浴槽の窓からは暖かな明るい光が差し込んでいる。 手ひどく痛めつけられていた。多分そう表現して間違いない、と徐倫は目をつむって思った。私の心は糸のように重ねられて柔らかく、毛羽だってどころどころは居たんだ髪の毛のように切れていて、遠目から見ればきっとふわふわと綿毛のような暖かい物に見えたに違いない。 けれど徐倫は手ひどく痛めつけられていた。 「父さん」 水を吸った糸は重く重く承太郎の身体の上にのしかかっていた。白い陶器のバスタブには冷たい水が張られている。投げ込まれた光りがゆらりゆらりと波を作っている。 承太郎はその中に服のまま横たわり、徐倫は馬乗りになっていた。彼女は裸で、バスタブに備え付けられたシャワーから流れ出る水が彼女のほどけかけた髪やあるいは腕や太もも、柔らかいのだろう胸を伝って承太郎に降り注いでいた。 雨が降っている音にしては激しすぎるわね、と徐倫は苦く笑ったつもりだった。けれど彼女の表情はその苦笑よりもさらに切迫した感情に押されて決して動かなかった。 「動かないで、父さん」 水の中では感触は茫洋だったが、彼女は父親の冷たい水で冷えはじめた腹に手のひらを置いていた。ぴくりと動こうとする承太郎を徐倫は言葉一つで封じた。そうなる父親の自分に対する愛情の深さが徐倫は憎らしかった。いや、嬉しかった。涙が出るほど幸福だった。だがそれは徐倫の瞳からは溢れてこずに、代わりに冷たいシャワーの水が流れ出ているだけだった。 承太郎の腹に置かれた自分の手のひらから繋がる腕には鳥肌が立ち、いっそ醜い物に感じ取れた。徐倫は自らの身体を愛していたが、それは彼女の自己愛からくるものでは決してなかった。あなたのその凛々しい顔は本当に父親そっくりね、と母親が疲れたように言うその言葉を徐倫は一時嫌悪し、今では深く愛していた。私のこの眉、私のこの耳、私のこの瞳、私のこの鼻、私のこの唇、父さんに似ている。父さんの血をひくこの身体。徐倫は自らの身体を本当に愛していた。 彼女の身体は美しかった。女性にしては多少筋肉が付きすぎているきらいがあったが、それは彼女の跳ね返るような美しさをより増しているだけだった。彼女はその張り詰めた美しいからだとは違った柔らかい心を持っていた。 「父さん、わたし、父さんを殺そうって思ってるわけじゃないの。意味がないでしょ」 「徐倫」 「なにかを言うくらいだったら、行動してよ、父さん」 徐倫はそういって、ストーンフリーの細い糸を承太郎の開かれた口へと押し入れた。次から次へと瞬く間に白い糸は少し開かれた承太郎の口に入り込み、喉の奥まで埋められた。突然の行動に承太郎がえづくのがわかった。眉が寄せられて、上体が痙攣するように二三度ゆれる。水はゆらりと呑気に波打った。承太郎の緑色の目からじわりと涙がでてきたようだが、それもすぐに水に流されて消えた。 「わたし、父さんを愛しているのよ、これは本当よ」 お腹が冷えたな、と徐倫はいいながら思う。水が冷たすぎて、お腹が冷える。美しい徐倫の身体はしかしほとんどが糸になって承太郎に絡みつき、すかすかになっていた。承太郎の口に押し込んだ糸の分だけ心臓が痛んだ。徐倫が冷えたな、と感じるお腹はどこかの糸になっていて、実際にあるわけではない。けれど暖かく感じないのだから、冷たく水をすって承太郎の身体に重く張り付いている糸でもなく、また彼の口に突っ込まれているものでもないのだろう。この水の張られたバスタブにゆらゆらと漂っている空疎な糸の内のどこかだ。 「父さん、愛しているのよ、私、愛してるだけですむならどれだけ良かったかって何度も思った」 徐倫は冷たく凍えた手を承太郎の首筋に寄せた。同時にゆっくりと、本当にゆっくりと承太郎の口に詰め込んでいた糸を取り出して自分の身体に戻した。長い時間をかけて戻したそれは暖かい唾液に濡れた心臓の一部となって帰ってきた。 承太郎は空気を吸い込む先に水も一緒に吸ったらしく咳き込んでいて、それは悲痛な叫びにも徐倫には聞こえたのだった。どうしてこんなことに。 どうしてこんなことにともし仮に承太郎が思っているのならそれを言いたいのは徐倫の方だった。どうしてこんな事に。私は父さんを愛しているだけなのに。私は父さんを愛していただけなのに。