過去2
目を開けると部屋は明るかった。空気はやさしく体になじんで、花京院は深呼吸をした。鼻腔に吸い込まれていく空気はもはや懐かしさを通り越して飽きが来るほど、鉄くさい。目をとじればまるで海のようだねと、瞬きすら出来ない自分をあざ笑う。 一番最初にね、と花京院は歌うようにささやく。 「一番最初の頃にね、君はどんな風に死んだかな。はっきり思い出せるようで、十何人かの君の馴らされた風景のようで、僕には確証が持てない」 手の震えはぴたりと止まっていた。刃物は床に落ちていて、一瞥した花京院はそれさえ暖かければよいのにと思う。彼の体に埋まったとしても、冷たいまま、拒まれたままなど、あまりにも虚しい。 そこまで考えて花京院はため息をついた。 「僕の頭はもう、だいぶおかしい」 みたいだ、承太郎と、ずるずるとしゃがみこむと、ソファに座ったままの承太郎と視線があった。いや、それには語弊があるかもしれない。承太郎の瞼は閉じられたままで、二度と開くことはないし、しかもそれは自分がもたらした結果でもあって、途方にくれるのだ。 「君の答えがわかるだろうか」 ぬるりと血にまみれた刃物の柄はあまりにも花京院の手のひらにしっくりと収まってしまう。ぐちゃぐちゃとした頭の中身とは対照的に、単純な事実の積み重ね。 「また、会いにくるよ」 ドアをたたきつける音が聞こえる。蝶番がはじけ飛んで、承太郎の娘の声がする。父さんと、心配と不安に彩られたそれだけの声を花京院はさまざまな気持ちで出迎える。安堵し、嫌悪し、恐怖し、憎悪し、最後に愛すような気持ちになる。 「おかえり、徐倫」 笑って、そう告げれば、彼の娘は驚きに目を見開く。 君に良く似ている、と花京院はぼんやりと思う。 「おかえりなさい、徐倫」 フーファイターズの声を、徐倫は忌々しい気持ちで聞いていた。部屋は薄暗く、奥には大きな窓があるのだろうが、光はカーテンにさえぎられて外が朝かどうかすら分からなかった。部屋の薄暗さは冷暗所のように静かで、それを打ち破るのは橙色の洋燈だけだった。アンティークなつくりのそれは、オイルをいれて火を灯すタイプのいささか面倒くさいものだった。 オイルランプにはなみなみとオイルが注いであり、一日は持ちそうで、人肌にも似たやわらかさで暗闇を照らしていた。洋燈の横には、抱えるには少し小さいガラスの柱が置かれていた。その中には水が注ぎ込まれていて、ゆらゆらとゆれている。 「ええ、また戻ってきたみたいね」 「そのようですね、徐倫」 声はそのガラスの柱からしていた。徐倫は手を開いて閉じてを繰り返しながら、座っていたソファに背を預けた。天井の丸い間接照明は二日前から点滅を繰り返していて、一日前に切れたのを徐倫は遠い記憶から引っ張り出した。ソファにおかれた左手は、血で固まった毛先のごわごわとした感触を伝えて不快だった。 「そろそろ飽きがきそうよ。早く、明日に行きたいものね」 徐倫はため息をつきながらそう言った。彼女はもう随分と長い間同じ日を生き続けている。フーファイターズは徐倫の言葉を聞いて柱の中でゆらめいた。 「まだ十三度目ではありませんか」 「もう十三度目よ」 徐倫は手のひらを瞼の上であててから、二回前の今日を思い出した。フーファイターズと話して、ソファから立ち上がり、花京院の元へと赴いて、彼を問い詰めた。話し合いは平行線で、花京院は宣言して、徐倫は気づくとこの部屋に戻っていた。 「ちなみに前回は何をしたのですか?」 「別に、何もしなかったわ」 「何も、とは?」 「本当に何にもよ。