1.ゆめまぼろし 「時々、幻を見るんだ」 花京院が、コーヒーカップを持ってこちらにやってくる徐倫を見ながら言った。徐倫は、幻?と花京院の言葉を繰り返しながら、カップの乗ったトレイを白いテーブルの上に置いた。花京院の部屋は一人で住むにはすこし広すぎるのだと徐倫は初めて思ったような気持ちになった。たとえば二つある広い部屋。広いベッド、二人がけのソファ、クローゼットも、一人分の部屋にしては大きすぎるのだ、なにもかも。 「たとえばお風呂に入っている時、シャワーカーテンの向こうで僕よりも大きな人影を見る気がする。テレビを見るとき、なんでか空いているソファの片側で、コーヒーを飲んでいた人がいた気がするんだ」 徐倫は、花京院の言葉を聞きながら、トレイからカップを持ち上げるところだった。リビングの窓からは、鯨の解体工場が鯨を揚げているのがよく見えた。 花京院がふと、窓の外を見て、大きなクレーンでつり下げられた鯨に目を細めた。クレーンに太い縄で持ち上げられている真っ黒な鯨はまるで青空を背に泳いでいるように見える。 「今日は大きな鯨だねぇ」 「そうね、大きな鯨だわ」 花京院は今日お休みなの?と徐倫は花京院に水を差し向けた。花京院は頷く。それから少し考えるように、黙っていた。 「うん、一週間も休みをもらったんだよ。だって」 はた、と花京院は押し黙る。徐倫はだって? と花京院の言葉を繰り返して聞き返した。 「怪我を、ね」 「花京院、怪我をしたの?」 「あ、違うんだ、僕が怪我をしたんじゃなくて」 花京院はコーヒーカップに手をのばす。白いのは自分のカップで、部屋にはもう一つ黒いカップがある。客用のではない。客用にはそろいの物があるのだ。今徐倫が持っている、青いカップがそれだ。 「幻を見るんだ、徐倫」 「幻?」 「クレーンにつり下げられた鯨が途中で落ちて」 最近多いみたいね、と徐倫が言うと、花京院は、だから工場長は新しいのに買い換えたって言っていたよ、と笑って告げた。それからコーヒーを飲む。暖かくておいしく、すこしだけ薄い。もっと濃く淹れてくれる人間がいたような気がする。 「鯨が、地面に着く瞬間に、その下に人間がいるのが見えて、黒い髪の長身の男が、こっちをみて、緑色の目をしていた。すぐあとに、鯨が彼を押しつぶして、僕は慌てて工場長に言った。あそこに人がいたんだって」 徐倫は、花京院の話を黙って聞いている。彼女は遠くに見える鯨の死体をぼんやりと見つめて、コーヒーを飲んでいる。 「大慌てで鯨をよけたんだけど」 窓の外の鯨はゆっくりとおろされて、やがて家々に飲み込まれて見えなくなった。工場の解体場へと落とされ、よってたかって骨になるのだ。自分たちはそれを余すところなく利用する。皮も内蔵も、骨も肉も、髭も油も。 花京院の言葉が途切れているのに気がついて、徐倫はだけど? と促した。 「そこには何もいなかったんだ。ただの幻だったみたいで、僕がこの家で見る幻はね」 彼なんじゃないかなぁって思うんだ、と花京院は薄いコーヒーを飲みながら呟いた。 # 空を泳いでいるように見える鯨を支えているのは、縄とクレーン。鯨のつり下げられている真下には承太郎がいた。古びたそれはぶちぶちと誰にも聞こえない悲鳴をあげてちぎれ、承太郎の真上に。 花京院はその瞬間を見ていた。言葉は声にならない。 「でも」 徐倫は花京院に向かって喋る。 「でも死ななかったんでしょう。怪我をしただけだったじゃない」 そう、と花京院は頷いた。承太郎は奇跡的に助かって、頭を打っただけだった。一週間の休養を承太郎はもらい、花京院はその介助という理由で休みをもらった。承太郎は真っ白な病室で頭に包帯を巻きながら、見舞いにきた花京院を見て、悪かったと笑ったのだ。 「でもね、徐倫、僕はその時本当に怖くて」 彼を失ったかもしれないと思ったときの、あの頭の後ろも、指の先も、喉の奥も、お腹の底も、息も肺も、凍るように冷たかった感触が怖くて。 「二度と味わいたくないと思ったんだ。本当に、本当に、恐ろしくてね」 「それで、いなくなってしまえばいいって?」 「そう、承太郎がいなくなってしまえばいいって願ったんだ。忘れさせてくださいって」 花京院の言葉に、徐倫は呆れたようにため息をついた。 「なんだかそれって本末転倒よ、花京院」 「そうかもしれない」 でも、だって。 花京院は手を合わせてまるで祈るように言葉を吐き出した。 「潰される瞬間にこっちをむいた承太郎があんまりにも、驚いているから」 本当に、彼が行ってしまうのだと思ったのだ。 # 「その幻が、鯨の下にいた男だって?」 徐倫がすこしおかしそうに花京院に言う。花京院は大まじめに頷いて、首を縦にふった。 「そう、それで、僕は彼と本当はすごく親しかったんじゃないかって思うんだ。それこそ一緒に住むくらいにはね」 「じゃあ、なんで今居ないの? 花京院は忘れちゃったの?」 徐倫の問いかけはもっともで、花京院もそうだよねぇと笑う。それからでもさ、と不意に思い出したようにコーヒーカップを指さした。 「徐倫は、なんでカップを三つもってきたの?」 花京院の言葉に徐倫は三つ? と眉をしかめる。 「三つなんて…」 言われて初めてトレイの上の誰にもとられなかった真っ黒いコーヒーカップに気がついた。もう冷め切った温度のそれは誰に飲まれるはずだったのか、わからない。徐倫は黒いカップを手にとって、首をかしげる。 「どうしたんだろう、私、三つもコーヒー淹れて」 でも、と徐倫は呟く。きっと疲れていたのね、まぁいいわ。そういって黒いカップをキッチンへと持って行き、中身をシンクへと流してしまった。 それから新しくコーヒーをいれなおして、リビングへと戻ってきた。 「明日も鯨は来るのかな、花京院」 「そりゃあ、来るだろうね」 それから、と花京院は心の中で付け加える。 またあの幻も見るのだろうよ。 |