晴れた空の片隅に黒い雲が成長していくのを花京院は視界の端で捕らえていた。雲はどうやって体積を増していくのか、空高く舞い上がるのか、薄く広がっていくのか、雨が落ちてくるのか、どれを知っていてもやはり雨は嫌な物だ。嫌、というよりも面倒くさいと言った方がよいのだろうか。 空条承太郎がSPW財団の潜水艦で発見されたのは、今から二週間と少し前になる。花京院も承太郎やあるいはかつてのジョセフと同様にSPW財団の超常現象部門にも籍を置いていて、だからその連絡はわりと早く回ってきた方だろうと花京院は思う。空条博士の遺体が発見されました。なんらかのスタンド攻撃を受けているのかもしれません。データが妙です。遺体の腐敗がはじまりません。 また、明日、と徐倫に挨拶をしながら花京院は電話越しの財団員の言葉をもう一度脳裏で繰り返した。遺体の腐敗がはじまりません。その言葉に花京院はある種の感動さえ覚えていた。冷凍保存をするように仕向けたのは自分だったが、仕向けなくてもそうなっただろう。 刑務所にやってきたのは、空条徐倫が生きていることがわかってからだった。あの子もなんだかんだと承太郎の娘なのだとここ何回かあって花京院は強く感じた。それはこの状況が招いたことなのかもしれないし、あるいは元からの資質なのかもしれない。承太郎の娘だ、すこしも不思議じゃない。 彼女がここに、意思を持って残っているならばそれは、何らかの理由があるということだ。それが明確にわかったのは、彼女からの電話が財団に入ってからだった。父親は死んでいないこと、その原因、対処法、解決するとまで、なるほど彼女は成長したのかもしれない。幼い頃にやれ遊園地やら動物園やらと連れ回した頃とは大分違うのだろう。 「失礼、落とし物ですよ」 男子房へと帰るところで一人の神父に声をかけられた。体のラインに沿った深い紫色の神父服をまとった彼は、こちらがおかしくなってしまうほど聖職者然としている。聖書を持っていない方の彼の手には、確かに自分が持ってきた腕時計が握られている。簡単に落とす物ではないと思いつつ花京院は笑った。 「ありがとうございます、神父様」 そうして、手を差し出すと、神父はふいにその腕時計をひっこめた。 「やはり日本製の時計は良いものなのですか?」 もしもあなたに時間があれば、すこし話などしていかないか、と神父に問われて、花京院は驚いたように目を丸くしてから、すこし笑った。それから手を胸にそえて、大仰な仕草で頭をわずかに下げた。 「私などでよければ、神父様」 そう答えると神父は提案がすんなり受け入れられたことに驚いたようだった。しばらく沈黙をしてから、困ったように口から笑いをこぼした。 「何を笑っているんです?」 「いや、そうだな、君が快諾すると思わなくてね」 あなたから誘って置きながら、おかしなことをおっしゃると返すと、神父は全くだと言って肩をすくめた。 「看守には私から言っておくよ。談話室で良ければ冷たいコーヒーでも出そう」 青空の片隅で、黒い雲はどんどんと成長している。もうすぐ雨がふりだしそうだ。 # ミステリーなんて読んだりしない、と口をとがらせる徐倫に花京院は笑っていた。 「ミステリーって問題かな」 「…まぁ、スタンドが出てる時点で成立はしないけど」 男子監房と女子監房は分かれていて互いに出入りすることは出来ないので、自然と花京院と徐倫は中庭や談話室、あるいは図書室で会うことが多い。会おうと思えば一日一回いつでもあえたので、こうして雑談をすることもよくある。今は談話室のソファで二人で向かい合って喋っている。 じゃあ、と徐倫は花京院を覗き込むようにして口を開いた。 「ミステリーをよく読むらしい花京院は、どういう風に考えるか聞かせてもらいたいわね」 「でも、その場に居た訳じゃないからなぁ」 「覚えてることは全部話したよ」 徐倫の言葉に花京院は、そうだねぇと曖昧に笑った。 「でもほら、観察力とか記憶力とか人によってまちまちだし」 「馬鹿にしてるの?」 「まさか、指向性の問題だよ」 談話室の一角から急に笑い声が聞こえて、またすぐに戻った。部屋のあちらこちらで騒がしい声があがってはすぐに収まっていくという繰り返しがなされ、雰囲気は波かあるいは蛇のようにうねっては安定している。今日は日曜日だからか人も多い。 その中で花京院と徐倫は比較的静かな方だっただろう。エルメェスやFFに言わせると花京院と一緒に居るときの徐倫はおとなしくて気持ちが悪いのだそうだが、そんなものは仕方がない。 だってかわいらしいドレスを着てお人形遊びをしていた頃から面倒を見られているのだからどうしようもないのだ。だから二人が居るときに花京院と会うと徐倫はいつも妙に落ち着かない。 