普通に、この部屋を出て、花京院に会いに行かないで、家に戻って母さんにあって、何をしていたのと問い詰められて、適当にごまかしてその日は寝たわ。そして目が覚めたら、ここに座っていた、というわけ」 本当に完全なループなのですね、といまさらながらに言うフーファイターズを徐倫は疎ましく思った。このループの原因が花京院であることなどとっくのとうに分かっていて、自分はなぜかそこから抜け出せないのだ。 その度に、自分の父親の死んだソファの上で目覚める。目の前には陰気なフーファイターズ。嫌になる。それ以上に気が滅入る。徐倫は目を閉じればその死体をまざまざと思い出すことができる。血まみれの父親の冷たい手も、その前で立ちすくんでいた花京院の手に握られた刃物も、その後でみた死体のあまりのむなしさも。 屋上の空の青さも。 「父さんが」 死んだのよ、と徐倫は言わずに口をつぐんだ。そろそろ言わなければその事実さえ喪失しそうだった。部屋は暗く静かで冷たく、死を連想するものなどいくらでもある、そうだ、自分の座っているソファは血で固まって元の色も無残だ、というのに、どんどんと記憶は遠くなっていく。失っているのは記憶ではなくて現実感なのだと徐倫にはおぼろげに理解できていた。 繰り返す一日は、過去を薄れさせる。昨日とった行動に何の意味がある、今日とる行動に答えはあるか。昨日に続いていた一昨日、一昨日に続いてきたさらに過去は本当にあったのだろうかと、思えてきそうだった。今日に続く明日が本当にあるのかわからないように。 「徐倫?」 フーファイターズの声に徐倫は顔を上げた。徐倫はしばらく手を合わせて、沈黙した。 「ねぇ、フーファイターズ」 「なんでしょう、徐倫」 血の匂いはどこかへもう行ってしまって、徐倫はそんな匂いなど忘れてしまった。吐き気がすると思ったはずだった、あの日、彼女の父親が死んだ日、殺された日。吐き気がしてきっと一生忘れられないと思ったはずだった。けれど、もう、その欠片しかつかめない。 「…私、花京院を殺すしか、ないのかしら?」 「その可能性は多いにあるでしょう」 フーファイターズの答えを徐倫は疎ましく思う。そのまま目を閉じて、長い間顔を伏せていた。時計もない部屋は、徐倫に時の経過を伝えない。大きな窓にはカーテンがかけられて、外が昼か夜かもわからない。 けれど晴れている、と徐倫は思う。夜なら綺麗な星空が、昼なら綺麗な青空が見えていることだろう。 「ねぇ、今、何時?」 「正午です、徐倫」 一日の終わりまで、あと半分。 雲さえも真っ白な青い空を想像して、徐倫は花京院が持っていたあの刃物はどこにあるだろうと、ソファから立ち上がる。 「行くのですね、徐倫」 「ええ」 フーファイターズの声はいつでも平坦で、徐倫は苛立つ。あの声に、安堵を覚え始めたらダメかもしれないと、わずかに覚え始める心の隅で思う。 アパートの扉はどうしていつも冷たいのだろうと、少しだけ泣きそうな気持ちで思った。 花京院の部屋はいつでも暖かいと徐倫は思う。いつでも暖かく、何もかもがちょうどよい。 「君が来るなんて珍しいね」 「珍しい?何が?」 たとえば差し出されたコーヒー、たとえば黒いテーブル、たとえば暖かい照明器具、あの部屋とは違うすわり心地の良いソファ、目の前の顔は人間の形をしていて、柔らかい表情だ。あのうそ寒い暗がりの部屋の、人間ですらない平坦な声とは全く違う。全然違う。 徐倫の言葉に花京院は柔らかに首をすくめた。 「別に、いや、いずれくるだろうと思ってたけど」 徐倫、と声は静かだ。その茶色い瞳には底がない。死人の目だ。