081005 anotherのなんかです。花承。 花京院は窓辺に座って考える。雨が降って、通りの石畳は黒く見えるのをただ黙って見つめていた。ホテルの部屋は乾燥していると承太郎が嫌がるので、ポットの蓋を開けたままなのだけれど、それが本当に利いているかは定かではない。それにそもそも雨が降っている。乾燥を嫌うよりかは寒さの方が花京院には堪える。窓を伝って冷気が頬を撫でる。息は白くはならないが、それもぎりぎりと言ったところだ。体温の暖かさが形になる寸前で崩れるのが見える。 「寒くないの?」 「寒くはねぇよ」 そう、とベッドの上で深い眠りに抗っている承太郎に花京院は返した。承太郎の声ははっきりと響いて、眠気の欠片もないけれど、それが分かる。時刻はもうすぐ昼をすぎるが、どんよりと厚い雲が空を覆って時間など知らないという顔をしている。 「起きれない?」 花京院は肘を窓枠において、頬杖をついた。雨の下では人々が傘もささずに早足で歩いている。この地方ではあまり長く雨が降る事はないというのに、朝からずっと降り続いている。 承太郎は黙っている。花京院は目を閉じて、雨音に耳を傾ける。ポットの蓋は開いているけれど、そもそも開くほど乾燥しているわけではないし、なんだか全てに意味はない気がしてきている。承太郎のわがままだ、ついていくのは気が重かったが、そうせざるを得なかったし、そうしたかった。 あるいは終わりについて抗う事を諦める承太郎を慰めたかったのかもしれない。 「おなかすいた?」 「いや」 「そう、僕はおなかがへったよ」 何かかってくればいいじゃないか、と承太郎が言った。このホテルにはルームサービスなんて気の利いたものはない、かわりに目の前にはスーパーがある。花京院はそうだね、と頷いて、けれど立ち上がらなかった。頭を窓ガラスに預けて、ただぼうっとしている。時間が静かにながれすぎて、さらさらとした音まで聞こえそうだった。 「足、動かないの?」 承太郎は何も答えない。花京院は目を開ける。ベッドの上で承太郎は瞼を閉じて掌を胸の上で組んでいた。まるで棺に入るときみたいじゃあないかと花京院はとっさに思い、しまったと表情をゆがめる。 そういう事は考えないでおこうと思っていた。彼の死んでしまった体について、自分が彼らを裏切ってそしてどうにもならなかったことについて、それを償う機会も罰する機会も奪われて、途方にくれていることについて。やがて承太郎が眠りの向こうから、戻ってこなくなる事について。 花京院は承太郎の名を呼ぶ。承太郎はうっすらと、ひどく鈍重な動作で目を開けて口を開く。 「声を出すのを意識しなくちゃならねぇなんて気が滅入る、息をしなくてもなんの支障もないから、考えてから喋るんだ。まるでリモコンをもって体を外から動かしているんじゃねぇかって気分に」 なるんだぜ、と承太郎は笑う。 「じゃあ、もう壊れかけだね」 「電池切れって感じだな」 「新しい電池ってどこで買える?」 花京院も笑った。彼の冷たい体は芯から冷えていて、暖めようもないのだと知っている。ポットの蒸気も意味はない、ただ言われた事はなんでも聞こうと思っただけだ。雨が降り続いてる。昨日も少しふっていたと思う。そこで話をしたのだと思い出す。 「承太郎、眠い?」 「いや、」 言葉が続く気配はあったが、彼の口からこぼれ出てはこなかったし、聞きだせることもないだろうと花京院は思った。それもまさしく永遠にないのだろうと。死ぬということはどういうことか、花京院には理解できない。本当のところは、全く理解できない。けれど本当のところ、なんて、本当に理解できるのだろうか。 「まだ、昼だから、まだ、眠らないでおいてよ」 承太郎は吐息のようなかすかさで頷く。いつまで、といいながら花京院は思う。それはそう遠くない未来に、今日か、明日か、それくらいには。 「明日は晴れるといいね」 日曜日だから、と花京院は付け足す。 