縁側で、真っ白い足がふらふらと揺れている。しとしとと音もなく降る雨は、その白い足の甲を濡らしている。衛宮士郎は、その足の持ち主の横顔が憂鬱そうに塞いでいるのを見て、少しばかり困ってしまっていた。少女の足は、西洋人特有の血脈さえ透ける白さではなくて、淡く光る青に染め抜いたように白い。雨に濡れるその足は百合の花に落ちる水滴と似ていた。なんとなく声を掛けにくくてお茶請けを持ちながら廊下で佇んでしまっている。忘れたくないな、と士郎はぼんやりと思った。投影をすると記憶が飛んでしまう。それはこのとうに体験した事を忘れているのだろう、と悲しく思う。この少女を忘れたくはないな、と士郎は本当に思っている。けれど、記憶を喪っていくとしても、おそらく自分はその魔術を捨てる事はないだろう、という事もわかっている。 可愛らしくて愛しい少女のその細い足が庭の地面にもつかない事を思うと士郎は戒められた気持ちになった。お前が切り捨てた物はこれだよと、いつも味方をしてくれる優しい少女だよと、声がして士郎は背筋が冷える。取りこぼしたものは、手をはなしたものはとてつもなく大きいのではないかと思ってしまう。 いいや、と士郎は思った。失ったものは大きく、自分は衛宮士郎ではなくなったかもしれない。自分を構成していたなにもかもも捨てて、関係のない、幸せだった人々さえおそらくこの手で殺した事になるだろう。今はまだ、愛しい日常の、色々を失ったわけではなくても、いずれ失うかもしれないだろう。けれどそれでも士郎は、ただのもう上手く立ち行く事の出来ない、衛宮士郎は、選んだものがあった。ささやかで暖かく、幸せな、夢だ。この土地で生まれ、この土地で死ぬ事。たった一人の手をとって、その人の為に生きていくこと。 手放したものはあまりにも眩しく崇高で、失うかもしれないものはあまりにも柔らかく暖かで、犠牲にするかもしれないものはあまりにも尊い。それでも衛宮士郎は、小さくてはかないそれを選んだのだ。 薄く見えるはずのない赤い瞳はそれでも憂鬱にけぶっていた。降りしきる雨と同じだ。冬の雨にはめずらしく音もなく振っていて、それは少女の足を冷たく濡らしている。吸う息は冷たくて、肺の底まで冷えてしまう。 「お兄ちゃん」 ふと、こちらに気づいたのか、少女は士郎を見て呟いた。その瞳は悲しみにかげっていて、けれど奥には優しさがあった。聖母のような優しさだな、と士郎は見たこともないのに思う。 シロウ、シロウと諭すような声は歌みたいだった。 「シロウ、桜を選んだのならそのままでいてね。けして離さないで。」 シロウが大好きよ、と微笑みかける少女は何か重大な決意をした後の静けさを湛えていた。 「私が守ってあげるから、シロウはそのままで幸せになってね。」 音もなく降る雨が百合のように白い少女の足をぬらす。吐く息を白く、士郎は酷く困惑する。そうして搾り出すように話しかける。 「イリヤ?」 声をかけられたと同時に、少女はその赤い瞳をぱっと輝かせて微笑みを顔から洗い流して笑った。シロウ、と響く声は先ほどと違って鞠のように弾んでいる。士郎はほっと息をついて笑った。 「どら焼き食べるか?」 「うん!」 わーい、と子供じみた歓声を上げて少女は居間へと廊下を走る。 「イリヤ」 士郎は少女に足を拭いてから、といおうとしたのだけれども、そんな暇もなく少女は濡れた足で廊下を走り抜けていった。足の甲にたまっていた雫が廊下にてんてんと残る。 士郎はため息をついて、拭かなくちゃいけないなと思う。この雨にどのくらい当っていたのかを士郎は知らないけれど、気温は酷く冷え込んでいるし、暖かいお茶を出すのが先だろうか、と思いながらも、浴室からタオルを持ってきて廊下を拭いた。 廊下にこぼれていた雨の雫はタオルに吸い込まれて跡形もなくなってしまった。 |