墓石のように動かない 九月になっても太陽はその苛烈さを弱める事を知らなかった。凛は衛宮邸の離れの一室で窓を開けてへばっていた。クーラーはちょっと前からタイマー設定をいじくってしまった為に上手く動かせない。開けた窓からふきぬける生ぬるい風はいまだこの地が夏であることを凛に知らせる。 ここであの皮肉な、凛のサーヴァントが、君は現代の人間かと思わず疑ってしまうほどデジタルに弱いな、と言ったなら凛はそれこそ天地鳴動するような勢いでデジタルの不要さを語り、もしかしたら魔術まで使って部屋を涼しくするのかもしれないが、今現在衛宮邸にはアーチャーの姿はなく、ここ最近あまり見かける事もなかった。パスを通して分かっていたのは随分前で今ではつながりも薄い。 「遠坂、お昼が…ってお前!なんて格好してんだよー!」 「うるさいわねぇ、士郎。暑いんだから騒がないでよ」 律儀にも昼だと知らせてくれた士郎に向かって、ベッドの上でキャミソールとミニスカートというあられもない格好で寝そべっていた凛は、どうせ見えていないんだからいいじゃないか、という開き直りと暑さによって投げやりに答えた。 「…遠坂…まぁ、ともかくお昼だからさ。みんなもうそろってるぞ」 「すぐ行くわ」 今日は素麺とスイカもあるぞ、早く来ないとセイバーが、と続く士郎の言葉を凛は流し聞きながら上半身を起こす。首を回して肩の凝りをほぐしながら、昨日は何時に寝ただろうかと考える。そろそろ時計塔に行く準備をしなければならないし、その為に一回家に帰らなければならないだろう。凛はため息をついて、薄くなったつながりを思う。 とおさかー、と遠くから声がして凛はベッドから起き上がる。窓から見える衛宮邸の庭は午前中に水でも撒いたのかきらきらと光っている。板張りの廊下は気温に反して冷たかった。裸足でぺたぺたと歩いていると気持ちがいい。多幸感は相変わらずふわふわと身を苛む。 居間につくともう既にみんなはそろっていた。今日は始業式だけだったので、学生である凛、士郎、桜は家にいるし、セイバーはいわずもがな、今日はライダーはバイトではないらしく家にいたみたいだ。というわけで居間には遠坂凛以外はそろっていたらしい。 机の上に大量の素麺と、士郎がつくったらしいめんつゆ(自家製というところに凛は士郎の業を見る)、ご丁寧に素麺の上には缶詰のみかんがのっていて、麺の中にはおきまりのようにピンクや青のが何本か、セイバーとライダーがそれを興味深そうに見ている。 「凛、遅かったですね」 「待たせて、ごめんねセイバー」 セイバーが正座をしたまま凛にそう問いかけた。口調はとても静かだが目は笑っていない。この腹ぺこ騎士王は今か今かと凛が来るのを待っていたのだろう。士郎の料理の腕はかなり上手い部類に入り、セイバーはそれをとても気に入っているのだ。いただきます、小さく言って食べ始める。 「そういえば、姉さん、今日学校休んだみたいですけど、どうしてですか?」 凛の向かい側に座っていた桜がそう問う。今日は学園の始業式だったのだ。午前中には終わり、こうしてお昼に皆で集まっているわけなのだが。凛は桜の問いに、あぁ、それねぇ、と軽く答えた。 「明後日には日本を発とうと思ってね。もう学校には伝えてあるから、その準備で。」 だから午後は家にちょっと戻るわ、とも付け加えた。 魔術素養、概念のあるものは服やその他のもののように適当に旅行鞄には詰め込めない。あれこれやっていたら空が白んできたのでそれで寝てしまった。そうして起きたのが昼間なのだからちょっとたるんでる、と凛は自分を引き締めるように思う。士郎は、またロンドンに行くのか、と暢気に言いながら素麺をつついている。隣ではセイバーが無言で食べ続けていた。凛は何回目になるかわからないため息をついた。流れ込んでくる幸福が、暖かな感触が、自分に日常を感じさせない。閉じてしまったパスを押し開いて流し込まれるこの感触は、多分、おそらく、いいえ間違いなく、アーチャーのものなのだと思うと凛はとても困惑する。 春が始まってしばらくたってからそれは始まった。桜は散って緑が花を覆い隠す頃、もうすぐ柏餅でも食べようか、となるような日々に、それは唐突に割り込んできた。