それが最後の日だろうからと思いながら。 080929 毒虫。花京院、な感じで? 食べられる気がしたのだと男はうずくまったまま言った。暑さはじんわりと顎の下から汗を滴らせて、頭の後ろが一瞬だけぬれたように感じる。もちろんそれはただの錯覚か、あるいは事実にしても意味のない表象であると思う。 男は真っ白な部屋の隅にうずくまってもう一度、食べられる気がしたのだといった。食べられる気がしたのならば何を食べてもいいというわけではなかろうに、というと、男はびくりと肩を震わせた。それはもちろんそうだろうが、そのときはそんなことは考えられなかったのだとつぶやいた。 「にんげんとはおもえなかったので。その指の形や、瞳の色や、あるいは彼の、自分の中に残る記憶がなにもかも、肉を彩り輝く塩のようにしか感じられなかったのです。人間とは思えなかったもので、今でさえ、もう一度現れたら食べられるような気がするので」 後ずさった。男は拘束服をきたまま延々としゃべり続ける。体が前後にゆらゆらとゆれて、彼の散髪されていない長い前髪が表情を覆い隠した。どうしてこの部屋はこんなに白いのだろう。 「食べた後、いいえ、食べる前から、わたしの胸の中にはひとつのおおきな穴がありました。穴?穴というよりもそれは、蠢く塊でした。ぴんとはった革のようにはりのある、しかし脂肪のつまったぶよぶよとした、抱きかかえられるくらいの真っ黒なものでした。側面には吸盤のように小さな足がついていて、身もだえてはぐるぐると動くのでした。わたしはそれに耐えられる気がしませんでした」 男はうめき声をあげた。奇妙に甲高いそれは、人間の声とは思えない知性の欠片もないものだった。あるいは切迫と言い換えられる。単純な衝動のみの声だった。 「目の前の、彼の指の形や、瞳の色や、あるいは彼の、自分の中に残る記憶が、その塊を消してくれるような気がしました。食べたならば、塩のかけられたなめくじのように、あるいは大海に出た蛙のように溶け出していなくなるのではとおもいました。それ以上に彼はすばらしく、おいしそうに思えました。いえ、太陽のように、私を消してくれるのではないかと考えました」 暑い。ぴたりと、男は前後にゆれる動きを止めた。空気がきしむ。 「なのでわたしは彼を口にしました。味、などは覚えていません。歯ごたえは平たくいって最低でした。何よりも耐え難いのは、彼がすっかりいなくなってしまったのに、胸の中で踊り喜ぶ真っ黒なそれでした。短く無様な足を波のように動かして、わたしの胸の中を這いずり回るのです。肋骨から、胸郭、心臓をなで、肺の表面を渡り、わたしの気管支を蹂躙し、苦い毒液をはくのです。わたしはようやく、その塊が毒虫であることに気がつきました」 「どくむし」 「そう、毒虫です。おぞましい、毒虫。わたしがそれ自身になるのならどれほど救われるでしょうか。しかし、蟲はわたしの胸の中でおおきく成長するばかり、わたしはいまだ人間のまま、幻覚に悩まされている始末」 それは、と男は言う。 暑い。 「それは彼の幻覚なのですが、全く何の意味もない。幻覚だとわかっている幻覚に、どんな効果があるというのでしょう。わたしはそのたびに、この毒虫が消えるのではないかという期待と、大きくなるのではないかという不安にさいなまれながら、こうして、こうして、こうして」 こうして、という言葉で部屋の中が埋まり、意味が消失してしまうころに、彼はがくりと首をたらした。そうして口だけでにやりと笑う。 「これが食人鬼の顛末なのですが、納得していただけたでしょうか」 おとこはもう一度うめいた。世界で最後の一人が、絶望のあまりもらうような声だった。のみならず、男の瞳には涙が浮かんで見えたのだが、それは苦痛に対する身体反射的な作用であって、彼はまったく動物なのであった。 男は拘束服の隙間に、小さな頭蓋骨を持っている。