眠り





 倦怠感に襲われて、瞼を苦労して持ち上げたら雪が降っていた。薄灰色の空からガラスの破片のような雪が降っている。頬に滑り落ちたが、そのまま溶けてはなくならなかった。手足の感覚がないのは、はたして寒さのせいなのか、血液が足りないからか理解は出来なかった。さっきまで遠慮なく体から流れ出て、湯気を立てていた血液も今は大人しく死んだように冷えて固まっていた。
 眠い。
 吹雪というのでもなく、小さく細かい粒がしんしんと降っていた。それはゆっくりと風に遊ばれて、絶え間なく体の上に落ちていく。このままでいくと埋まってしまうとぼんやりと考えた。目の焦点を合わすのが少し難しい。隙間ない雲を見ているとぼんやりとまどろんでしまいそうだったので、視力を落としてみるのをやめた。一面の銀世界、などといえば聞こえはいいが、周りにも何もなくここまで真っ白だと、なにもかもがわからなくなりそうだ。息を吐いても白くならなかった事に、気がつくことができない。なにもかもを忘れてまどろんでしまいそうで、少し怖い。ひゅぅと喉が鳴った。
 空を見るのにも疲れてきたので、ころりと頭を横向きにしたらそこには狗がいた。気配がないので気がつかずに少し驚いたら、狗は笑った。
「アーチャー」
 伸ばされて、頬に届いた手がとても熱かったので自分の体はとても冷えているのだとそのとき初めてわかった。判断力が低下しているのか、そもそも生きているのか。
 名前を呼ぶと狗は嬉しそうな顔をした。青い狗だった。雪が絶え間なく降る中で、自分は冷たくやがて埋もれてそして消えるだろうに、狗は暖かく鮮やかにそこにいて太陽のようだった。
「雪が、とけてしまう」
 どうしてここに? とか、いつからいた? とか、疑問はいくらでも沸いてでたけれど口からこぼれたのは意味のない言葉だった。狗は笑ったまま、とけねぇよ、と言った。言われて、その通りだと思った。体は動かなくぐったりと横たわり、彼は隣で座っていた。
 あまりに彼の髪は青く、瞳が赤かったのでずっと見ていたかったが、瞼の重さに耐え切れずに目を閉じた。青味がかった暗闇は目に優しかった。彼の手は相変わらず顔に置かれていて、自分は彼の熱を奪っているのか、それとも熱を与えられているのか定かでなかった。暖かくなった頬も、すぐに雪と風で冷やされてしまった。眠い、と呟くと狗はそうかとだけ答えた。
 眠気は圧倒的で安らかだった。そういえば、寝た事がないな、と今更気がついた。この眠気が疲労から来るものではなくて、実際ひどく疲れてもいるのだが、身体の機能停止にともなう意識の断絶であることは理解していたが、それにしても眠かった。ゆっくりと訪れるそれは、暖かな海のようだった。
 いつか行ったね、南の島に、と脳裏で少女が囁いた。青い魚も、白い珊瑚も、真昼の月も、紫苑の空も見たわ。終わりの夕日は美しかった。銀髪の少女で、狗と同じ赤い瞳をしていた事を思い出したがすぐにぼやけてわからなくなってしまった。
 もう一度眠いというと、狗はおやすみ、と言った。およそ狗らしくない物言いで笑ってしまいそうになると、頬がほころんでいたらしく、狗はなんだよ、とすこし拗ねたように呟いた。
 いつのまにか暖かさも冷たさも遠くなって、ただゆらりと攪拌された意識だけを感じられるようになった。それもやがてかすみ、深海に引きずられるようにわからなくなった。青みがかった暗闇は優しく海のようで、眠りとはこのようなものだったのだと思い出した。
 浮かび上がれる希望もかすかなままの、眠気はひどく優しかった。