父さんの手ってそれはもう暖かくて、手の中でとくとくと鼓動がなっているの。父さんは何にもいわないけど、でも、私はいつも、父さんに聞く。どうしてこんなに寂しいんだろう。きっと父さんが帰ってこなかったからね。 つぶやくと、手の中で答えるように鼓動がなる。何を言おうとしているのか、そもそも何か言おうとしているのか、私にはわからないけど、それだけもいい。それだけでいい。 父さんにあえるのは決まった時間だけ。太陽の昇りきった正午と、おやつの時間よって幸せな三時。一日に二回。たったそれだけ。私は父さんにその日あったこと、別に何があるって訳じゃないんだけど、を話すの。 折り紙の船の折り方を習ったとか、今日はセロファンをもらったとか、そうね、海の夢を見たとか、アナスイが今日も冗談を言うのよ、とか、どうしてこんなに寂しいのか、父さんは知っているんでしょう?って聞いたりする。 決まって、鳩時計が鳴くの。軽い音で、時間を告げる。ぽっぽうって、こんな具合に。 ぽっぽう、ぽっぽう 時計が鳴る。彼女は微笑む。 ほら、もう幸せな三時ね。父さんが会いに来た。 # 何から喋れば良いんだろう、とアナスイは肘をついた手のひらに頭をのせて笑っていた。彼の笑顔にはひどく薄い影がはりついて、しかしそれはどことなく幸せそうに見えた。 「何から喋ればいいのかねぇ」 彼の口調が軽いのは、それを今までに何度も口にしてきたからであったし、彼に許されたのは、起こったことを再現し、ばらばらに分解して分析することだけだった。けれど彼に与えられたものは、不定形で手にはとれないか、あるいはもう二度と分解しないようにと決めているものだけで、つまり彼には喋ることを通してその現実を分解、分析する以外に出来ることはなかったのだった。 まぁ、いいや、と彼は明るく口にした。 「とりあえず会って喋るのが早いな。彼女はその白い扉の向こうさ」 アナスイの指し示した方向には、鍵のかけられた白い扉があった。 # 外側からかぎをかけられた扉の中はなんということもない部屋だった。窓にはレースのカーテンがあった。ベッドは片付けられていて、薄紫のベッドカバーがかかっている。枕元には古いくたくたのいるかのぬいぐるみが置いてある。 扉の開けられた音に、部屋の中心の椅子に座っていた彼女は振り返ってすこし驚いた顔をした。ふっとゆるむその顔はまるで全てを分かっているようでもあるし、何も了解していないようでもあった。 「話を聞きに来たの?」 頷くと、彼女は仕方がなさそうにため息をついてから、みんなそう、とだけこぼした。 「でも別に話すのはいやじゃあ、ない」 そう、いやじゃあ、ないの、と彼女は言って口を開いた。窓はいつの間にか開け放たれて、風はカーテンを揺らしている。そこからは一面に貼られた画用紙の上の青色のセロファンが見えた。 # 父さん、私の父さんの話ね。私の父さんは全然家に帰ってこない人で、そうね、誕生日なんて祝われても恥ずかしいって友達がいうのをそういうものかって聞いてた。恥ずかしいのは、ずっと昔から、子供の頃から祝われていた、今更祝われても自分はそんな年齢じゃない、子供じゃないって、反発で恥ずかしいんだと思う。でも私はそんなことなかった。だって父さんは子供の頃から私の誕生日になんて帰ってこなかった。夏休みにもいなかったし、私がハイスクールに進むときも別に学校を見に来たことなんかなかった。卒業を祝ってくれたこともない。私はいつも、パーティのドレスを一人で選んで、ボーイフレンドを捜してばっかりいた。 クリスマスにさえ帰ってきたことなんて、なかった。みんな家族と過ごすのにね。いつも私は母さんと二人で、父さんは今年も帰ってこないのねって言い合った。いつからか、母さんはそれすら言うのをやめて、多分自分が傷つくからね、でも私は母さんを傷つけることが分かっていて、言い続けた。 今年も、父さんは帰ってこないのね。 父さんは、海洋学者だった。海洋学者って学者なのに、よく出かけるのよ。それとも学者はみんな世界中を飛び回ってばかりなの? フィールドワークだとか、めずらしい行動パターンが出たとか、半年前にタグをうった鯨のデータを取りに行くとか、そんなことばっかり言って、帰ってきてはまた出て行くの。 