末期骨髄腫という診断をもらったときに花京院が感じたのは、それが自分にも訪れたのだ、ということだけだった。しいて言うのならば、原因不明だった背骨の痛みの原因がわかって、どうしようもない気持ちになったことくらいだった。 カルテを持った医者は、職業的笑顔を浮かべて、病状の説明をしている。花京院は視線を落として自分の手のひらを見つめた。 「こういうのって遺伝なんでしょうか?」 そういう可能性も大いにありますね。遺伝子の型が似ているということは同じ病気を発祥しやすいということですから。医者の説明はよどみない。花京院はため息をついた。 「僕の父も、祖父も、そのまた父も、骨髄腫で死にました」 その言葉は結局、この病気の予後がいかに厳しいものか、いかに絶望的で、ホスピスを薦められてもおかしくないのだとわかっているのだという言葉に過ぎなかった。 視線を上げると、やはり職業的に穏やかな笑顔を浮かべたまま医者が、入院の手続きの説明をしている。西日はカルテの上に斜めにさして、その上に書かれている病状がどの程度のものか、花京院にはわからない。 入院手続きがすめば、病室まで案内されるのははやかった。それほど多くない荷物とともに看護婦に案内されながら病室に向かうと、病室にはベッドが二つ並んでいた。ひとつはきちんとベッドメイクをされて、まっさらになっていた。窓側にあるもうひとつは、誰かがつかっているのだろう、すこし乱れているが、病人の姿は見えない。 いつものことなのだろうか。それを見て、看護婦は仕方がないというようにため息をひとつついてから、てきぱきと案内をした。ここに私物をおいてください。金庫はこちらにあります。ナースコールはここです。ナースステーションは出て右にあります。テレビを見たいのならばカードを勝ってください。一枚千円です。 看護婦の説明はやはり医師と同様によどみない。 それではと挨拶さえも簡潔に看護婦は去って行ってしまった。花京院は荷物をベッドの上に投げ出して、病室をぐるりと見渡す。狭くもないが、広くもない。壁はすこし黄ばんでいる。同室の住人は帰ってくる気配もない。 荷物をあらかた片付けて、病院着に着替えるともうすることがなくなってしまった。暇つぶしの道具も持ってこなかったことに思い至って、テレビカードでも買おうかと財布を覗いてやめにした。これから先金がたまることもありそうにないし、暇ならばねればいいのだろう。 そう思うと眠気が襲ってきて、すこし背骨が痛んだ。モルヒネなんか、出してくれたりしたら楽だろうけれどいやだなと花京院は考えながら眠りに落ちた。 # 目が覚めて人の気配を感じたので、同室の男が帰ってきたようだと花京院は眠気にぼんやりとした頭で思った。横を向くと、ずいぶんと大柄な男が白いセーターとジーンズという、まったく病人らしくない格好で上半身を起こして雑誌を読んでいた。 おまけにタバコまでふかしている。煙がぷかぷかと病室の空気の中でゆらめいて、なるほど壁の色はこの男のタバコのせいかもしれないと思った。 隣の男は花京院がおきたのに気がついたのか、雑誌をめくりながら、起きたのかと低い声で呟いて、タバコをもみけした。それからもう一本新しいのを銜えて火をつけたので、花京院に配慮したわけではなさそうだ。 「タバコ、そんなに吸っていいのかい」 君は病人なんだろうと言外に含めると、同室の男はすこし面倒くさそうな顔をした。 「どうせ、吸っても吸わなくてもかわりゃしねぇよ」 笑って彼はぱらりとまた雑誌を読んでいる。 「ここは末期患者しか入れない部屋だからな。ナースステーションが近いのは、いつ容態が急変しても大丈夫なように、だ」 「え、ああ」 そういえばそういうのは聞いたことがあるな、と花京院は思う。病院に長く入院していると、そういう部屋がわかる。 「言っとくが俺は入院してからそんなに長くねぇよ。お前より一週間早いってところか」 だけど一週間もいると、病院ってのは退屈だ、と男は付け足した。食事はまずいし、やることはない、とフィルターをかみながら言う。 「まぁ、短い間だろうがよろしくな」 そういって男、空条承太郎は名前を名乗った。花京院はそれにうなずいてから、あわてて自分の名前を告げた。それを承太郎は面白くなさそうに聞きながら、また新しくタバコに火をつけた。 さて、空条承太郎という男は、自分の病気を治す気が本当にまったくないように、花京院には思われた。それこそ、食事の時間に病室にいることはほとんどないし、タバコはチェーンスモーカーかというくらい絶え間なく吸っている。 おまけに花京院に酒でも飲むかと有無を言わさず、首根っこをつかんで病院の厨房まで引っ張ってくるんだから恐ろしい。たしかに厨房には、ウォッカがこっそりとしまわれていた。