成人男性のそれは、しかし見る影もない。 「あるいは、わたしが毒虫になるのだと、断罪していただけるのでしょうか」 いや、と首を振ると、男は押し黙った。じわりと顎のしたから汗が染み出て、真っ白な壁からは蛆が這い出てくるような気持ちになった。 080927 ウォーカロン承太郎とサエバミチル花京院の独白。百年シリーズパロ。 承太郎が死んだのは、僕の目の前だった。原因は弓と矢についてだった。スタンドについてだった。吸血鬼についてだった。ディオについてだった。僕についてだった。彼の母についてだった。彼の娘についてだった。彼の奥さんについてだった。彼の人生についてだった。まぁ、つまり、そうなることは半ば規定されていたのかもしれない。人間が人生の終わりに必ず死ななければならないのなら、彼の死はたぶんほとんど例外なく、殺されるという結末を迎えたはずだと今だって僕は思う。 それは彼がディオ・ブランドーを殺したから、という一言に尽きる。彼がその拳でもって、あの美しい吸血鬼を殴り砕いたからだった。吸血鬼はその後、エジプトの太陽の光に照らされて、妙にきらめいた灰を振りまきながら、風にのって消滅した。ディオ・ブランドーは闇に輝く漆黒だった。彼を崇拝するものはいくらでもいたし、彼に救いを見るものも数限りなくいた。性質が悪であれ、その吸血鬼はまさしく輝く帝王だった。そしてディオに死をもたらした空条承太郎は、彼を崇拝するものから同じだけの憎悪を引き受けることになった。彼に救いを見たものと同じだけ復讐に狙われる事となった。 だから僕は承太郎の人生の終わりが穏やかで、安らかであればいいと、本当に切実に願いながらもおそらく、それは唐突にあっけなく他人の手によって訪れるのだろうと予想していた。半ば規定していた。承太郎は苦悩していたのか、僕に知る由はない。厭ったのかどうかも計り知れない。ただ彼は、家族から遠ざかることを選び、復讐と憎悪をその手で絡み取るか、あるいは根絶やししようと思ったのかもしれない。ディオとその残党について、スタンド使いを生み出す弓と矢について、ポルナレフや僕とともに、SPW財団の援助を受けつつ、調べていた。 油断?あれは油断だったのだろうか。オートロックのエントラスにセキュリティ上の穴などいくらでもあることを承太郎も僕も知っていた。アルコールなんて入っていなかったし、ポルナレフはイタリアで連絡がつかなくなり行方不明になった直後だった。承太郎はそれについてどう思ったのだろう。かつての仲間が闇に飲まれるように消えていくことについて。次に飲み込まれるのは確実に僕だと思っていた。だって承太郎はとても強かった。殺されて終わるのだろうと半ば思っていても、彼が殺される前に死んでしまう自分のほうがはるかに容易に想像できたからだ。 今の体をあの時持っていたら、僕は繰り返し映像を再生するだろう。あの時の一瞬一瞬をコマ送りにして、どうにかしたらどちらも生き残るような結末があったんじゃないか、承太郎だけが生き残るような結末があったんじゃないかと探すだろう。でも、それはその頃の僕には無理な話だし、記憶は途切れて、たぶん変質してしまっているはずだ。大体それを見つけてどうするというのだろう。あの時三メートル右にいればだとか、あの時とっさに左腕を出していればだとか、承太郎の体を下に押し込めばよかったのだとか、そんな絶対にかなわない途方のない後悔にさいなまれるのはごめんだった。 それに目を閉じればすぐに思い出すことができる。彼の痙攣する体や、見開かれた眼球の瞳孔がゆっくりとひらいていく様や、名残惜しい反射が動かす口の端を覚えている。体がちっとも動かない僕の横になった視界の中で世界から失われていく彼を、僕は覚えている。覚えている。覚えている。 変質したそれをいくらでも再生することができる。 僕のせいではない、と誰もが言った。あなただって、途方もないものを失ったでしょう。