父さんが帰ってくると、母さんはまず手の込んだ料理を出すのよ。こんなに手がこんでるのなんて普段は作らないくせに、父さんが帰ってくるって連絡をした数日前から、肉を買って、香草を仕込んで、野菜をきって、圧力鍋で煮込んで、って具合。 何かが煮えていく柔らかい匂いとか、つけ込まれて肉を冷蔵庫に見つけて、私は父さんが帰ってくるって連絡が来たんだって思う。でもそれでも父さんが帰ってくるのは半々くらいだった。帰ってこない半分に当たった日は、私一人だけでその料理を食べるのよ。綺麗にリボンをかけられた鳥の足とか、色鮮やかに蒸された野菜とか、三人でも多いような料理を暗いリビングで食べてるの。だから私父さんが帰ってくる日はうんとお腹を空かせてた。父さんが帰ってきていたら、この料理がいかにおいしいかって分かってもらうために、帰ってこない時は、その料理を食べきるためにね。もちろんそんなのは無理だったけど。 母さんは、電話を受け取ってからしばらく黙って、寝室にいるわ、ジョジョごめんねって寝室に閉じこもってしまうの。きっと泣いてたんだ。 母さんが、料理を作るのは、父さんにこの家にいてほしかったからだ。だって、調査先ではろくなものが食べられないっていっつも話してたからね。だから母さんは、いつも、この家にいればおいしいご飯が、暖かくて、すてきな会話と一緒についてくるって知ってもらいたかったのね。父さんは最初の日はとても嬉しそう。 あまり感情の動かない人だったけど、それはわかる。とても嬉しそう。懐かしそう。徐倫、ただいまって頭を撫でてくれる。それで次の日、私や母さんと遊んでくれる。ちかくの入れ替わった雑貨屋さんを私が案内したり、あるいは遠くの遊園地、動物園に連れて行ってくれる。母さんも楽しそう。嬉しそう。それで、この日々がすぐに終わるって思いたくなくて悲しそう。 でも父さんはすぐに行ってしまう。三日も立てば海の方ばかり見るようになる。私たちの家は海のそばにあったから、余計に思い出したでしょう。母さんは、いつも引っ越しをしたがっていた。新しい家だって探していたと思う。でもいつも間に合わない。父さんはPCで大学と連絡をとったり、財団からコールが入ったりする。そんなに調べることってあるの? 教授についていくとか、あるいは全然違う用で、出て行ってしまう。母さんは何も言わなかった。確かめることがきっと怖かったからだと思うわ。 「父さんは、私たちを愛している?」 答えは、もちろんいつも同じ。 なぜそんなことを聞かれるのかわからない、父さんの表情だけ。 # 彼女にいったかって?とナルシソ・アナスイは眉をひそめて問い返した。それからしばらく呆れたような顔をして、大声で笑い出した。それは発作的でヒステリックな笑い方だった。窓ガラスがちかくにあればびりびりとなり出しそうだ。 「言ったよ。ああ、もちろん。徐倫、それは、君の父親じゃない」 ってね、とアナスイはなおも笑っていた。それからふと思い出したように付け加える。最初の頃は、いや、最後の頃はだったかもしれないな、と自嘲した表情だ。 「きっと、昨夜の夢からまだ覚めてないだけだよとも言った。徐倫は笑うだけだったよ」 分かっているのよ、と笑うだけだったよ。 # 俺はその時彼女と一緒に居た。一緒に居たというよりも、彼女にそれを知らせたんだ。徐倫は、庭の木蓮の様子を見ているところだった。そばにはワイルドストロベリーの茂みがあって、恋が叶うなんて噂があるのよって笑ってたのを覚えている。その時俺は、うぬぼれてもいいのか? って聞いて、彼女は何を聞かれたか分からないような顔をしてから笑い出していた。何を言ってるの、アナスイ、そしたらもう叶ってる、って二人で笑った場所だった。 徐倫のその手に緑色の象の形をした小さなジョウロを持っていた。ジョウロで水をやるのが好きなんだって言っていたな。そのジョウロも父親からもらったものだと大事にしていた。 そう、その、父親。 彼女がコンプレックスを抱えているのは一目瞭然だった。俺もコンプレックスという意味では人のことは言えないがな。人には言えない悪癖もある。だけどまぁ、それは今の話とは別の事だ。彼女は強いコンプレックスを抱えていた。愛情の渇望、欠乏の裏返し。