表面上は笑ったり泣いたり悲しんだりできるのに、目の奥だけはよどんで動かない。何かどろりとしたものに包まれて固められている。 「それは、それはそうよ、花京院、だって貴方は私の父さんを殺したのだもの」 徐倫の言葉に花京院は少しも驚かずに笑った。徐倫の手は震えない。手の届く場所には刃物がかくしてあった。 「そうして、過去へ戻ろうだなんて馬鹿なことを考えるから」 花京院はふと眉をひそめてから、しばらく沈黙し、何かを勝手に納得したようだった。違うんだとも言わなければ、そうだとも彼は言わない。 「徐倫って、律儀だよね」 沈黙の後に彼が言ったのはそんな一言だった。徐倫はおもわず肩の力が抜ける。はぁ、と語尾が上がり気味になってしまった。花京院はそれこそ、仕方がなさそうに笑っている。 「…何の話?」 「こっちの話」 花京院の指は綺麗だ、と徐倫は思う。花京院の指は、承太郎のそれとは違って細いような気がする。その指が柔らかな動作でコーヒーカップの縁を撫でる。 動作と言葉は徐倫から、もう遠いと思われるような記憶を引き出してきた。父親がいて、花京院がいて、自分がいて、今はもはや薄暗いあの部屋が暖かかった頃のことだ。 「…花京院は、いつもこっちの話って言ってたわ」 徐倫は目を伏せる。黒いテーブルは鈍く光を返している。そうだっけ、と花京院の声は記憶と変わらずやわらかい。 「父さんと花京院が何かを話していて、私が近寄って何の話って聞くと、花京院はいつも嬉しそうにこっちの話だよって言ってたわ。教えてくれなかった。でも別にかまわなかったわ、だって二人とも楽しそうだったもの。こっちの話って、花京院が言うたびに、父さんはなんだか嬉しそうな顔をしていた」 徐倫の言葉に花京院は沈黙している。その沈黙にふと顔をあげれば、彼は笑ってもいなかったし、泣いてもいなかった。懐かしがる顔もしていない。しいて言うならばただの無表情だった。花京院の瞳の奥のどろりとしたものが瞳孔の淵からあふれ出て顔中を覆ったような、そんなよどみだ。 「そうだったっけ? 承太郎が嬉しそうだったなんて、知らなかったよ」 乾いた泥が花京院の笑顔でばりばりとはがれていく。そういう音がした気がした。だが剥がれ落ちた泥の向こうにはまた同じ花京院の顔があるだけだ。ならはがれたものはなんなのか、この音は何が崩れた音なのか、徐倫はそう思うけれど、答えは出ない。 「でしょうね、だって、そう言うときの花京院はいつも私の顔を見て言っていたもの。後ろにいる父さんの顔なんて、わかるはず、ないわ」 花京院は笑っている。徐倫はいつも、これではダメだ、と思う。出来るなら徐倫はいつだって、花京院に自主的にやめて欲しいと思っている。手をかけるなんてそんなのは嫌だ。耐えられない。死体はただのものだ、人を殺すということは意志を殺すということだ。そんなものは重過ぎる。その重い意志によって花京院にやめて欲しい、と徐倫は思う。 けれど、花京院の笑顔を見て、言葉は何の力にもならないのかもしれない、と徐倫は目を伏せる。 「戻っても、意味がないわ、父さんの生きている時間までは戻れない」 だって私は父さんの死んだソファで座り込んでいる、いつも、と徐倫は切実に思いながらそう喋る。生きている時間までは戻れない。戻ってもそれは、花京院が承太郎を殺した後なのだ。やり直しの機会さえ与えられない逆行に何の意味がある。 いたずらな時間の浪費に、精神が先にやられてしまう。 「それは違うよ、徐倫」 花京院は笑う。徐倫は奥歯をかみ締める。罵倒が出そうだった。そうだろう、花京院はそうだろうと。