最初凛は、自分も気候に左右されるような精神があったのだ、と思っただけだったのだけれど、昼間に突然やってくる映像にこれはアーチャーのものなのだ、とようやく理解した。そのくらいの頃には突然やってくる光景を楽しむ余裕さえあったし、なるほどアーチャーはアーチャーでどうやら楽しくやっているらしいと半ば幸せな気持ちで思っていた。その幸福は彼から流れ込んでくるものか自分のものなのか既に凛には分からなかった。 アーチャーとの再契約を正式な形で結ばなかったのは、単純に自分が時計塔へ行くためであり、その為に英霊なんてものを時計塔に連れて行くつもりは全くなかったからだ。冬木の地にあった大聖杯、トオサカ、マキリ、アインツベルンが二百年前に龍脈のど真ん中に作り上げた強大なシステム、によって現界した英霊達なんていうのは魔術師にとっては格好の研究材料にしかならないし、この地の管理者としての責任も問われるし、まぁ、ともかく良いことなんて殆どなかったからで、そもそもこの地に現界し続けるサーヴァントは冬木市を出ると色々と面倒くさいのだ。 それでも、遠坂家を継いだ当主として冬木市の管理を、アーチャーに任すことも出来たし、その為のレイラインやパスは決して無駄ではなかった。もともと現界するための触媒にはなるつもりでいたし、そのまま再契約を交わすなら交わすで茶坊主、ブラウニー、バトラー、呼び方は様々あるが、とにかくこきつかうつもりでいたのだ。士郎に家の掃除を頼まなくても良くなるし、ロンドンにいても冬木市の様子を知る事も出来る。のに、再契約を結ばず、触媒となるだけにとどめ、魔力供給その他をギブアンドテイクにしたのは、そうせざるを得なかったからだ。 凛は衛宮邸へと生活の拠点を半分移す事にしていたし、衛宮士郎のことを導いていくつもりであり、それは士郎をもう殺すつもりはなくても許すことも認める事もできないアーチャーとは決して交わる事のないものだった。だから、再契約はしなかった。しかし、士郎を選んだからとアーチャーを切り捨てる道理はなく、その為のギブアンドテイクだ。冬木の管理人として、起こる騒動の解決や後始末も手伝ってもらう事は多々ある。龍脈の通る土地である冬木はその土地の特質と相俟って魔術的な事件が起こりやすい。 時折アーチャーは遠坂邸に来ている。何時来てもいいと凛は言ったし、アーチャーもそれをありがたいと思っているようで、時々やってくる。遠坂の屋敷は柳洞寺には劣るもののそれでも霊脈が通っているから英霊である彼には何かと都合が良い。 その日も凛は流れ込む多幸感にふわふわとしながら、初夏の遠坂邸に久しぶりに帰ってきたのだった。といってもそれは実験の材料を取りに帰るだけであり、すぐに衛宮邸に戻るつもりでもあった。 遠坂邸には一応庭もある。というかわりとしっかりとした庭がある。時々士郎やアーチャーが互いに知らずに手を入れているようで、その時ははすずらんらしき花が咲いていた。生まれたときから植えてあった大きな木に寄りかかるようにしているアーチャーが見えた。 「あー…」 凛はその多幸感に後押しされて声をかけようとして思いとどまった。彼にしてはとても珍しい事に寝ていたように見えたからである。赤い外套は目立つのか、それとも暑いのかジーンズと黒いシャツだけで、本を読んでいたのだろう、文庫本が膝の上に落ちている。 珍しいと思うよりも先に、緊迫感のない彼の姿にひどく違和感を抱いた。彼は何かのポーズを常にとっていて、自らの思惑とは何ら関係なく日々を回していくことを容易く行っていたからだ。ぴんと張った糸を常に保ち続けている。というのに木陰で眠っている彼は、常にある眉間の皺もなく、なんといえばいいのか、健やかな、顔をしていた。 凛は何故だかとても愛しい気持ちになって(というのも彼女は彼の生涯を夢を通して幾分か知っていて、その生涯が安らかなものでは必ずしもなかった事をわかっていたので)気配を消して彼に近寄った。 空気は暖かく穏やかで、空に浮かぶ太陽はトパーズのように光を零していた。幹に体を預けて目を閉じているアーチャーに木漏れ日は降り注ぐ。暖かいという事は単純に幸せだ。