焦燥をべったりと顔にはりつけた老人が扉に手をかけた男に縋っていた。老人は枯れ木のように細い腕と足で、老人の後ろに続いている幾人もの女子供を導くためにそこにたっていた。そして、救いはその扉の向こうで待っているはずだった。
だが扉はそこに立つ男の手一つで閉じられるのだった。男は躊躇も憐憫も持ち合わせずに機械の歯車のような冷徹さで扉を閉めようとしていた。老人は説いた。自らの後ろに幾人も待つ女子供の虐げられた日々を説いた。そしてそれからようやっと逃れられるのだと、そしてそれはその扉をくぐるだけで良いのだと、だからその手を使って扉を閉じるのではなく開いてくれと懇願さえしたが、男はやはり老人の言葉で心を動かされはしなかったようだった。 「無理だ」 通すわけにはいかないと男は言った。理由を吐くことはなかったが、男が考えている事が老人にはわかった。そうだ、その通りだ。ここにいる奴隷を見捨てれば、何事もなく内紛は締結する。ただそれだけを抑えるために、男はこの地下に逃げ延びた彼らを見殺しにするらしかった。 いいや、見殺しどころかおそらく、ここで殺すつもりなのだろう。 「ここで死んでもらう」 男の言葉はギロチンの刃のように酷薄で冷たかった。顔に焦燥を貼り付けていた筈の老人はすでにあきらめを感じているようにも見えた。かさついて水気のない指で老人は男にすがりついた。縋りつくといってもそれは、懇願ではなく、失望だった。 「お前は、自らが神にでもなったつもりか」 老人はそう呟いた。男の手に流線型の白い刀が握られているのに気がついた。何時の間に手にしたのか、老人にはわからなかった。老人の言葉に男は、笑った。笑っただけだった。ひどく疲れた笑いではあったが、老人には男の表情はそこまでよく見えなかった。 「生き残るものと死すべきものを選ぶなど人間がしていいことではない」 「…俺はただ、多くの人間に生きてもらいたいだけだ」 「そういってお前は間引くのか、ならばいっそお前が代わりに死んでくれ」 老人の言葉はもはやただの八つ当たりでしかなかったが、しかし真実でもあると男は思った。出来るものならそうしたい、と男は口には出さなかった。自分が死ぬことで彼らが助かるのなら男はいつでも自らを投げ出しただろう。だが、現実はそうではなく男が死んで彼らが生き延びれば内紛は激化し、ここで殺す人数の何倍もの人間が死ぬだろう。ならばここで、死んでもらう以外にない。 偽善と蔑まれるのに男はなれていた。人間ではないと吐き捨てられるのは当たり前だった。人間である事を男はすでにやめているにも等しかったからだ。 「咎は全て引き受けよう」 最後には、と男は言った。男の偽らざる気持ちだったが、そんなものが老人や、その後ろでおびえる女子供達のどんな救いになるというのだろうと男は思った。何にもなりはしない。何もかもを救いたくて、何かを切り捨てる覚悟をしたら、切り捨てる事しか出来なくなってしまった。 男の言葉を聞いて老人は顔をゆがめた。それは憎しみにも哀れみにも思えたが、すでに男は救われなく、老人もまた生き残る術をもたなかったので、どちらでも変わりなかった。 「このような事をくりかえして、最後に受ける咎が、お前一人であがなえるものか」 そうかもしれない、と男は答えた。そうして剣を振り上げた。殺したいのではなく救いたいと男は思いながら剣を振り下ろした。老人の後ろで人々はまるで悪魔をみるように男を見つめていた。 |