もしも、と彼は言ったのだ。 もしもあの駄犬が、彼に似合わぬ足掻きをするなら、どうか殺してやってほしい、と。自分では到底出来そうにないからと。 伽藍の中の、夢のような出来事で、彼は何回も残骸に食われて個体情報をほぼ失っていた。サーヴァントはもともとただの情報体にすぎない。それを魔力で肉付けし、彼らは肉体を得て戦う。情報は複製される。それは何回も複製されるうちにノイズを含むようになり、変質していく。彼の変質が顕著だった理由はただ一つで、四日目の最後、世界の終わりで彼は決して眠らなかったからだ。無限の残骸に食われ、その度に欠損した情報は、もう回復する事ができない。 「どうして、私にそんな事を頼む」 バゼットはそう呟いた。アーチャーのサーヴァントは消滅寸前で、そしてここに四日間の繰り返しはない。彼はゆっくりと息を吐いた。肺の中に残っていた空気が、体の中から抜けるような深いため息だった。 「聖杯戦争で呼び出されたサーヴァントの記憶は記録にもならず朽ち果てる」 彼は、私のことなど忘れたほうがいいんだ、とアーチャーはそういった。 「君は彼のマスターだったからな。カレン・オルテンシアは長くない。もしもあの駄犬が、ランサーが、君からも離反するようなら」 彼を殺してやってほしい、とアーチャーはもう一度呟いた。自分が消滅するその時だというのに、彼は静かな顔をしていた。それとも彼にとって消滅などは些細な事なのだろうか。 愛しているなど、とアーチャーは囁く。 「彼の性分をゆがめるのなら、滅してしまえばいいのだ」 世界の果てでそんな記憶は朽ちればいいと、アーチャーのサーヴァントは笑った。 「ひどい願いですね」 もしもここでアーチャーのサーヴァントが滅びて、彼の危惧するようになるのなら。なくしてしまう記憶を彼が厭って、記憶のあるうちにアーチャーを救おうなどと足掻くなら、そんなものは最初からなかったことにしてほしい、と彼は言うのだ。 ランサーの今世の消滅を持って、全てをなかったことにしろと。 「ひどい願いだ」 もう一度そう呟くと、アーチャーは笑った。この世の隅で、バゼットは、けれどその願いをかなえよう、と思った。 「良い月夜ですね、ランサー」 バゼット・フラガ・マクレミッツは、皮の手袋を軋ませて握り締め、ふわふわと浮かぶ銀色の球体を付き従えて、ランサーの前に現れた。今日は中秋の名月で、バゼットの頭上ではのっぺりと薄く大きな満月が空に張り付いていた。月の端に指をかける事が出来たら、そのまま空まで落ちてきてしまいそうだった。 「良い月夜だな、バゼット」 ランサーは槍を構えた。ここは教会の前ではなく、アトゴウラは描かれず、彼女に左腕はなく、耳には石のピアスがあった。彼女は一人で、ランサーもまた一人だった。じゃり、と踏みしめた足のせいで地面が鳴った。 バゼットは、協会の実行者バゼット・フラガ・マクレミッツは左足を引いて構えをとり、ランサーをひたと見据えた。槍の英霊、クー・フーリンはそれを見て笑った。 「私は一人です。そして貴方も一人だ、ランサー。魔力供給の途絶えたサーヴァントは長く現界する事はできない。むしろよく今まで持ったものだといえるでしょう。貴方には私に勝つ術はない。私の勝利は貴方の消失をもって決する」 私の生存とは関係なく、とバゼットは言外に言い、ランサーはそれを察して馬鹿にしたように笑った。 「バゼット」 「さぁ、ランサー、クー・フーリン。貴方は今世の人ではない。世界に消え去れ、それが望みだ」 バゼットは踏み込んだ。ランサーは何ということなく捌いた。魔力を消費するのは避けたかった。出来るなら、今だって寝ていたいくらいだった。槍を呼び出して戦うのすら、己の残り時間を削った。ランサーは喉の奥でうなった。バゼットの拳を槍で受け止めて笑う。 「誰の望みだ」 バゼットの瞳は淡い色をしていて、彼女は成長したのだとランサーはふと思う。弱いところのある女だったが、それすらも許容した目の色をしている。彼女が吐き出した声は一切の感情の含まれぬ冷たい声だった。 「彼の望みだ、クー・フーリン。今世の事など忘れ去り、世界に消えろ」 それが望みだ、とバゼット・フラガ・マクレミッツは囁いた。彼女は一人で、ランサーもまた一人だった。 |