そこはテラスだった。木で作られた床の上に、白く色つけされたテーブルの足が曲線を描いて立っている。それとそろいの椅子に深く腰掛けた青年が、そうだ、プッチの目には彼が成人する前の青年に見えた、くんだ指の上に額をよせて、うつむいていた。青年の前髪が彼の表情を覆い隠して、プッチにはどんな顔をしているのかは分からなかった。 陽はまだ高く、じりじりと青年とプッチを照らしていた。青年は何かを口ずさんでいるようだった。それは歌だ、ということは分かったが、何を歌っているかはよくわからなかった。辺りはしんと静まりかえって、物音一つしなかった。人々が多くいるにも関わらず、何の音もしない。コーヒーカップの中のコーヒーは、それを注文した人間に飲まれることもなくもう冷たくなっていた。 もしもプッチが時の静止する情景を垣間見たのなら、今の情景とひどく似ている事に気がついただろうが、彼はそんなことにかまっている余裕を持っていなかった。 エンポリオ・アルニーニョを逃がしてしまった。時を進めなければならない。そして、ジョースターとの因縁を断ち切り、天国へと。そう思っていたからだ。その青年を目にするまでは。 青年はやがて、プッチが居ることに気がついたのかゆっくりと顔を上げた。彼の顔はどこか空条承太郎と似たような雰囲気が垣間見え、東洋人であるのだと気がつくのには数秒を要した。柔らかい、人好きのする愛嬌のある顔をしている。眉尻を下げて、ひどく困ったような顔をしていた。 「話を、聞いてはくれませんか、神父様」 言葉はひどく場違いで、口調はとても穏やかだった。プッチはここがそのような場ではないと知っていながらも、この青年の話を聞きたいという気持ちが強かった。 自分のスタンドの影響を受けない人間が居ては困るのだ。だがどうしていいかもわからない。プッチは、曖昧に首を縦にふった。すると青年はふっと唇の端をゆるめてため息をついた。おそらく安堵のため息だった。 「ああ、よかった。あなたが、そのような暇はないといったらどうしようかと思っていたんです。この」 気持ちをどこへ、もっていけばいいのかと、と呟きながら青年は男にしては幾分か細くしなやかな指を胸に当てた。そうしてしばらく黙り込んだ。雲はゆっくりと流れている。立ち尽くしているプッチに、青年は座ったらいかがですか?と自分の向かいの椅子をすすめた。 「あまり、長い話にするつもりもないのですが」 それにしても想いがつよすぎるもので、と青年の顔に浮かんだ表情はおそらく自嘲だろうとプッチは見当をつけた。懺悔室の中に入ってくる人々の口に浮かぶのは、いつもこのように歪んでいる。 自分の向かいに座ったプッチを確かめて、青年はプッチを真っ正面から見据えて、懇願するように、口を開いた。 「今日、僕の大事な人が死にました」 エンリコ・プッチ神父、と青年は付け加えた。プッチが動揺をしなかったのは、動揺よりも興味を引かれたからだった。青年は自嘲を浮かべながらも笑っている。プッチは自分がかつて、本当に神を信じていたときのように、あのすばらしい彼と出会う前の時のように、目の前の青年を真にいたわり、哀れみ、神の愛があなたに、と言っても良いと思った。それは、とプッチが思考を結論に結びつける前に、青年はしゃべりはじめた。 「その人は、全く世界のために死にました。世界のために戦って、我欲に負けて死にました。いいえ、それは、あるいは愛という正当で崇高な想いの前に。世界と愛を天秤にかけ、愛を取り世界を失いました。けれどそれはいつでも止まった時の中にあり、誰も確かめられはしなかった」 この、と青年は両腕を広げた。この時の進み続ける世界で、と、まるで舞台俳優のようだった。 「その人はかつて世界を救いました。それもまったく愛という、崇高な目的を原動力に、悪を打ち倒しました。打ち倒したそれは、これもまったく言い訳のしようがないような悪で、そこまでいけばいっそ崇拝されるべき輝きでした。ある意味ではその人とそれは似ていました。光と影、太陽と月、星と、泥?」 青年はプッチに向かって、そう言う。うまくいかない冗談を口にしなければいけないのが、逆に楽しくてしょうがないのだというように、彼の口からはとめどなく、止めどなく、言葉があふれてくる。 プッチは、真綿で首をしめるように、包囲されているような気がしていた。神父、という仮面をかぶった心を、青年の力のなさそうな手のひらがゆっくりとぐらぐらと、どうしようもない力で揺らしはじめていた。 「そして彼は、悪とも正義とも関係のない場所で無様に死にました。あんなにも鮮やかな手で、あんなにも輝かしい力で、あんなにも孤高に立っていた彼は」 青年はゆっくりと笑った。暖かで、優しい笑顔だった。 「あなたの手で、殺されました。エンリコ・プッチ神父」 ぐるりと時の進むスピードがよりいっそう早くなったのをプッチは感じていた。元の時間の流れに乗ることも、早回しの時間に紛れることもできるはずのプッチは、しかしその流れには乗らなかったし、目の前の青年もなぜか時間の加速に影響を受けなかった。あるいは、プッチの能力を鼻で笑っているようだった。 「ああ、よかった、君が承太郎を殺したときと同じように早回しの時間の流れにのってしまったら、本当につまらないことになるんだ、やめてくれよ」 だって、生きている人間はまるで時を止められたように動かないんだから、と青年は笑い続けている。 「君は、何だ、誰だ」 「僕は、ただの、幽霊だ。生きていない、天国にも行けない、階段は上れない、承太郎は行ってしまったのに」 いいや、いまだ、と青年は呟いた。 「行かない。君と話がしたい。君は僕と、よく似ているよ?」 そう。 呟きながら青年は嬉しそうに笑った。本当に、この世の全ての幸福が押し寄せてきたようだ。神が目の前に現れて、救いを示してくれたのだというようだ。この青年だけが一足先に、天国へと行ってしまったようだった。 「たった一人の人間のために、なんでもしようと思っているその姿がね」 まぁ、僕は死んでしまったんだけどさ、と花京院は朗らかに喋りながらプッチの目をじっと見ていた。 |