夏の空気、夏の暑さ、夏の食べ物、花火、お祭り、蚊取り線香、風鈴、煙草に、夏の夜の間延びした空気。昼の暑さ。分子は膨張してぎちぎちにせめぎあって、体一つ分の隙間はひどく安心する。カキ氷、ぬるついた声、モラトリアム、果てのある倦怠、懐古。夏の記憶は忌々しい。 線路沿いの道路を歩きながら、アーチャーはアスファルトの蒸した匂いに辟易していた。もとより熱さにも寒さにも耐性があるし、まして英霊となった今関係ないといえばそうなのだが、景色は身体の記憶を呼び覚ます。つまり、アーチャーは暑さを訴える景色にうんざりとしていたのである。踏み切り近くの小道はかんかんと音が延々と鳴り響き、線路は陽炎で揺らめいている。 そもそも彼は遠坂凛と契約が切れてからどうにも暇をもてあましている。何も出来る事がないのと、何もすることが無いのは違う。それに彼は彼自身とても不本意であるのだが、何もしなくてもいいという状況の過ごし方をもう忘れてしまっていたのだった。 空気はぬるついて暑い。思い出は首をもたげて、アーチャーは嫌になってしまう。それを求めていたのか、それともいっそ忘れていたままでいたかったのかわからない事も拍車をかけていた。彼は彼自身の自己をひどく疎んでいる。それで問題はないのだが、この何をすることもない生まれ故郷の湿っぽい夏に、どうにも調子を狂わされている。 嫌ならば目を閉じればいい。霊体になってどこかにうずくまっていればいい。必要とされるときだけ、目を開け動けばいい。耳を塞ぎ、口を閉じ、目を瞑って。しかし、難儀な事にそれも彼の性分ではなかった。アーチャーは少しだけ夏が苦手だ。踏み切りの音が意識の上を滑る。 「アーチャーじゃねぇか」 突然かけられた声に目をやれば、線路沿いに立っている安アパートの暗がりからランサーが手を挙げていた。 「なにしてるんだ、こんなところで」 「それはこちらのセリフだ。君こそ何をしている」 アーチャーの言葉にランサーは笑って手招きをしている。アパートはコンクリートで作られていて、玄関が狭いからか陽も差し込まずに日差しの下の道路からは廊下もうかがい知る事は出来なかった。ランサーがアパートでも借りていたのだろうかとアーチャーは思う。自分の住んでいるアパートの暗がりに座り込んでいたら、そちらのほうが気持ち悪いか、とアーチャーは考え直す。 「マスターから逃げ回っててよ、そしたらここが涼しくてな」 ついぼんやりしてなぁ、と力なく言うランサーにアーチャーは溜息をつく。脳裏になにやら怪しい道具で子供になった妙に品行方正な英雄王とクランの猛犬が、聖骸布を振りかざして静かに歩むシスターを鬼に追いかけっこをしている姿を想像してしまって、皮肉気な笑みが浮かぶ。玄関をはさんで三メートル、霊体の体に暑さ寒さは関係ないが感じないわけではない。ここ連日続く暑さには体より先に精神がやられそうだとそんな事を思いながら、日の下に出る気は欠片も無いらしいランサーに溜息をもう一度ついて、アーチャーはアパートに足を踏み入れる。 「まるで、動物のようだな」 「人間だって動物の一種だろう、いや、でも本当、この国の暑さはなぁ。体があったら内蔵だして歩きたいくらい」 ぐったりと暗闇で扉によりかかるランサーにアーチャーは皮肉気に言い放った。アイルランドの大英雄は暑さには殊更弱いらしい。確かに外に比べれば日が差していないだけ、うっすらと涼しい。暗さに目がなれないのを何回か瞬きをして直し、金属の安そうな扉に手をつけばひんやりと冷たい。なるほどランサーは汚れも気にせずに先ほどまで座っていたらしい。 「湿気がだめだ。なんか体から力がぬける」 「まさか夏バテにでもなったなどというなよ」 「夏バテ?」 「夏の盛りに、暑さのために食欲が減退したり、冷たい水分の摂りすぎで体調をくずしてしまうなどの症状の総称だ」 まぁ、万が一にも英霊がかかるとは思えんがな、と言えば、不快なものは仕方が無いとランサーは返した。暗がりの廊下は、踏み切りの音も手伝って何かから隔絶されているような気もする。随分と安い現実感だが、そもそもここが現実などという証がどこにあるのだろう。 「というか、君は教会を居住地にしてるわけではなかったのか?」 まさか!とランサーはうんざりとした顔で答えた。 「冗談はやめてくれ、アパート借りたよ」 ランサーの言葉にアーチャーは顔をしかめて、確認のように問う。 「書類の類はどうしたんだ?」 「嬢ちゃんに頼んだら、戸籍から全部そろえてくれた」 金もとられたけど、とランサーが付け足すと、アーチャーは納得したような顔をした。凛が最近いやに上機嫌だったのは、臨時収入があったからかと考えていたのだ。踏み切りの警告音は止む事がない。間断なく鳴り響いてうまく意識がつなげないのは、単純に暑いからなのだろうか。ランサーが何か話しているのを聞き流しながら、アーチャーは振り返る。暗闇から見る明るい風景はいつも必要以上に輝いて見えるものだ。電車は線路の上を通ることなく、切り取られた長方形の風景の中の緑はいやに瑞々しい。通り抜ける風は気持ちがいい。アーチャーは目を閉じる。夏の空気、夏の暑さ、夏の食べ物、花火、お祭り、蚊取り線香、風鈴、煙草に、夏の夜の間延びした空気。昼の暑さ。分子は膨張してぎちぎちにせめぎあって、体一つ分の隙間はひどく安心する。カキ氷、ぬるついた声、モラトリアム、果てのある倦怠、懐古。 夏の空気は過去を思い出すためにある、と言ったのは誰だっただろう。 「で、どうよ?」 突然、ランサーが問いかけた。アーチャーは正直なところ、ランサーの話をあまり聞いていなかったので、適当に相槌を打った。するとランサーは一瞬ぽかんとしたあとに、喜色満面でそうかそうかと笑い出した。 「な、なんだ」 「いや、まさか了承するとは思わなかったからよ。じゃあ、これからよろしくな」 そういって差し出された手にアーチャーは少し困惑をした。握手、と考えるのが自然なのだろうが、どういう流れでそうなったのか、よくわからない。 「何の話だ?」 アーチャーの問いにランサーは軽やかに答える。出会った直後の疲弊振りなど何処に飛んでしまったのかというほどだ。 「お前が俺と一緒に暮らす話」 |