体も、何もかも。残ったのは脳髄ひとつでしょうと。でもそんなもの、こうして取り戻すことができた。取り戻すという語弊があるけれど、そんなもの代用可能だ。ファイバーの髪も、人工蛋白の肌も、脳とつながるケーブルで視界は良好、映像は蓄積できるし、味だって匂いだって失われたわけじゃない。ちゃんとある、この手にある。頭の中には、ちゃんと存在している。 あの時失ったのは、どんなものでも代用できなかった、魂そのものだ。僕は僕を責める。僕たちは油断をしていたわけじゃなかった。いつもどおりだった。いつもどおりに彼はその危険を知っていて、家族から遠く離れていた。ポルナレフは行方不明だった。だからあれは避けようないことだった僕は理解している。偶然は避けられない。あの時、いくつもの偶然によって、僕たちは襲われて殺された。偶然によってしか避けえることはできない。どうしようもなかったのだと思っている。仕方がなかったのだとわかっている。理解している。納得している。 僕は僕を責める。 080825 電波の承太郎さん。 かわいそうだと思っていた。 「かわいそう?」 かわいそうだと思っていた、ともう一度繰り返すと、電波の向こうで誰かが笑った。 「それは誰が」 「誰だろう、多分、仗助が」 電波な美しい波線形を描いて、手のひらに収まっている。青い色をして水面に照りかえる光のようにきらきらと輝いている。電波の線がほそく、笑い声のように波紋をひろげた。 「君のあの、いとしい彼が」 「いとしい?」 「かわいらしいと、言い換えても良いが」 承太郎はすこしまいったと思いながら、クリーム色のソファに身を沈めた。帽子のつばが視界をしめて、窓からのまぶしさを覆い隠す。 「かわいそうだと思ったんだ」 「傲慢にも」 「傲慢だろうか」 「気づかぬお前ではないと思ったが」 気づかぬ自分ではない? 「いや、」 「お前が自分を哀れむような人間ではないと私は思っているんだよ、承太郎」 声が急に色彩を帯びて、鼓膜をうった。あるいはそれは鼓膜ではなくて、どこか彼方から送られてくる電波で、脳みその奥に入り込んでいるだけなのかもしれない。自分が狂っているのかという問いには飽きてしまったし、そんなことを問うても仕方がないのだ。 懐かしいと反射的に思った。 「私はお前にいくらでも言うし、思うがな。かわいそうに、かわいそうに、なんてかわいそうなお前」 美しい波線が乱れて、真っ白な空に飛び跳ねる。 「そういわれても、眉ひとつ動かさない、いいか、承太郎、言わなければ伝わらないのだ。憎悪も愛情も、敵意も好意も、なにもかも」 「お前がいうのか」 電波の彼方で誰かが笑う。 「言うのさ、承太郎、私だからいうのだ、かわいそうなお前は私を責めてもいいんだぞ、このDIOを」 承太郎は目を閉じて、ため息をついた。深いため息だった。 「お前はこの世界も私の声も、お前自身が作り出したものではないかとおびえているな。私のこの言葉を、自分自身を慰めるために出た言葉だと思っている」 「そうだ、俺は俺に嫌気が差す」 「それはあたっている、あたっているが、世界など一人の人間の生み出したものからはみだしはしない。お前が狂っていてもいなくてもそれは同じだ。誰もが自分の世界だけでいきている。解釈も、都合も、すべて彼らのフィルターを通して描かれている」 「だがそれは免罪符にはならないぞ」 身を震わせて笑うDIOを承太郎はきれいに想像することができた。あまりにも容易に思い描けたので、目の前に現れるのではないかと思ったほどだった。あのエジプトから十年以上たって、自分は弱くなったと思った。倒せるか、どうか、たおせはしても、耐えられないだろう。 何に、と自嘲気味に笑った。 「かわいそうなお前」 電波はぶつりと切れて途切れた。放り出された流線型が空からばらばらと降って涙のようにあおかった。水平線の彼方から、太陽は上らない。 |