調理棚から承太郎は塩を見つけ出して、どこからかもってきたレモンをナイフで器用に二等分している。 「お前も飲むだろ?」 薦められれば悪い気はしなかった。花京院だって、病院の食事には飽き飽きしていたし、一週間もたてば、なるほど彼が破天荒な行動をとる理由にもうなずけた。 要は治る可能性もないのに、治療を受けることがばかばかしいのだ。ウォッカに口をつけて、レモンをかじりながら承太郎はすこし眉をしかめた。 「やっぱりウォッカにはライムだよなぁ」 「レモンしかないんだから、仕方ないじゃないか」 そういいながら乾杯をして、アルコールが入ってくると二人の会話は急に弾んだ。暗がりの厨房で、大人二人が何をやっているんだと突っ込むような人間は誰もいない。 二人の会話は病院がいかにつまらないかや、こんなにまずい食事があるなんて、というものから始まり最後には病状自慢になっていた。僕なんか代々骨髄腫で死んでるんだからもう自分に発症したときは笑っちゃったね、いや、俺なんて朝頭痛がひどいと思って検査受けたら末期の脳腫瘍で驚いた、とか、背骨が痛いだの、頭痛がひどいだの、口々に言い合って、最後にはどうせ死ぬのだからと笑いあった。 「海だ」 「何が?」 お前は、天国で何が話題になっているか、知ってるか、と突然承太郎が声を潜めてそう聞いてきた。ウォッカのビンはもう空になって、最後のいっぱいを二人で飲んでいるときだった。 「天国での話題だよ」 上る朝日のすばらしさ、永遠に打ち寄せてくるんじゃないかと思うような波の音、晴れた真昼のどこまでも続く群青色、落ちていく夕日の海に解けていくさま。 「そういうのを、天国ではしゃべりあうんだ」 「でも、僕は海を見たことがないなぁ」 その言葉に承太郎はひどく面食らったような顔をして、グラスを厨房の床に置いた。多少リアクションがオーバーなのはきっとアルコールが相当入っているからだろう。 「見たことがない?」 「ないよ、内地に住んでたし」 そう言うと、承太郎は、お前はなんてかわいそうなやつなんだろうという具合に眉をしかめる。 「きっとお前は天国でも、海を見たことがないからとかいって、話題に入れないままだな」 ほかの人間たちが、海がどれだけすばらしかったか話していても、お前は見たことがないから会話に入れないんだ。それで、ぼつんとみんなの輪から外れて、わいわいやっているのを見るしかないんだろうな。 「よし、それなら」 海を見に行こう、と承太郎が言った。アルコールは恐ろしいのだ。花京院は自分が海を見ていないことで、話題に入れないことを半ば本気で寂しく感じて、承太郎の言葉にうなずいた。 「でも、どうやって?」 花京院の言葉に承太郎はにやりと笑って、立ち上がった。 # 話は変わるのだが、ここにひとつのベンツがある。230SLのベイビーブルーのベンツだ。助手席にはお世辞にもかたぎとはいえなそうな、全身をスーツに包んで、サングラスをかけた男が二人乗っている。 一人はスーツでは補えないようなお茶らけた雰囲気があり、もう一人は無口でなにを考えているかわからない。二人は同時に車から降りて、病院に入っていった。 「なぁ、鍵はかけなくてもいいのだろうか」 「別にいいんじゃないの? だって数分しかあけないんだしねぇ」 そういって二人は駐車場を後にして、真っ白い病院の中へと入っていった。 # 「世の中うまいことに転がることもあるもんだ」 「いや、これは、なんだろうね、なんか裏があるんじゃないの?」 さて、そのベイビーブルーのベンツにのっているのは、男が二人だ。一人は白いセーターとジーンズで、もう一人は病院着のままだった。 しかし病院着の男の言葉に、運転をしている男はまったく取り合っていない。 「とりあえず、服を着替えなきゃだめだな」 「でも僕ら、お金がないよ」 そう言いながら、病院着の男は後部座席やら、灰皿やらをがさごそと調べ周り、ダッシュボードを開けて、凍り付いた。黙った男を不思議に思ったのか、運転していた男がすこし不思議そうな顔をする。 「ねぇ、承太郎、僕たちは大変な車に乗っているのかもしれない」 そういって彼はダッシュボードから二丁のまっくろい拳銃を取り出した。 「弾は?」 「入ってる、みたいだけど」 それを聞くと運転をしていた男は何かを思いついたように、急にハンドルを切って、走り出した。急なそれにも、突然の加速にも、がくりとくるような衝撃がなくて、高い車はよいものなのだと花京院はぼんやりと思った。 「こんなにうまいこと転がるんなら」 しばらく走って、彼は車を止めた。瀟洒な建物の隣で、ベンツはなじんでいるとも浮いているとも思えた。 「銀行強盗くらい軽いだろ」 はぁ、と口からすっとんきょうな声が出た。 「うそだろ、承太郎」 しかしあいにく、承太郎の顔を見る限りでは、嘘ではなさそうだった。 |