春に







 笑うその顔に酷く違和感を抱いて凛は泣きそうになってしまう。けれど、彼女の心の中で吹き荒れるのは、違う、これは違う、という何の要領も得ない言葉だけで、凛のそんな顔を見て、彼は彼女に違和感を抱かせたまま、名前を呼び続ける。
 「凛…?」
 その声はなんて透明なのだろう。なんて優しくて、なんて甘やかなのだ。きっと彼は今なんの自責も自虐も葛藤もないに違いない。自分が呼び出した英霊は自信家で気障で皮肉屋で、自分が大嫌いなくせに自分を捨てられない、そんな人間だったはずだ。凛は彼を呼んだ。彼は凛に呼ばれた。凛は彼を好ましいと思っていたし、彼も凛の事を認めてくれていた。
 「…凛?」
 声音は優しい。凛の頬をすべる手はかさついて暖かい。子供の手みたいな体温の高さで、それは根拠のない幸福のようだった。彼は凛の目の前で笑うのだ。声音も表情も幸せそのものの甘さで、そうして凛は泣きたくなってしまう。

 欠けていくそれに気付いたのはいつだったのか。始まりはささやかなものだった。いつだって崩壊の始まりは小さなものだ。堤防は小石一つ、国は銃声一つで崩れて行く。
 言い訳にもならないと知っていながらも思い返す。始まりは本当にささやかだったのだ。小言が減ったし、士郎の料理に文句をいう事もなくなった。凛や士郎、あるいはセイバーや、港で釣りをしているランサーの前にすら現れる事が少なくなったが、アーチャーの常にある含みがその態度の変化を他愛のない事だと思わせた。
 どうせ一人でなんかやってるのよ、と凛は仕方なさそうに呟いて、士郎はそう言った凛の顔が優しそうな事がすこし気に入らなかったのだが、そんな事をこんなあかい悪魔に言えばどうなるか想像がついたので言わなかった。
 例えば凛と一緒に歩いていてアーチャーが躓くのを見て士郎はからかったり、うちに料理をしにこないな、と清々した風にけしかけたりはしていたが、それは繰り返す日常のちょっとした異常であり、その異常を許容できる事それ自体が既にこの幸福な日常の証だったのだ。
 だから凛や士郎はそれを省みる事はなかったし、もとよりアーチャーはライダーやセイバーのように衛宮邸に暮らしているわけでもなく、衛宮邸にほぼ住み着いた凛の帰りを遠坂邸で待っているらしかった。
 冬が過ぎて暖かくなるのはあっという間だった。たまの雨に寒いと悪態をついて、今日は暖かいね、と笑っていれば春はすぐに来た。聖杯戦争の終わりについて誰も記憶していなく、そして誰ともなくみな互いの事を知っていた。金色のアーチャーが現界している事、セイバーの正体、ライダーやランサーのマスターや真名、キャスターの目的やアサシンの制約。舞台の筋書きのように、士郎や凛やセイバーや、もしかしたら桜も、アーチャーの目的や正体を知っていた。そして、あったのかどうかさえおぼろげなその決着すら。
 その上で流れて行く日常にアーチャーは困ったなとため息をついたっきりで、決して遠坂凛のサーヴァント、という位置から動く事はなかった。かつての町並みも、かつての家も、かつての記憶も、何もかもに執着は見せなかった。見せれば終わりが来るのだと思わせるような頑なさで、その横顔に郷愁がともる所を結局誰も見なかった。

