081220 時計職人承太郎とその娘徐倫とバイヤー花京院
 窓枠が風で鳴っている。花京院は息をつめて、木造の壁に寄りかかっていた。わずかな仕草が空気を揺らし、ため息が彼の鼓膜を震わせるのかと思うと、身動きひとつ、呼吸ひとつがし辛かった。
 彼が世話をしている牛たちの小屋よりももっとこぢんまりとした家は静寂に包まれている。彼の娘もこのときばかりは息をひそめ、足音にも気を使うらしい。屋根裏部屋が彼の工房で、一階にキッチンや娘の部屋が集まっているにもかかわらず。
 器具のすれる音と、彼が机を噛む小さな音、あとは風でがたつく窓の音しかしなかった。花京院は彼の部品を間近で見るあまり丸まった背中を見ながら、彼の娘のことを思い出していた。
 カキョーイン来たの?と日本で暮らしたことのない彼の娘の発音はすこしこもっている。娘は紫色のマフラーに顔を半分以上うずめながらやってきた花京院にそういった。雪の向こうからやってきた車を見つけてわざわざ家から出てきてくれたらしい。
「悪いね、徐倫」
「いいの、家の中で騒ぐよりはね」
 横殴りの雪を防ぐのにあまり役にはたたない傘を差し出してくれた徐倫に花京院は笑いながら礼を言った。
「ちょっと早く来すぎたかな?」
「そうね、一日早いかな。今日の夜には組みあがると思うんだけど」
 部品見た?と花京院は聞いて、徐倫はうなずく。軸受けはルビーで、昨日は歯車を磨いてたみたい。今回のは特別小さくて、ちょっと大変そう。
「でもきっと綺麗だと思う」
「彼の作る時計はいつもきれいだよ」
 今回のは特別、と徐倫は念を押した。
「毎年言ってるね」
「毎年特別なのよ」
 どうぞ、と家の中に招かれると、いつも静かな彼の家は特別に静かだった。横殴りの雪の音が乱暴に聞こえるほどだ。しんと、なにもかもが沈んで青ざめていくような寒々しい静けさだった。
 だがそれは心地よい。
 静かにね、と徐倫はささやくような声で言う。花京院はそれに頷いた。
「工房にいってもいいかい?」
「父さんが降りてくるまでまってて。お茶いれるね」
 極力音を立てないように扉をしめて、キッチンへと向かう。橙色の電気が暖かいはずのキッチンさえ沈黙に支配されていた。それも当然だろうと花京院は思う。
 今日はトゥールビヨンを組み立てる日なのだ。


081110 花京院が悪夢。花承。
 頬を伝う血液が生ぬるい。ぽたりと粘度をともなった液体は慣れしたんでいる。
「ぼくはね」
 だがこんなに嫌なものではなかったな、と承太郎はぼんやりと考えた。あの時のそれはもっと生存に直結したものだった。自分の生きる時間の簡単な指標。
 でも今花京院の顔から承太郎の頬へと滑り落ちている血液はもっと嫌な、悪寒のようなものを引き連れている。腐りかけたもののように黒ずんで、空間に色をつけて糸を引いて、落ちてくる。
「なに、に」
 引きつれて笑っているのだろう口は弧を描いて仮面のようだ。白黒ぱっきりと縦に割れて、耳元までさけているように見える。
「あこがれていたのかなぁきみの」
 鼻から上はよく見えない。逆光で見えない影のように、黒ずんだ血液がぺったりと張り付いている。承太郎が彼にしてはめずらしい鈍重な仕草で頬の血液をぬぐうと、それは見た目よりもさらりとして、匂いもなにもないように思えた。
「そのすがたが」
 ぼくに。
 麻痺しているのだと承太郎は割合冷静に考えていた。自分が焦燥と嫌悪に巻かれていることを自覚している自分はでは一体なんなのだろうと思う。精神と肉体、どちらが先に根をあげるのだろう。
 だが他人からは精神のありようなどわかるわけもない。
「花京院」
「その姿は僕を貶めるばかりだったよ承太郎君は本当は一人立てる人間だ誰もいらないはずなんだ君が愛している人間がいなくなっても生きていける君の生き方は決して傷つかない」
 花京院の見えない顔から腐りかけた血液がかかる。ぽたりぽたりとゆっくりと、あまりにゆるやかで承太郎はぼんやりとそれを見届ける。花京院は血まみれの顔で笑っている。

081031 三部後承太郎の憂鬱
 仲間を失ったこととその後の平穏な生活は承太郎にとって違和感の塊だった。おかしいと思った。もっとなにか、もっと馴染めると思っていた。日本に戻ってきたその日、胸を痛める喪失感をなかば他人事のように感じながらそれでも、ようやく帰ってきたのだと承太郎は思ったはずだった。
 朝、目を覚まして生きている幸福をかみ締めることも、夜寝る前におとずれるわずかな恐怖も、背中合わせで戦う信頼も、明日生きていけるかわからなかった不安も、敵に打ち倒されそうになる屈辱も、敵に打ち勝つ高揚も、何もかもをおいてきたのだと思った。
 そう思いたかった。