彼女の母親は、徐倫には悪いけど、全然徐倫と似てなかった。普通の人だったよ。普通の、嫉妬もすれば疑いもするし、失望もして、諦めに慣れたいって願う普通の人間だ。 徐倫は、愛情を渇望してたからだろうか、彼女にはどこに与えていいかわからない愛がたくさんたくさん潜んでいて、それはすこしずつ、まるで彼女の持っているジョウロみたいにくみ出されようとしていた。うぬぼれるなら俺に対して、彼女が言うには帰ってこない父親に対してね。 母親が受けた電話の伝言を伝えるわずかの間に徐倫は言っていたね。父さんにももしかしたらやむを得ない理由があるのかもしれない。だってしたくないことをするタイプの人じゃないから、きっとここで私たちが家族という関係を繋いでいることが答えなのね。暴力的もいいところだけど、父さんは私たちを信頼しているのかもしれない。愛情を信じてくれるとね。 全く、世迷い言だよな。だって誕生日にもクリスマスにも帰ってこない父親だ。送ってくるのは毎年、プレゼントだけで、手紙の一枚もない。たまに帰ってきたと思えばすぐに出て行く。出て行く直前は海の方ばかり見ている。徐倫の事になんか振り向きもしない。 彼はすばらしく見目が良い。さすが徐倫の父親だ。気性も似ている。まっすぐだ。まっすぐで、余分な物がない。分解してもきっとたいした物は出てこないだろう。分解して見るような物はね。一つ一つが奇跡みたいにかみ合って、ああ、こういう言葉はあんまり使いたくないが、美しい。あるがままだ。見たままだ。これって結構ありえない事だぜ。見たままあるがままの人間なんて、いないんだ。誰もが、その皮膚の下にはどろどろとした内蔵を抱えているはずなんだが、まぁ徐倫の父親に限っては、そういうものもないんじゃないかと思うことがあったね。 全て海の向こうにおいてきちまったんだと俺は思ってたよ。 ああ、話がずれたな。そう、彼女は木蓮を見ていた。俺は伝えたよ。だってそれ以外に何が出来る。 「徐倫、君の父親が、行方不明になったって」 クレバスに落ちたんだ、と俺はそう言った。凍死をしたのだろうと考えられた。死体は結局は返ってこなかった。徐倫は、俺の言葉を聞いて、すこし考えるように小首をかしげた。指を顎にあてて、笑ったんだ。綺麗な笑顔だった。緑色のジョウロから、水が固まりのように落ちていた。 「そうなの、アナスイ、そうなのね」 徐倫はジョウロを持ったまま、家に戻って、母親の顔を見た。彼女の母親は、寝室にいるわ、ジョジョ、ごめんね、と切れ切れにいっておぼつかない足取りで部屋に戻った。徐倫はしばらく電話の前で立ちすくんでいた。ゆっくりと首をかしげたまま、クレバス?と俺に聞き返した。俺は声を出すことも出来ずに頷いた。 「クレバスって、父さんに聞いたこと、ある。氷の割れ目。すごく深いのもあって、落ちたらほとんど助からない」 きっと、冷たいんでしょうね、と呟く徐倫は夢見るようだった。 「死んでも、体は腐らないまま、ずっとそこにあるんでしょうね」 それから、不意に夢から覚めたように透明な瞳をして、私もすこし部屋に戻る、とそれだけ言って部屋に閉じこもった。 それから彼女は出てこない。 出てこない。別に入ってくるなと言われている訳じゃない。入っても大丈夫だ。彼女の頭はしごくまともに動いている。まともに動いていることと、まともかは別の問題だがな。 そうして、鳩時計を眺めているんだ。ずっと、鳩が出てくるのを、待っている。一日二回だけ出てくる鳩時計の鳩が、自分の父親だって思うっていうんだ。生きてるし、考えているんだと。それから、木蓮の前で笑ったのと同じ笑顔で、聞くんだ。 「ねぇ、アナスイ、どうしてこんなにさみしいの?」 俺は答えられない。そればっかり考えているが、彼女がどうして寂しいのかはわからない。だって、父親は、その鳩時計の鳩なんだろう。生きているんだろう。そこに居るんだろう。どこにもいかないんだろう。 「どうして」 彼女は本当に心の底から不思議そうにそう聞くんだ。 ああ、言ったよ、最初だけ、彼女がまともじゃないかって信じてた最後だけ、言いきかせるように。含めるように。 「昨夜の夢からきっと覚めないだけだ」 分かっているのよ、って徐倫は笑うだけだった。 |