「そんなに刑務所内で地位が高くないか、あるいは特権的立場。囚人じゃない、かもしれない。わかるのはそんなところくらいかな?」 「なんでいきなり、そんなこと思うの?」 なんで? と徐倫の言葉を花京院は聞き返してから、しばらく考えるように沈黙しておもむろに口を開いた。 「この刑務所って囚人が限りなく自由だから特定しにくいんだけど、面会室だろう? スタンド能力にもよるけど、犯人の能力は限定的だし、まさかこの刑務所の外から操れるってことはないだろう。遠距離にしては操作が精密すぎるから近距離か、いって中距離。この刑務所の中なら面会室から上下一階分、部屋なら廊下を挟んで二部屋ってところが限度だと思うね。面会室は他の囚人が多くいるけど、出入りがちゃんと分刻みで管理されて記録にも残るからね、そっちはもうあたっちゃった」 「え、まじで?」 徐倫の言葉に花京院は笑いながら、まじで、と繰り返して答える。 「おまけに男子監房でそれらしい囚人は特に見ないね。見かけてないだけかもしれないけど、囚人である可能性はそんなに高くない。ジョンガリAを使った間接的な介入と、彼の死亡から、この刑務所内をどこでも自由に歩き回れるような地位はないと思うね。だけど囚人ではないなら、特権的、例外的にここに出入り出来る人間。州立刑務所に勤めている看守、掃除人、料理人、雑貨屋の売人、あとは、そうだね」 目を細めて、花京院は考えながら喋る。 「神父、とかね?」 日曜日の礼拝を知らせる音楽がスピーカーから鳴り始める。 # 空条承太郎のスタンドディスクが取られた、ということにプッチはそこそこの危機感を抱いていた。空条徐倫はいつでも、どうとでも出来ると思っていたし、承太郎をおびき出す餌に過ぎなかったのだが、彼女は意外にもスタンドディスクを取り返した。 仲間はどこにいて、そして誰だ、とプッチはさりげなく彼女の動向を見ていた。空条徐倫とよく連れ立っているのは、エルメェス、エートロという女囚だった。最近よく話しているのを見るのは、この目の前の男だった。自分よりもいくつか年上だが、柔らかい雰囲気があまり年を感じさせなかった。確か名前は花京院と言ったはずだと思うと同時に、彼が名前を名乗った。初めて聞いたようなそぶりで驚いて、何度か繰り返していると、彼は笑いながら別に無理をしなくても良いんですよ、と付け加えた。 「この国で私の名前を正しく呼ぶのは、故郷の人間か、つきあいの長い人だけですからね。発音が難しいらしいんです。それに、今が神父様と二人ですから、名前がなくても別に困りはしませんよ」 そうでしょう? とたたみかけるように聞かれると、それもそうだと思い頷いた。プッチの視線の先の彼も、プッチを神父と呼んで、それ以上何か名前を用いる訳でもなさそうだった。 それにしても、と花京院は静かにしゃべり出した。その表情は、空条承太郎の記憶ディスクにあるとおりの表情だ。彼が、犯罪を犯して、この州立刑務所に偶然に収容されるということがあるはずがないのだ。彼は徐倫とも頻繁に接触をとっているようだ。 「神父様はどうして、また、私なんかに声をかけたのですか?」 エンリコ・プッチは自分からターゲットに近づくような事はしない。危険は、それに近づかなければならない時にだけ、覚悟をして向かう物で、そうでない時は黙ってやりすごすのが一番良いのだ。そして今は、危急の時ではない。 「いや、君と、話をしてみたかったんだ。礼拝に君は一度来ただろう?」 花京院はその言葉にすこし思い出すように眉を寄せてから、そうでしたね、とそれだけを返した。プッチの言葉は嘘ではなかった。囚人達に礼拝の義務があるわけではない。宗教の自由はこの刑務所の中でだって保証されているし、すこしだけキリスト教が優遇されているにすぎない。花京院は興味深そうに一度だけやってきて、プッチに一言二言、質問をしてから帰り、またやってくることがなかった。プッチは花京院の質問を少しだけ心の端にとめていて、それを急に思い出したのだ。 「そこで、君は質問をしただろう。魂と精神について」 私はそれをずっと考えていたんだよ、とプッチはキッチンからアイスコーヒーをトレイに移しながら喋る。花京院はプッチの言葉に少し首をかしげてからようやく思い至ったのか、頷いた。 「そういえば、ここに来たばかりの頃、礼拝に出て一度質問をしました。その時の神父様だったのですね」 覚えていただけたとは、恐縮です、と滑らかに言う彼に不審なところは見られなかった。スタンドを持っているようには見えないのに、プッチは内心舌を巻いた。空条徐倫から何も聞いていないのだろうか。そもそも彼女が花京院典明に自分の父親の事を話さないなんてあるだろうか。全ては偶然に、重なっただけだろうか。 