお前と戦ったな、とかか?」 「どれも?」 そう聞くと、ランサーは馬鹿にしたように笑った。嫌味のない笑いだった。この場所に居る誰もが、感じている違和感を流してなお安心させるような笑顔だった。終わりまでを納得させるような表情だった。それこそアーチャー望んでいたもののような気がした。 「そう、どれも」 あれ、なにが ほしかった ん だっけ 灯台の灯がともる。欲しいものはいつだって、あんなふうに遠くで輝くばかりだ。 ねむれ、ねむれ、ねむりのうちにかみはあり、かみはわらい、わらい、わらい、わらい、菓子を食むように、いくせんものそのてで、いくせんもの、その口で、すくい、むさぼり、たのしみ、けずり、せかいは、まわり、かみはそのてで、ひまをつぶすように、にんげんをすりへらして、わらう。ねむれ、ねむれ、ねむれ、ねむりのうちに、かみはわらい、わらい、わらい。 神様の大好物は 「私はどれも、覚えていないんだ、ランサー。いや、覚えていない、では正確ではないか。わからないんだ、どうして私は」 ランサーは訝しげな顔をしている。アーチャーは立ち上がって、どうしてこんな事をこの男に話しているのだろうかと考える。じわりじわりと溶けていく石鹸のように、自我が遠い。本当は知っている答えを、確認したいのか、されたいのか。 「どうして私は、あの少年を殺そうとするのだろう」 遠坂凛を愛おしく思ったのだろう、金髪の少女を見て衝撃を受けたのだろう。それはどうして、だったのだろう。自らの形は一体どのようなものだったのだろうか。溶けて消えた、アーチャーは、最初に失ったものは何だろうと考えた。失わされたものは何だろうと考えた。 「私はいったい、どこの誰だというのだろう」 「面白くねぇんだよ、お前の冗談は」 吐き捨てる声に、アーチャーは苦笑した。それは苦笑というには幾分苦味のたりない笑みではあったのだが、微笑みというには苦すぎた。最初に、失おうと決めたものはなんだったのだろう、と考えているのにそれはわからない。 「ランサー、私は、このまま消えたほうがいいのだろうか」 「ここはメビウスの輪だよ、クラインの壷だ。どこへいっても消えられないだろうよ」 預言者のような言葉だった。アーチャーは笑った。それで心は決まったようなものだった。この身が削られるとして、自我が遠くなり、溶けて消え、判断もつかなくなり、何もかもがなくなっても、ただ在れるように在ろうと思った。逃げられないのなら、破滅を彼方におしやろうと決意した。何千回と繰り返される日々の、やがてやってくるだろうその日を、今はまだ遠いものにしようと決意した。 まだこの身に、少年への殺意が、少女への親愛が、その残骸の、跡だけが残っている限りは、それを演じようと決意した。それしか出来なかった。やがて身の裡に弓兵のサーヴァントという外殻だけしか残らなくなっても、それが機能してくれる事を願った。 大丈夫だ、と、願いは幾度も裏切られ、努力は常にかなわなかった。けれど男が笑ったので、違和感も流し去り、終わりさえ許容するように笑ったので、弓兵はそのようなものなのだと思った。そう思うこと自体、既に彼の思考ではなかったのだが、しかしそれがアーチャーにわかるはずもなかった。 「ランサー、頼みがある」 最初に失ったのはなんだろう、と彼は考える。最初に奪われたものはなんだろうと考える。そして最後に奪われるものは一体何なのだろうと、ぼんやりと考える。 ランサーは手馴れた手つきで重厚な扉を開けた。魔術的な施錠をしてあるのだが、解除方法も知っているのであまり意味はない。くずれだす日常はあとわずかだろう、とランサーは知っていたので、遠坂邸に彼は来た。まるで動物の最期を看取るような気持ちに近かった。 ランサーは、過ぎ行く全てのものに執着を持たない。もたれるのも好きではないが、持つのも好きではない。この世は楽しいが、この瞬間に消えてしまっても未練はないし、そうといえるほどに楽しんだ自信がある。選択は常に自分で選び取り、過程には全力を注いだ。結果は、どのようなものであろうと、彼にとっては最善だった。生き急いだのではなかった。その速度は彼にとっては的確な速度だったのだ。ランサーの理想はまさにその速度にあったのだから。 だからこそランサーにはアーチャーが理解できなかった。あの弓兵の理想は常にどこか遠いところにあって、決してたどり着けないものに相違なかった。それを目指して身を削っていく事は、徒労にも思えた。とどかないその手も伸ばす事に意味があるのだと、見やった人間は言うかもしれない。けれど伸ばされた手は一体どうしたらいいのだろう。ランサーは、アーチャーを認めていたし、なんという人間なのだと舌を巻いたが、彼を哀れんだ事もあった。 まさに神の傲慢さで、この人の子は哀れだと。 言った事はない。軽さは、恋人をみてにやける男にいう、幸せそうだ、の一言よりももっと軽かった。なんと哀れなプログラム。ただそれだけだ。なんて幸せな生活、それだけの言葉だ。 夏の日差しは短く、ベッドには届かない。開いた窓から吹き込む風は思いのほか涼しくて、横たわる男の顔は穏やかだ。ランサーはなんと幸せそうな光景なのだろう、と馬鹿にしたように思う。同じ軽さで、悲しいとも思う。 遠坂凛は気が付いた。セイバーに言った一言が、凛にこの弓兵の不調を気づかせた。同じ時間軸に同じ人間が、同じ場所にはいられないのだ。どちらかを削るしかないのなら、世界は自らの奴隷を選んだだけだ。そうして弓兵の中からすっかり衛宮士郎は削れてしまった。 そうして、外殻だけが残った弓兵を、ランサーは揺り起こそうとした。ベッドから見る風景は穏やかだ。窓の外には緑が茂り、木漏れ日をすかし、鳥はなき、ベッドサイドにはやりかけのチェスボード。キッチンには誰に食べさせるでもない昼ごはんが出来ていた。料理が好きなのだと、ランサーはすでに知っていた。この男が何よりも愛するものはこの退屈極まりない日常なのだと。 「おい、嬢ちゃんがくるぞ、おきろ」 サーヴァントは寝ない。寝るものではない。だがアーチャーはやがて自分の名前すら思い出せなくなった頃から、眠るようになった。たくさんたくさん眠る。起きているときは家事をしているか、やはりぼんやりしている。それでも受け答えは弓兵のもので、やはりランサーは彼に驚き、ある意味尊敬をする。 ゆったりとしていた呼吸が不規則になって、焦点のゆらめいた瞳が見える。吹き込む風にふと笑えば、弓兵は答えるように邪気のない笑顔を返した。ランサーはいつかの港の日を思い出して、あぁ、本当に仕方のない男なのだとため息をついた。本当に、馬鹿な男だと。 神様の大好物は、昔から悲劇だって決まっているのだから。 ひかりもやみも、ひとしくあいしなさる、かみさま。 |