 春の月はかすんでいる。凛は春に死にたいといった老人の事を思い出していた。春のかすんだ満月の日に桜の元で死にたいと歌って、上手い具合に死に果てた老人の事だ。老人は西へ進む。世界の果てには何があるのか、彼は知っていたかもしれない。
 「私ね」
 根源へのたどり着き方も、胎児が見る聖母の夢も、大源が真にどこから生まれるかも、あらゆる断末魔も。
 「私ね、変わらないあいつが怖いの」
 セイバー、と縁側でドラ焼きを食べているセイバーに問いかけた。遠坂凛は自分が美しい事を知っている。翡翠のような瞳が、かの騎士王とは違う美しさをたたえている事を自覚していて、それを有効に使うことをよしとしていた。
 「だって、ここはアーチャーの、二度と手に入らないはずの日常だったはずなのよ?」
 貴女に出会って動揺したほどなのに、と凛は笑った。凛は自分の目の前で凛とした顔をしている少女を眺めていた。その手にお茶菓子があるのが気が抜けてしまって和むのだが、金髪碧眼のその少女はこの世のものとは思えないほど美しくて、春の宵に見るものとしては素晴らしいと思った。凛は初めてセイバーを見た日の事を覚えている。その言葉を覚えている。
 今の魔術は見事だった、メイガス。
 「私には推し量る事も出来ません。もとより、誰にも」
 凛がセイバーに目を奪われたように、アーチャーもセイバーに目を奪われたのだろう。美しさよりも、彼の心を打ったのは一体何だろうと凛は思う。いつかなくした理想?二度とあいまみえる筈のなかった
 そこまで考えて凛は笑みを深くする。そんなものは踏みつぶしてやればいいのだ。
 それが遠坂凛の役割だ。
 「そう?」
 そんな事を思いながら凛は小首をかしげてそうセイバーに聞いた。貴女ならわかるんじゃないかしらと、これは嫉妬なのだろうかと一瞬考えて、違うと思った。
 「ただ、きっと彼は」
 セイバーはなにかを慰めるように、ただそれでも語る事は真実であるように言葉をこぼす。セイバーはサーヴァントであり、英雄だから嘘は言わない。けれどそれいつも思わせぶりで神や悪魔の言葉と同じだ。人間には彼らの言葉は遅すぎる。穏やかすぎると言い換えてもいい。
 「彼は、リン、貴女のその正しさを誇りに思っているはずです」
 サーヴァントとしてね、と凛が吐き出した声は冷たい。これは嫉妬ではなくて怒りなのだ。セイバーに士郎にアーチャーに対する、なんとも理不尽な怒り。凛は彼らのような生き方は出来ない。出来ないほどに彼女は賢く、彼らは愚か過ぎる。春の月はかすんで、凛は桜の下で美しく笑っていた。月は黄色く黄色く、弓兵の目とは似ても似つかない琥珀色で、それは衛宮士郎のものによく似ている。
 

 春はすぎ、やがて夏がやってきた。季節が移り変わるのはとても早かった。まるで書割のようだ。ピンク色のペンキでかかれた桜の背景が舞台袖に去って、こんどは山と海と大きな太陽の背景がやってきたような、そんな呆気なさがあった。その背景を背に食べるアイスクリームは重く甘く、桃や西瓜は瑞々しい、茄子や胡瓜は食道を滑って体を冷やし、季節の食べ物はセイバーを驚かせる。
 どうしてこんなにも、この世のものはすばらしいのか。
 古の騎士王がそんなことを思いながら、ぶらぶらと散歩を楽しんでいた。彼女のマスターであるところの衛宮士郎は今は学校に行っていて、セイバーは散歩を日課にしていた。
 サー・ケイがこの状況を見たら苦い顔をするか、涙を流して喜ぶか、どちらにしろ驚くに違いない。まぁ、しかし、今現在の彼女は円卓の騎士を統べる王ではなく、なんでも美味しそうに食べる、衛宮さんのところの謎の美少女として商店街の皆様に受け入れられていた。おまけにその好感の持てる性格からか、いわゆるおやつというものをよく貰うのである。無条件で施しを受けることをあまりよしとしない彼女が、どうしてこればかりは喜んで受け入れるかというとその理由はただひとつだ。
 騎士王曰く、雑だった。
 何がかはこの際おいておこう。とにかく彼女が生きていた時代、それらは雑だったのである。そしてそれを埋めるように彼女は、カロリーなんていうものは存在しないかのごとく、食べ物を消費している。つまり彼女は今、非常に幸福な気持ちで、美味しい物を味わうための落ち着く場所を探していたところであった。そして彼女がかの弓兵を見かけたのは、そんな散歩の途中だった。
 「アーチャーではないですか」
 突然かけた声に、アーチャーは意外そうな顔をしてセイバーの方を振り返った。ここは公園である。アーチャーはぼんやりと何をするでもなしにべンチに座っていたのだ。セイバーか、と皮肉気にアーチャーは顔を歪めた。
 「私に声をかけるとはめずらしいな」
 「そうですか?知り合いを見かけたら声はかけるものでしょう」
 そうか、とアーチャーは呟いて、それきり黙った。セイバーは少し逡巡したものの、落ち着く場所を探すためにうろうろと歩いていたので、ベンチに座った。それに、アーチャーは少し驚いて、小さく笑った。
 「突然笑って、なんですか」
 少しむっとして聞くと、アーチャーは悪びれずに、口元に手をやり小さく笑い続けていた。こういうやりとりが出来るようになったあたりなんとはなしに馴染んでいるのをセイバーは知る。
 「いや、君はいつも食べ物をもっているな、と思って」
 「なっ!貴方は私を馬鹿にしているのですか?」
 そんな事はありません、と聖杯戦争中であったら言えただろうが、やんぬるかな、今は少し難しい。平日の昼にどう見ても日本人ではない二人組が公園で談笑している姿はものすごい注目の的なのだが、あまり気にする様子はセイバーにもアーチャーにもなかった。
 「まさか。そうしているのもかわいらしくていい。」
 嫌味ではなくな、と笑いを引っ込ませてそうさらりと言ったアーチャーにセイバーはぐっと息を呑んで黙った。アーチャーのこういうところが、セイバーは苦手だ。彼の物言いは時折あまりに、彼女のマスターに似ている。そうなるとセイバーはただの小娘のように、困惑するばかりでどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
 「貴方は」
 どうしてそれを聞いたのかと問われれば、リンとの一件がひっかかっていたからだ、としか答えられなかった。かわらないあいつが怖いの。その凛の危惧はセイバーには実感が出来なかった。彼女の中では、シロウは守るべきマスターであり、アーチャーは共闘関係を結んだ事のある敵サーヴァントで、それは容易に覆らなかった。
 セイバー自身のアーチャーに対する考えや行動は士郎というフィルターを通してしか捉えられなかった。それはある意味正しいのだろうが、同時に間違っているとも思っていた。
 「懐かしく思わないのですか?」
 どうしてそれを聞いたのかと問われれば、失敗しても大丈夫だと本能が囁いたからだ。
 「何をだ?」
 分かっていて聞いているのだろう事に怒りよりも悲しみが立つ。
 「この冬木の土地が」
 全ては舞台の上だから、忘れてしまうからみんな聞いちゃいなよ、と聞きなれた声がした、気がした。
 「わからないな」
 この思考はなんだろうと考えるまもなくアーチャーはその問いに即答といってもいいくらいの速度で答えた。その速さに反して回答は揺れていた。
 「わからない?」
 「うまく思い出す事が出来ない」
 アーチャーは皮肉気に笑うので、セイバーはどうしていいかわからなくなって大判焼きをかじった。セイバーは甘味が好きだ。甘いものというのは、セイバーが生きていた時代には贅沢なものであったし、王の体面としてあまり食べつけなかったのだが、今ではいくらでも食べられる。とても美味しい。
 だというのに、大判焼きはいつもと違ってぱさぱさしていた。セイバーは首をかしげる。今までどんな窮地にたったとて、眠れる時は眠ったし、食べるときは食べた。眠りは常に一定であり、食事は常に等価であった、というのに。
 「なに、どうという事はないさ。君に会えた事は僥倖だよ」
 声は必要以上に暖かく、頭をなでる掌は必要以上に柔らかい。セイバーは困る。きっとアーチャーも困っているのだろうと思う。彼がシロウであったらいいのに、とセイバーは思う。そうしたら自分はきっと彼に怒ったり出来るだろうに、そこまで思って自らを恥じた。彼は例え今だってエミヤシロウ以外のなにものでもない。
 セイバーはだからアーチャーが苦手なのだろう、きっと。