いや、違う。それはない。花京院典明は記憶ディスクから自分のスタンドや、能力が漏れることを分かっている。その可能性も考えているのだろう。彼の能力はスタンド能力者でも隠されていれば容易には見つけられないのだから。そして、そのように見つけ出そうと、すこしでも注意力や集中力を落とせば、彼はそれに感づくのではないだろうか。 「答えを言わなかったのを思い出したんだよ」 「人それぞれですよ。私の答えもいまだ見つかりませんから」 彼が自分の元に質問にやってきたとき、プッチは内心少し驚いた。彼が空条承太郎の旧友であったことは、記憶ディスクからわかっていたことだったし、もう分かったのかと少し焦ったのも事実だ。だが彼は、ここに収容されてまもなく、刑務所内の施設を見て回りたかっただけらしかった。 ステンドグラスの光が差す教会でにこにこと彼は一つの質問をしたのだ。 プッチ神父、魂と精神の、そのどちらに本質があるとあなたはお考えですか? 名前を突然言われたことにも驚いて、なぜ名前を、と問うと、花京院は説教の前に名乗っていらしたと端的に告げた。確かにそうだ。自分はすこし過敏になりすぎているのかもしれないとプッチは息を吸った。それから少し話をして分かれた。彼の事はその質問を頭の隅にとどめて置きながらも、空条徐倫とともに居るところを見るまですっかり忘れていた。 それからこうして彼に話しかけるまで、プッチはとりとめもなくそのことについて考えていた。魂と精神が、もし仮に違うのならばどちらに本質があるのか。 「私は、魂にあると思うよ」 「なぜです?」 アイスコーヒーをテーブルに置きながら答えたプッチに花京院は間を置かずに聞き返した。プッチは少しだけ考えて、ゆっくりと自分の思考を言葉に置き換えようとした。 「それは、そうだな、魂は全てを覚えているからだ。そうして、天国までも持ってゆけるものだからだ。もしも私の前に、小さな赤ん坊が現れて、彼に旧友と同じ物を感じたとしたら、魂が同じなのだと思うだろうな。精神ではなく」 「では、あなたにとって精神とはなんですか?」 その質問は、カウンセラーじみているな、とプッチは思ったが、特に喋りにくい事があるわけでもないので素直に従った。花京院はじっと、プッチを見つめていた。アイスコーヒーには互いに手をつけていなかった。 「精神とは…精神とは魂の衣だよ。時代によって、環境によって、経験によって変わる。魂が高潔ならば、精神も影響される。どんなにみすぼらしかろうと、正しい方向を導き出す。魂が卑俗なものならば、逆も又しかりだ」 なるほど、と花京院は笑って、アイスコーヒーを手に取った。それで、プッチの答える番は終わったような物だった。花京院はコップのふちをなめるようにコーヒーを口にしてから、また少し笑った。 「あなたは永続に本質があるとお思いなのですね」 花京院の言葉に、プッチはすこし疑問を覚えた。それから、そうでうすねと答える。 「君はどちらだと思っているんだ?」 私ですか? と花京院はまるでそう聞かれることが予想外だったというように目を丸くしてから、そうですねぇと、コップを持ったまましばらく沈黙した。 「私は、精神の方に本質があると思っていますね」 「なぜ?」 プッチは花京院にならって、間を置かずに問い返した。花京院は考えるように一度目を閉じてからゆっくりと開いた。薄茶色の瞳は、細長く光に反射している。からんと氷がとけてコップにぶつかる音がした。 「その時の彼だけが持つ物だからです。私は、ダイヤが劣化しないことに本質があるとは思わない。そのダイヤの、一瞬のきらめきが本質だと思うのですよ。つぼみが花開く一瞬、人が笑う一瞬、精神は魂の一瞬でしょう? ここにある、という現実を私は愛しているのでしょうね」 「天国へ続かなくても?」 「永続に元来興味のない性格なのでしょう。経験を、環境を、時代を通じて形作られる精神にこそ、本質があるのだと思います」 プッチは少し反感を覚えて、言いつのる。 「だがそれは魂という本質の照射かもしれない」 「かもしれません。人それぞれですからね。ただ私は」 花京院はコップをテーブルの上に置いて、息を吸った。今から言う言葉がとても重いので口から出せないというような逡巡の後でゆっくりと吐息のように言葉を漏らした。 「私に触れない、どこか遠くの彼の魂なんて知ったことじゃないんです。だから、そうですね、これは」 ただのわがままなのでしょうね、と花京院は言った。 「残る方を、愛している方が、本質で、本当であってくれという」 愚かな願いなのでしょう、と彼はにっこりと笑い、プッチは一瞬だけのその笑顔がかつての友人に似ているような気がして、そんなことを思った自分を恥じた。 |