海は常に表情を変え続け、今や群青よりも遥か濃い藍にその身を染めていました。その色は全く命すべてを飲み込んで、降り積もる生と死そのものです。その表面をひっきりなしに、食われるものの悲鳴のように、先だけが白く泡立った高い波が互いにぶつかっては消えたり高くなったりしていました。 岬には灯台が一つたっていました。さびかけた梯子があるだけの、灯りも滅多につかない灯台です。その縁に一匹の白い鳥がとまっていました。海から吹き付けられる風をその瞳に受けてただまっすぐと荒れ狂う海としんと曇った空を分かつ水平線を見つめています。 その白い鳥は、なんの変てつもないただの鳩でありました。羽は鷹ほども立派でなく、ただ白く美しい毛並みの上に雪の降る直前の雲のような薄いグレーがかかっています。胸の毛はうっすらと桜色をしていましたが、無惨にも強風に運ばれてくる海水で濡れぼそっていました。この場に海以外の色があるといったらその鳩は嘴と二本の足だけが珊瑚のように赤かったくらいでしょう。 鳩はただじっと水平線を眺め続けていました。やがて雲の合間から雨が降ってまいりました。雪よりもなお冷たい水が鳩の羽を濡らしてゆきます。 鳩はその赤い嘴に小さな袋をくわえていました。濡れても平気なように皮でなめして作ってあり、冬の間にわずかしかとれない草で綺麗に染められた、紫色の袋でした。袋の口は決して中には入っているものがこぼれないように針と糸で縫い付けられています。中には乾いた種がたった一つ入っているだけです。 鳩は自分にこの袋を渡した手の事を考えていました。冷たく震えた、けれど力強い手でした。鳩をすっかり包めたその手は袋を渡していいました。 あの岬の灯台から光がまっすぐ延びるほうへどこまでもすすんでくれ。まっすぐ、まっすぐ。そうすればやがて暖かい場所につくだろう。だれも涙を落とさない、暖かい場所へ。 僕はそれを与えるつもりでいたんだけれどここに骨を埋める事になってしまった。ほんとうにすまない。 鳩は自分の辛い運命を厭わしいと思っていました。冬の寒い、雨の降るこんな日に海の激しい風のなか進んでいかなければならないのですから。なにより鳩は鷹のように立派な羽も、よだかのようにしんしんとした絶望も何一つもってはおりませんでした。 ひどく頼りないかすかな音をたてて、太陽の光の薄い昼間の空にすっと光が差しました。きっとあの震えた冷たい手の仕業でしょう。灯台のきれかけた光は荒れ狂う海の上でなんと心細いことでしょう。叩きつけるような冷たい雨がすこしだけ光を反射して、鳩は羽をぶるりと震わせました。海の波音は大きく、鳩を飲み込もうとしているようです。 鳩は袋をくわえている嘴に力をこめて、羽の付け根を広げました。柔らかな羽はふわりと広がって海の上を飛ぶように強靭な筋肉などなに一つついていないように見えます。まるで鳩が羽を広げるのを待っていたように陸から強い風が吹きました。 風はたった一度でしたが遠く遠く水平線の向こうまで届き、荒波は凪ぎのように穏やかに見え、雨雲をおしのけ、羽ばたき始めた鳩の目には暖かい太陽さえ見えるのではないかと思われました。 一度鳩は灯台の上をぐるりと回り光のすこし上を落ちるようにすすんでゆきます。雨は細い針のように痛みを伴って羽を打ち続け、風は大きな塊のように鳩を押し返しました。 その息もできない中を鳩は柔らかい羽で空気を切り裂いて進んでゆきました。それしか鳩のたよるべきものはありませんでした。いつのまにか光は見えなくなりただ荒れ狂う海、しんと曇った空、分かつ水平線と、ぶつかってくる雨だけが鳩の目に写っています。 鳩の胸にはしんしんとした絶望はありませんでした。ただ小さくとろとろと燃え続ける火がありました。薪を加えればなにもかもをもやしつくす激しい火種が胸の奥底にあり、それが羽の付け根の筋肉を動かし続けていました。風を切る笛のような音は鳩の火種をより強く煽ります。 鳩は光ない海の上を羽ばたく回数もすくなく、力づよく空気を切っていきます。 この袋の乾いた種が落ちるのはきっと柔らかい土の上でしょう。暖かい場所へたどり着いた鳩は種の落ちた近くの家の窓辺で、種の落ちたところを眺めるのです。やがて土を割って小さな芽が出てきます。産毛を光らせて双葉を開くのです。鳩の眺める前でするすると芽は伸び、若木になり、葉がしげり、やがて赤い実をつけます。鳩のその嘴のような赤い実です。 そうして大きな暖かい手が鳩を撫で、あの赤い実をもいで鳩に与えてくれるでしょう。 鳩は甲高い音をたて風を切りながら、荒れ狂う海の上をまっすぐに、どこまでも進んでゆきます。 |