狗は歌っている。 新都のビルには人が居ない。昼間はいるように見えても、本当はいない。おそらく彼らも、本当はここにいない。誰も気づかないのなら、それは真実だ。太陽は白い、空は青い。風は冷たく心地よい。息を吐いても、白くならない。人間ではないこの身の幸いなるかな。寒さに震えることもない。 良い天気だな、と狗がそういったので笑った。屋上のタンクの上で、獣みたいに座り込んでいる。白いシャツとジーンズで随分ラフな格好をしている。彼が、千年以上前の人間だといったとて誰が信じるだろう。自分が未来の存在といっても誰が信じるだろう。真昼間にぶらぶらしているだけならば、働かない怠惰な人間だといわれてもしょうがあるまい。狗は狗らしく、バイトにせいを出してもいるようだ。手元に金があるのはいいことだ。ある程度の自由は金で買える。その金を得るために、不自由をやりすごす。 「良い天気だ、今日も」 太陽は小さく丸い。変化の少ない日々は、必要最低限で回る。限られたエネルギーを節約するがごとく、何も起こらない日々。邂逅さえもないと、心は平穏な気がした。幸福に均されて、ひどい場違いに浮き立つ。 「明日も、明後日も、きっといい天気だろうなぁ」 狗が言う。幸せそうに言う。 「そういえば雨は降らないな」 「きっと降るまで回せないんだろ」 軽い足取りと、人間とは思えない跳躍力ですとんと隣に降りてきた。おー、と馬鹿のような口をあけて、町並みを見ている。人々が小さく蠢いている。平穏な日々の中の、小さな上り下り。ささやかで愛おしい。 ぼんやりとしていると、隣で狗が歌いだした。手入れもしていないのに、指どおりの良い綺麗な髪が、尻尾のようにぴょこぴょこと揺れている。それならば上機嫌なのだろうと勝手に思う。狗の髪は空の青よりなお青い。閉じられている瞼のきれいな白さに眼を細めたくなる。瞼に隠された瞳の、赤さを思う。 水晶よりもなお白く、洞穴の珊瑚よりもなお赤い。 平穏な日々の、ささやかな上り下り。何もかもが優しくて愛おしい。思考がとまって何も考えられなくなる。この手の中の綺麗なガラス細工を壊さないようにするために精一杯で動けない。もうすぐきっと。 狗が気配もさせずに頭を撫でた。節くれだった細い指が、面白そうに髪をすいている。何故だか抵抗する気が起きずに、大人しく撫でられる。横顔を見ると、楽しそうに眠そうに瞼を半分開けて、やはり歌っている。何の歌かはしらないけれど、えらくポップだ。J-POPを口ずさむアイルランドの大英雄に、少しだけ違和感を持つが、そんなものは花屋のバイトの時点で捨ててしまえばいいものなので、気にしない事にした。 低くて良い声だ。鼓膜に優しくしみて、この世界が本当のものだと思いたくなる。この世界が、現実にあって、そのまま永遠にすすんでいくものだと、思いたくなる。凛は嫌がりそうだ、と思って笑ってしまった。この日常が回らない限り、永遠に彼女には会えないだろう。だが、幸福に均されて、場違いに浮き立って、終わりを忌避しそうになってしまう。 隣で狗が歌う。太陽のように歌う。尻尾が揺れて楽しそうだ。自分も笑っている。眠そうな瞼からみえる赤い瞳が愛おしい。こんなままごとのような世界で、泣きそうに幸せな自分にどうしたらいいのかわからない。 相変わらず隣では狗が歌いつづけている。 |