幼い頃の幸せな記憶、帰ってこない父親がそれで私の熱の出た額を冷たい手のひらで撫でてくれた。私の誕生日に、深い青のすてきなドレスを。クリスマスには、欲しがっていたアクアリウム。 けれど私の熱の出た額を冷たい手のひらで撫でるために帰ってきたことなどないと母さんは言ったし、深い青のドレスは私にはあまり似合わなくて、アクアリウムはあっというまに濁ってだめになってしまった。帰る度に自分の贈ったものがない家を父さんは悲しんでくれたのだろうかと徐倫は夢うつつに考える。 「父さんが愛してなんてくれるから、父さんが私を愛していてくれたから!私、嬉しかった。飛び上がりたかった。命だって賭けたし、父さん、あなたが私を抱きしめてくれたときなんか、私泣いたもの」 動いたら、私全身を糸にするわと言ったのは徐倫だった。そうしたら私は死んでしまうでしょう、父さんそれは嫌でしょう。裸で自らの腹の上に座り込む、徐倫を承太郎がどう思っているのか徐倫は知りたくもない。 けれど糸になって二度と戻らない私に途方に暮れる父さんはすこしだけ見てみたい。糸を抱えて泣いてくれるだろうか。泣かなくてもいい、その糸を本当にどうしていいかわからなくなって、パスタブの中でかき集めてくれるだろうか。 それとも娘を殺したようなものだと私にとらわれてくれるのか。 徐倫の想像は羽ばたいてはいたが、まるで地をはう蛇のようなものだった。徐倫は承太郎が自分を愛してくれていることに絶対的な自信を持っていた。あの父が、命を捨てて示してくれたものを徐倫が疑えるわけも無かった。大切に思っていた、その大切、と徐倫の愛情が齟齬をきたしたのがいつだったのだろう。もしかしたら最初から、そうだったのかもしれない。 「最初はそれだけでいいと思った。父さんが私を愛してくれるだけでいいと思った。家族として。次に一緒に暮らせることが嬉しかった。朝起きたら父さんがいる。おはよう。待っていると仕事から父さんが帰ってくる。おかえりなさい。クリスマスにもらったあのアクアリウム、一緒にもう一度作ったときは楽しかったわ。捨てた訳じゃなかったのよ」 「ああ、そうだな、捨てた訳じゃなかったんだ、な」 そうなのよ、と徐倫は答える。承太郎はすこしだけ寂しそうな顔をしている。徐倫はいつの間にか承太郎の表情もわかるようになった。あんなにも無感情だと決めつけた父親だったのに、彼も笑い、彼も困り、彼も悲しみ、彼も喜ぶ。徐倫が、過ぎた愛情を示すとき、彼は少し困った顔をしていた。 「私、そしたら父さんが欲しくなってしまった。だって居るんだもの、そばに居るんだもの。私を愛してくれているんだもの。ねぇ、父さん、私を愛して、私に何かをちょうだい。子どもだっていいわ、父さんの子どもなら生んだっていいわ。物じゃないものをちょうだい、愛しているという結果をください」 シャワーから流れる水のように、徐倫は懇願の言葉を投げ捨てる。愛情に溢れて、欲望にぎらついた、柔らかな響きの言葉だ。 「徐倫、それは」 「なにも出来ないなら、殺してよ、父さん」 しゅるりと、糸がパスタブから引き上げられた。冷たく水をすって重くなった糸が徐倫の身体に戻り、徐倫はやっぱりお腹が冷たいなと涙が出そうになった。 「殺してよ。そうして私に、父さんは私を殺すしかないほど、私を軽蔑できなかったし愛していたんだと信じさせてよ」 徐倫はもはやスタンドを出していず、ただ裸で承太郎の腹の上に乗っているだけだった。父親の腹の上で泣いているただの一人の娘でも女でもない中途半端だった人間だった。徐倫の身体は美しく、それはこの父親の血を継いだからだと徐倫は無邪気に信じ切っていた。 承太郎の手のひらが水から上げられて、ゆっくりと徐倫の首の方へと伸びる。指先が触れると同じような温度で冷たいとも暖かいとも感じなかった。徐倫が瞼をゆっくりと下ろすと承太郎の手の甲に落ちた。 「父さん」 けれど承太郎は、おそらく自分の頬に手のひらを置くだけなのだろうと思うと徐倫はいっそ承太郎を殺してしまえばいいのだと思う。意味がないのだと知りながら、そうしてしまえばいいのだと思う。 シャワーから冷たい水が流れ続けて、それが豪雨のように聞こえる。けれど瞼の向こうから見える光に、外は晴れているのだと徐倫は知る。 |