寒いよりも暖かい方が、孤独よりも共にあるほうが、あてどないよりは終わりがあるほうが、きっと幸せなのだろう。閉じた目にかかる睫は髪同様に白くて、凛はそれが士郎のものと似ても似つかない事を喜ぶ。と、同時に悲しむ。 彼女は一人、アーチャーを見ながら考える。凛が士郎を愛している原因、きらめく原風景、たそがれの夕方に涙が出そうなほど懸命に出来もしない目標に向かい続ける少年の姿。それこそ彼女が愛したもので、同時に忌むべきものだ。 英霊エミヤ。少年の未来の姿。すくわれない赤い騎士。凛は時々、自分が彼を好きなのか、それとも少年を愛しているのかわからなくなる。凛は彼と少年の相似を見つけては、彼はやはり少年なのだと喜び、少年はいつか彼になるのかもしれないと悲しみ、彼が自分を省みなかった結果すくわれないのに憤り、少年をそうしないと決意する。 凛は、自分がアーチャーを想っているのか、士郎を愛しているのかわからなくなる。そもそも二人は同一の存在であり、それは間違ってはないが、しかし正しくもない。時間は一つの軸である。同じ軸上にありながら、場所が違えばそれは既に別物だ。平行世界は平行であろうと別世界である。アーチャーは士郎ではないし、士郎はアーチャーではない。凛は時々混乱する。あふれる幸福感がさらにそれをかき乱す。 さすがにこれでは気づかれてしまう、と思いながら凛は規則的な呼吸を繰り返すアーチャーの瞼に触れた。もう生きてはいないのに、アーチャーの体は温かい。死体というには暖かく、生きているというには低すぎる。呼吸はやがて不規則になり、凛は指を離して、開かれる目を見つめる。少年とはもはや違う褪せた色のない瞳。 「凛」 「おはよう、アーチャー、めずらしいわね」 アーチャーは驚いた様子もなく呼びかけ、凛は常になく落ち着いた様子で答える。麻薬のような多幸感は潮が引くようになくなり、凛は舌打ちをしそうになる。彼は誰かと居るとき、決してこの幸福を流し込むほど持たない。 「君こそ、珍しいな」 「アーチャーが来てるようだったから、たまにはと思ってね」 紅茶でも淹れてよ、鍵開けるから、と凛は言いながら扉に向かう。アーチャーはすこし面食らった顔をしてから、やれやれとため息をついて立ち上がった。本をぱたんと閉じる音がした。凛は風でめくられたページの文章を頭の中で繰り返す。 動かない。世界は墓石のように動かない。 そうして、凛はアーチャーと久しぶりに紅茶を飲んですこしばかり話をした。久しぶりにやってきた家は、衛宮邸で暮らし始めてから三ヶ月しかたっていないにもかかわらず、既に何もかもが懐かしかった。冷たく優しく、重く、そして身体に馴染んだ。 凛は思わず、このままこの家で、アーチャーと共に暮らす事を考えた。しかし少年が待っているのに気がついて、帰るわ、と言った。アーチャーはそれに微笑んで、そうして門の前で別れた。凛は衛宮邸に帰り、アーチャーが何処へ向かったかなど知る事もない。 ただわかるのは、またあの多幸感が押し寄せてきた事だけ。麻薬のように意識を蝕んで、凛はそれを幸福だと思い、同時に苛立つ。世界は、墓石のように動かない。 凛は、残暑の厳しい九月に、時計塔に行く準備のために家に訪れた。素麺は食べ終わって、士郎には夜には帰ると告げた。幸福感は相変わらずで、それはあの初夏の日の焼き直しにも思えた。 幸福感は決して他人と居るときに凛を襲わない。それが無性に苛立つ。幸福とともに訪れる風景は、それと共に訪れるだけあって絵画のように幸せだ。木漏れ日で囁く鳥、零れ落ちる子供の声、咲き乱れる花、本を読んでいるだけのそれもある。凛や士郎やセイバーや、イリヤが団欒する昼の風景。そのときだけ凛は、なるほど自分はこのように見えるのかと半ば感心する。それはとても幸せな風景に見える。 アーチャーは凛に感づかれていると気づいてないのだろうけれど(当然だ、気づかれていたらこんなにも無防備に色々と流れ込んでくるはずがないのだ)凛はそれを強く感じる。それほどに強い、麻薬のような幸福だ。このように強いものは必ずしもいいものではないのだ。確かに凛は、アーチャーに、それはもう、幸福が束になってかかってそれでも敵わないくらい幸福になってほしいのだけれど、それはこのようなものではない。