 死んだものと失ったものについて承太郎は嘆かない。
 生きているものと得たものを承太郎は確かめない。
 確かめないことが、あるという証だからだ。

 あの日々が忘れられないのだと、胸のうちでつぶやくと、二つの言葉がいつも返ってきた。それは当然だろうというものと、あの日々の何が、忘れられないのだという問いだった。当然、という言葉は自分が傷ついたことを認める言葉だった。
 死んでしまったもの、花京院やアヴドゥルやイギーについて、彼らが誰かによって奪われることで、自分の中から損なわれた何かついて、認める言葉だった。損なわれた何か、は、決して承太郎にとって大事なものではない。あってもなくてもよいはずのものだ。小さく些細だ。そして、その欠落をもたらした経験は、しなくても良い経験だった。
 これから先、彼が生きていく上で、その些細な欠落によって、何かを取りこぼす。欠落は二度と埋められることもない。そう決まってしまった。なにより承太郎は、仲間を殺した、男を殺したのだから。
 自分が世界から奪ったものを承太郎は冷静に把握している。自分から失われたものも、わかっている。そしてそれによって彼は、あの日々が忘れられないとつぶやく。
 あの日々の、何が。
 めくるめく高揚。ぎりぎりの焦燥感に追い立てられていたあの日々の、最後にはDIOが笑っている。
 あの日々の高揚が忘れられないのだと、承太郎は気づいている。それによって日々に馴染めない。あのたびで欠落したひとつだ。日常に馴染めないなど、どうかしている。
 何事も無く過ぎる日々を喜べないなどと、物足りないなどと、世迷いごとだ。


081009 雰囲気のみでつっぱしる、銀河鉄道の夜花承
 愛という言葉を花京院は信じていなかった。信じていなかったというには語弊があろう。彼は愛情というものを知っていたし、それにさらされて育った自分を理解していた。花京院に愛情を間違いなく注いでくれた両親は、彼を決定的に理解できない部分はあったけれど、花京院を愛していた。そして花京院はそれを、肌で理解していた。頭でも心でも、一欠けらの齟齬もなく。
 彼にとって愛情は理解とは無縁の代物だった。ただそこにある、汲めども尽きぬ泉のことだった。「愛している」と言う事は、それが自分の身の内にあるのだと相手に知らせることで、「愛している」といわれることは相手の身の内のある泉をいくらでも奪い取ってよい事だった。
 ひっきょう彼は、愛という言葉は非常に重いと考えていた。言葉は重いと信じていた。だというのに彼は嘘ばかりついて、スタンドの見えない人間にしていた失望を押し隠して、言葉は軽いものだと思い込もうとした。「愛している」などと、これから先誰かに言えることがあるとは到底思えなかったからだった。だが彼はそれでも真に心をこめていった言葉は、伝わるのだと思いたかった。そんなはずはないと、嘘ばかりついた自分が言っていた。
 花京院にとって「愛している」と言うことは、自分の身の内をいくらでも奪っても良いという意思表示だった。言葉は真実に直結し、事実になるのを願っていた。花京院は常に躊躇をした。心をこめてもそれは伝わるのかどうか、いくらでもつける嘘と同じように響いてはいないだろうかと、彼は「愛している」という一言さえ言えなかった。
 そうして言う相手が空条承太郎であればなおのことだった。真実、花京院は承太郎に何もかもを奪われたかった。承太郎という人間の手の中で安穏と眠りにつきたかったし、あるいは粉々にされ何も感じなくなりたいと思っていた。開示した瞬間に、何も奪われないかもしれない、という夢想が花京院に二の足を踏ませていた。
 まして、あの承太郎が、応えでもしたらという不安もあった。完膚なきまで拒否をし、眉をひそめて嫌悪の言葉を投げつけられるという想像は結局は粉々にされることと変わらず、彼に安心をもたらしてもいた。何よりも怖いのは、応えられた時だった。この身を何もかも奪っても良いのだと知らせ、あるいは応えられたら、花京院は身をすくませて立ち尽くしてしまうに決まっていた。
 あの空条承太郎から何かを奪うなど、できるはずもなかった。彼を自分によって、わずかでも変えてしまうなどということが許せなかった。愛している、という言葉を花京院は幾度も幾度も胸に抱き、そしてその重さに押しつぶされそうになっていた。それ自体が重力を持つ、黒い黒い塊だった。
 ホテルのベッドの上で、花京院は胸を手のひらで強く抑えて息を押し込めていた。カーテンの向こうの窓には、夜空が、その向こうには星が輝いているのだろうと思うと、ふとめまいがした。おぼれてしまいたくなった。子供を助けて、おぼれてしまって、死んでしまいたいと思った。星を映した川面を眺める承太郎に、静かに言ってほしかった。

 もうだめです。落ちてから、四十五分たちましたから。