 今一度いうけれど、と凛は泣きそうになって思う。始まりはささやかだった。ささやかだったけれども、それは致命的だった。誰も気づかなかったし、誰も止める事が出来なかった。
 彼はただ一人で満足気に笑うのだ。凛は悲しみよりも怒りが立って、けれどどうしようもなくなってしまう。だって彼の掌はあまりにも暖かく、柔らかく、声は甘やかだ。
 「ねぇ、アーチャー」
 「なんだね、凛」
 「ねぇ、アーチャー、アーチャー、アーチャー」
 アーチャーと、繰り返す。名前を呼ぶ。それだけが彼をつなぎとめる術だとでも言うように。アーチャーはそれを訝しく思って、眉を寄せる。凛の私室は南向きで、午後の光をよく取り込む。ベッドがいつも柔らかいのは、アーチャーが干していてくれるから。
 「士郎の家に来て。一緒に暮らしましょう。大丈夫、ねぇ、契約をしましょう。魔力足らないならパスをまたあけるわ。アーチャー、アーチャー、貴方がもう、アーチャーでしかないのなら」
 英霊エミヤの座には本体がいて、彼は末端で、けれど凛たちとともに暮らす事を選び、削れてしまったのだ。始まりは、些細でどうしようもない。全ては隠そうとした彼のせいだ。決して凛のせいではなく、士郎のせいではなく、セイバーのせいではなく、ただただかの弓兵の責任だ。
 「もう、エミヤシロウでないのなら、サーヴァントとして、私と共に在って」
 凛のその言葉に、弓兵はあっさりと頷いた。その瞳には嫌悪も郷愁も、なにも、なにも、なにもない。

 錬鉄の英霊はいいました。何か大事な事を忘れている、といいました。愛しい少女に向かって笑いかけて言いました。そうしないとここにいられないのだといいました。そうしてまでいたかったのだといいました。そもそも、そういったのは、すでに彼がいろいろな事を忘れていたから出来た事だったのですが、英霊はそれすらもう削れてしまっていたのでした。
 同じ人間は同じ時間にはいられないのです。世界は搾取を行いました。誰もが気が付きませんでした。仕方がありません。世界を沈めた大洪水も最初は雨の一滴でした。