これは、終わりを前に充足する感覚に似ている。何かもが茫洋として曖昧で、かすんでしまう。 それに自分といるとその幸福が流れ込んでいない事は凛にとって酷くイラつく事だった。ある意味ではそれに傷ついていたのかもしれない。アーチャーは残暑厳しい九月の始まりに、やっぱり樹の幹にもたれていた。凛はくらりとする。焼き直し、やり直し、気づきたくなかったこと。 アーチャーは寝ていなくて、幸福感は続く。凛はアーチャーに気づかないふりをする。共有される視界の自分は酷く幸せそうに残暑の下、歩いている。熱気でゆらめいて蜉蝣のように。全てに現実感はない。近くに来てやっと気づいたというふりをして、アーチャーに話しかける。麻薬のような幸福感は 「あら、アーチャー来てたの」 「君こそ、今日は学校ではなかったのか?」 あっというまに消えてしまった。凛は舌打ちをしたくなる。本当にどこまでも焼きなおしだ。 「もうすぐロンドンに行かなくちゃいけないし、学校にはもういってあるから。明後日には発つわ。だからもう学校行かないのよ。」 「うらやましい話だな」 「観光で行くならね。飛行機代も馬鹿にならないし」 全くもう、と凛は笑った。アーチャーはその笑顔に少し面食らったように驚いて、皮肉気な笑みを浮かべた。凛は更に苛立つ。 「ねぇ、アーチャー」 自分の瞳が酷く冷たいのを知っている。アーチャーはそれを見て、眉をひそめる。薄い存在感、は、凛が魔力を供給していないからで、それはあの冬の朝に決めた事。 「…どうして、話しかけられるとそんなに悲しそうな顔をするの?」 出来るならその口をこじ開けて無理やり魔力を流し込んで、契約をして、繋ぎ止めたいとまで思うのに。他の人間から補おうとしない彼はいつだって魔力不足で喘いでいる。だから凛の家にいるのだ。落ちた霊脈は自身の魔術回路を良く回す。必然的に、生み出される魔力は多くなる。 「凛」 アーチャーの声は落ち着いている。落ち着きすぎて、冷え切った鉄のように冷たい。動揺しているとき、必要以上に冷静になろうとしたためなのだと、凛はもう知っていた。 「答えなさい、アーチャー」 九月の暑さは気持ちが悪い。まるでべたりと、まだ世界に残っていたいのだと喘ぐ、泥のよう。その泥は全身を這い回り、不快感は凛の思考を冴えさせる。 「ごまかせそうにないな」 「当然よ」 凛は送られる風景を思い返す。木漏れ日で囁く鳥、零れ落ちる子供の声、咲き乱れる花、本を読んでいるだけのそれもある。凛や士郎やセイバーや、イリヤが団欒する昼の風景。そこには、アーチャーの視界だから当然なのだけれど、彼の姿はない。額縁の中の幸せ、隣の家の幸福。 「…けど、そうだな…君は怒りそうだから」 あまり言いたくはないよ、と呟く。声は一瞬前の冷徹な響きから抜け出して、苦笑がにじみ出ている。彼は自身とは全く関係のないところで日常を回すのが上手い。 泥のようにまとわり付く暑さはきっとアーチャーには欠片も影響せず、触れたら生きているにしては冷たい感触がするのだろう。何よりも凛が苛立つのは、その幸福の風景に、彼を意識させるものが欠片もないという事実なのだ。話しかけられたら消えるのは、ひとえに自分の存在を自覚したくないだけ、のような気がして。 「子供じゃないんだから、怒られると思うならやめて」 出した声は泣きそうにせっぱつまっていた。そんなのは自分にしかわからない程度だったけれど、目の前の彼は人に対しては敏感だからきっと気づいているのだろう。困ったように笑う。 唾棄したい、そんな幸せ。麻薬のような幸福は、いない自分に向けて抱かれるものだから。閉じられたパスをこじ開けてさえ流し込まれる膨大で強大な感情。 自身の消滅を熱望する、あぁ、悲しさを通り越して、凛は頭がゆだりそうなほどに怒る。唾棄したい。そんな幸せ。踏み潰し、粉々にして、口を無理やりこじ開けて、魔力を流し込んで、使い魔にして、絶対服従を命じ、そして。 流し込まれた、あの幸せな風景に、あんたも混じってもよいのだと伝えたい。幸せになっていいのだと、自分を許してやれと。 「以後、努力しよう」 そういって笑う、アーチャーの手にはやはり本がある。 世界は、墓石のように動かない。 |