花京院と外に遊びに行きなさいと言われるのが徐倫は好きではなかった。たいていそれは滅多に帰ってこない父親が、帰ってきてから数日してから必ず言う言葉だったからだ。別に花京院と遊ぶのが嫌なわけでも、彼を嫌いなわけでもない。滅多に帰ってこない父親の代わりを率先して務めているようにさえ見える彼に徐倫はひどく懐いていた。 花京院と外に遊びに行ってきなさい。響きにはいつも有無を言わさぬものがあった。そうしてまったく用意のいいことに、花京院は徐倫が察知する少し前に変化した雰囲気を感じていて、徐倫のお気に入りのコートだとか、靴だとかをすっかり用意して、さぁ、徐倫おいしいものを食べに行こうだとか、遊園地へ行こうかだとか、それは誘惑に駆られるものを口から滑りださせるのだ。 その、素敵な誘惑がなりふり構わないことからくるのだと徐倫はうっすらと感づいていて、それでも、花京院の言葉にはぐらりと来るものをいつも覚える。リビングと玄関につながる廊下の間でどちらにも行けずに立ちすくんでいると、父親の後ろで泣きそうな顔をしている母親が徐倫、と悲しそうにつぶやく。 声音自体に張りつめているものがある。徐倫の母親は視線を花京院に向けると、花京院はやさしく徐倫の手をひっぱる。もう彼女に抵抗する力も気力もない。この場にいる誰もが、徐倫以外は、彼女がここから去るのを望んでいるのだ。 お気に入りのコートを花京院がうやうやしく着せてくれる。彼は自分に靴さえ履かせてくれて、まるであなたの騎士みたいね、とクラスメートがからかう。あなたのお父さん、とってもあなたを愛しているのね。徐倫はいつも何からいっていいのかわからなくなってしまう。違うのあれは私の父さんじゃない、と説明するのも億劫で違うわ、とだけ答える。花京院が私にやさしいのは私を愛してるからじゃないの。 徐倫はいつも、花京院に腕をひかれながら、どうして母さんにそんな顔をさせるのと思う。どうして、帰ってこないの。待っているのに、と糾弾するように思う。何よりも不安なのは、自分と花京院がいなくなったあのリビングで二人が何を話しているのかと考えることだった。 私たちを、父さんは愛してくれているの?うんと答えるならばどうして一緒にいてくれないの? 期待はするだけ無駄なんだ。あいつは帰ってこないよ。 心の隅で芽生え始める声を徐倫はもう打ち消すことはできない。誕生日なら来てくれるかもしれない。誕生日が無理なら、クリスマスに。それさえ通り越しても年が明けたら。約束はいつも、逃げるように遠くなる。病気になったら、死にかけたら? 父さんは駆けつけてくれるの? 期待をして待つのは楽しい。約束の時間に時計の針が近づけば近づくほど時の進みは遅くなって、徐倫は口から心臓がでてしまいそうだと思う。母親はもう疲れた顔をしている。でも大丈夫よ、だって今度こそってきっと父さんも思ってるはずだから、徐倫はことさらに声を弾ませていう。その事実自体が、母親を苛ませている。 やがて針は約束をすぎる。一時間、長い時間がたって、電話が入る。言い訳の一つもない簡素な言葉。やはり帰れなくなってしまったようだ、すまない。 期待にふくらませていた柔らかい心に、その言葉はより辛い。母親はやってくるとわかっていた寂しさが、それでも自分の心を苛むことにもう疲れきっている。花京院が、でも、きっとクリスマスプレゼントは届くよと、慰めるように言う。きっと承太郎も、さみしく思っているよと。 けれど徐倫にはあの電話越しの乾いた声音にそんな感情を見つけられない。 悔しいのは、それでも花京院と食べるケーキに舌が喜ぶことだった。ここのケーキ屋さんにいつ行こうかと母親と喋っていたことを花京院は覚えていたのだろう。なんでも好きな物を選んで良いよと言われて、気の乗らないまま選んだブッシュドノエルの上には砂糖菓子のサンタが乗っている。クリスマスが近いのだ。 