世の中全ての人を救いたいなど馬鹿なというその口は、世界で唯一憎めるものだ。世界全てを救いたいなら自分が救世主だと妄信するのが一番簡単だ。世の中は荒れ果てて、その最後に全ての人々を救う手を自分が持っていると信じるだけでよかった。気が違っていようが、狂っていようが、かまわない。だってどちらも違わなかった。けれどそれを許さなかったのは、手を差し伸べてきた人々のあの真っ白に濁った目だった。薄く膜が張って、焼かれて果てた瞳だ。 だらり、と肩から下がる褐色の腕は馬鹿みたいに重い。自分がいつかこうなるのなら幸いなるかな、と士郎は益体もない事を考える。背が伸びて、体も鍛えられる、きっとこの男のように強くなれるだろう。彼がなれたのだから自分もなれるだろう。士郎は考え続ける。あの日生き残ったのはただの偶然だったけれど、それを確固たる意味にするべく死に果てた彼のその生き様を士郎は信じる。信仰する。切望する。 出発点を同じにしただけの違う存在。この手で助けられるものには限界があるのに、どうして自らの手ですくいたいと願うのだろう。あらゆる不幸が戦いの名の下にあるのなら冷たい安全な事務室で電話一本で近代兵器を動かせるほうがいいのだ、いいに決まっている。その方が人々を助けられるだろう。根本から変えること。けれど、士郎が望んでいるのはそうではなくて、痛いなぁと呟いたあのときにあった泣きそうに幸せそうな顔それだけなのだ。だからこの手で救わなければ意味がない。悲鳴と嘆きと血の匂い、何かが焼ける音、吐きそうなたんぱく質の匂い。そこでうずくまる人々を助けてやること、なのだろう。そうして、暖かく安心できる場所で緩やかに微笑んでくれたらそれだけでいいのに。 ひゅうひゅうと、喉笛の音、耳の側でうるさい。うるさい程にか弱い。片腕がとれたって、あばらがいかれたってお前は生きているんだろう、そうなんだろう。俺だってそうだったんだから、お前だってきっと。 「置いていけ、たわけが」 かすれた声と咳き込む音がする。英霊は消えるだけで死にはしないのにこの惨状といったら全くお笑い種だった。受肉した英霊は消えるときもまるで人間のようだ。路地裏の真っ暗闇で、遠坂凛とはぐれて、衛宮士郎は途方にくれている。背中には息も絶え絶えな弓兵がいた。腹が割かれて、内臓の匂いがする。瞳孔がゆれて、まさに虚ろだ。背中があつい。アーチャーの腹からこぼれ出る血液が背中を伝って生ぬるい。内臓の焼けた匂い。 「馬鹿はそっちだ、阿呆」 返しても、答えは返ってこなかった。耳の側で呼吸音がうるさい。ひゅうひゅうと喉笛の音。このままでは共倒れもいいところだ。遠坂のところにもたどり着けずに、アーチャーはこの背中で息絶えて、俺も死ぬのだろうかと士郎は思った。こんな路地裏の真っ暗闇で。血の匂いが喉をついて涙が出そうだ。裂かれているのが自分の腹で、死にいくのが自分だったらまだよかったのに。 でもそうしたらきっと、背中で息も絶え絶えの男は俺を救うのだろう。やりきってそして消えてしまうのだ。だったら俺は、と士郎は思う。だったら俺は誰しも救いたいと思う。消えていってしまうアーチャーさえ。 と言えばきっとアーチャーは嘲笑して、世界の誰しも救いたいなどと、愚かしいと笑うだろう。そうして士郎はアーチャーを憎むだろう。世界で唯一、掛け値なしに憎悪する。嫌悪する。背中で息絶えるこの男を。 「…凛、に」 合流しろと、捨て置いていけ、と馬鹿みたいに呟く声。あぁ、そうだろう。この背中の重荷を捨てて、足に強化でもかけて、遠坂を探せばいい。二人でいれば逃げ帰る可能性だってないわけじゃない。狙われているのは他ならぬアーチャーなのだから。遠坂はきっと、と士郎は奥歯をかみ締める。ここでこの男を置いていっても遠坂はきっと俺をそしりもしないだろう。あと数分もしないうちにこの男は死んでしまい、凛はそれを悲しんで、そして引きずりもしないだろう。彼女が彼女であるがゆえに。それをアーチャーは喜ぶのだろう。 重い、重い体。いつか自分がなるのかもしれない可能性。虚ろな目、誰かを守って死ぬのならどんなにか喜ばしい事だろう。こんなにも残されるのは苦しいけれど、それが誰かの生きる時間に一秒でもなるのなら。 「…だめだ」 だめだ、生きて会わなきゃ駄目だ。あんたは遠坂に会わなきゃだめだ。自分のような別の存在に士郎はそう喋り続ける。意識のない体が重いのは、もう呼吸音がうるさくないのは、やがて何もかも軽くなるのは。わかっているけれど、士郎は背中に消えかける男を背負ったまま遠坂凛を探す。 「だめなんだ」 こんなにも苦しくて、こんなにも悲しいと、残された側の辛さをわかっていない訳じゃない。それでも俺は、多分、だめなんだ。多分、あんたと同じ道を歩んでしまう。受肉した英霊の最後なんて、どんなお笑いぐさ。真っ暗闇で泣くのは、背中の軽さを嘆くのは、呼吸の音に縋るのは、お前のためじゃない。世界で唯一憎悪する、お前のためじゃ、ない。 |