「きっと父さんは私たちのこと、どうでもいいのね」 徐倫の言葉に花京院は頼んだコーヒーに口をつけたまま、少し驚いた顔をしている。それから静かにカップを下ろした。その仕草によどみはなく、何かを考えているような表情は、向き合っていると徐倫に感じさせる。私の事を、私たちのことを考えていると信じさせてくれるのだ。 「そうかな、僕にはそうは思えないけど」 「花京院はそう言うけど、私は」 そうは思わない、と徐倫の母親なら口にしただろう。だが徐倫はそこまでの事をいう気持ちにはなれなかった。代わりに渦巻いている不満の気持ちをフォークによってケーキにぶつけると、ケーキの上のサンタクロースは乾いた音を立てて、皿の上に落ちる。 そういうのはやめておきなよ、と花京院が静かに嗜めるようにいった。 「きっと、父さんは私が病気でも、死んでも、帰ってなんかこないわ。電話一本ですませるのよ。いけなくなったすまないって、きっと言うの」 花京院は一瞬の沈黙の後で、そんなことはないんじゃないかなぁとのんびりと付け加えた。コーヒーから立ち上る湯気に紛れて言葉はとても優しい。 「きっと帰ってくるよ、もしも、帰ってこなくてもそれは」 徐倫、君を世界で一番愛しているからだよ、と花京院は言う。その言葉の意味がわからなくて顔を上げると、花京院は瞳をなごやかにゆるめて笑っていた。 「世界で一番、愛してる? そんな訳、ない」 「あるある。だって僕がいうんだよ」 ぐっと、徐倫は言葉につまった。花京院は承太郎とまだ学生だった時からなじみで、あの父親に学生の時があったなんて徐倫には信じがたい、彼の言う言葉は何を考えているのかいまいちはっきりしない父親のその心情を正確にくみ取っていることが多かったからだ。 「でも、花京院は、父さんの味方だもの」 その言葉に花京院は大げさに驚いて、額に手を当てた空を仰いだ。 「ああ、ついに徐倫に反抗期が。僕は嬉しいような、寂しいような複雑な気持ちです」 違うでしょ!ともう茶化そうとしている花京院の言葉に徐倫は反論するけれども雰囲気はなかば和やかなものになってしまっていた。ケーキのクリームは暖房の暖かさで大分溶けてきている。 不意に花京院が身をかがめて、徐倫の瞳を覗き込んだ。花京院の茶色い瞳が徐倫は好きだ。父親の物とも、母親のそれとも違う柔らかな色合いは、他愛なく優しいと思わせてくれるからだ。 言うと、花京院は、それは見る目がないねぇ徐倫と笑う。僕よりも承太郎の方がよっぽど優しいんだよ、と。 「君は世界で一番承太郎に愛されてるよ。世界で一番承太郎が好きな僕が言うんだから、間違いない」 言葉の大仰さとそれに比例する嘘くささに徐倫は眉を下げて笑ってしまう。あきらめの混じった笑顔に、花京院はすこしだけ眉をひそめる。 「世界で一番、父さんが好きなの?」 「世界で一番、好きだね」 愛の告白みたいだね、と花京院は茶化すように笑って、コーヒーに口をつけた。そして君は、と花京院は付け加える。 「承太郎が世界で一番愛しているから、僕にとっても大事だよ」 悲しい言葉のような気がしたのに、徐倫はそれを突き詰める気持ちにはなれなかった。それは結局、自分が居なくなった後に、両親が何を話しているかを考えるのと同じくらいどうしようもないような気がしたからだった。 さぁ、もう行こうかと、時計を見て花京院が言う。ケーキはほとんど口をつけられていない。出て行ってから三時間ほど立っている。おそらく話し合いは平行線をたどって、どうして、と父を責め立てるのに母が疲れる頃合いなのだろう。 コートを着せてもらい、マフラーを巻きながら徐倫はふと思いついたように花京院に問いかける。 「花京院が世界で一番好きなのが父さんなの? それとも父さんを世界で一番好きなのが花京院なの? どっち?」 「どっちでも」 好きなように取るといいよ、と花京院は言って、徐倫の手を取った。外では電子音のジングルベルが吹けば飛びそうに鳴っている。 |