望んで戻るのならばいくらでも戻りたいだろう。自分は花京院の望みを阻む、いらないおせっかいのようにも見えるだろう。ならば一人でやってほしい、徐倫は叫びたかった。 もういやだった。あの部屋で、座り込むのはつらかった。冷たい空気とつめたい声と、もう父親のいないあの空間を、徐倫は心の底から嫌っていた。完璧に父親が死ぬ前に戻ることが出来るのなら、父親を殺す前の花京院を止めたかった。戻らないのならば、承太郎が死んだ事実を受け止めることが出来ないと、嘆く時間が欲しかった。 けれどそれはどちらも与えられない。目の前の男のせいで。 「それは違うんだ、徐倫」 「何が違うの、意味がないのよ」 「意味がなくても僕は戻るよ」 花京院、と徐倫は叫んだ。罵倒は口からもれ出ては来ない。代わりにそれは純粋な力となって、花京院を押し倒した。コーヒーカップがテーブルから落ちて、床に叩きつけられて割れる。黒い液体はじわじわと床に広がった。 「徐倫」 徐倫の手にはきらめく刃物が握られている。 「こっちの話、も限界よ、花京院」 花京院は不思議そうに徐倫の手の刃物を見つめていた。そうして仕方なさそうに笑った。よく見る、よく見た笑みだった。花京院はいつも過去へ戻るその瞬間に同じ顔をしている。 「花京院、ねぇ、殺される時、父さんはなんて言ってた?」 どうして殺したのと、その問いはすでに遠い昔済ませていた。答えはあっさりとしたものだった。承太郎が良いといったんだ、でも、わからない。そんな答えに徐倫は到底納得できない。 花京院は徐倫の言葉に悲しそうな目を細めた。瞳の奥には、どろりと粘度の高い淀みがはりついている。けれどそれでも、紛れもなく、花京院は泣きそうな顔をしていた。 「……なんにも、なんにもだよ、徐倫」 花京院の手が徐倫の頬に触れる。花京院の手はぞっとするほど冷たかった。徐倫は、刃物を振り上げて、花京院の胸につき立てた。爪が頬をかすって、傷がつく。 ごめんね、と花京院が口だけでつぶやく。自分の暴れる心臓をなだめる前に、花京院は痙攣して絶命した。徐倫は死体の腹にまたがったまま、ぼんやりと花京院を見下ろしていた。 いつの間にか外は夜になっている。はじめにきたのは手の震えだった。疲労からか刃物から手のひらが勝手にはずれた。震えは瞬く間に肩へと達して喉に触れた。肺を揺さぶって、回る視界に息が漏れた。 「あ、あああ」 声は出始めると止まらなかった。涙が勝手に溢れて、頬をつたい、顎をつたって、首をぬらした。頬の傷に、涙がしみていたい。こんな幕引きは望んでいなかった。なにも解決などしていない、ただ、大きな問題を見えないところに押しやっただけだ。そして答えは永遠にわからない。 徐倫は泣いていた。もしも誰かが彼女に、どうして彼を殺したのかと問えば、こうするしかなかったのだと答えるだろう。そうしてその答えが、花京院の言葉とどう違うのかと笑うだろう。 やがて意識が途切れるように、彼女は倒れこんだ。 フーファイターズは嘆息した。もし彼女に口があり、それに続く喉があり、器官があり、肺があり、それを支える横隔膜や腹膜があるならば、彼女の感情はため息となって現れたはずだが、フーファイターズはただのプランクトンだった。それさえ人間の目には見えないもので、ただの水のように見えた。 彼女は待った。一時間、二時間、彼女にとって、時間はそのまま一生に値した。意識を構成する極少のプランクトン達がひとつ死んではひとつ生まれる。そうして彼女は徐倫が戻ってくる前にすっかりと入れ替わってしまう。多少変質した意識を持ったまま、しかし、現れた徐倫が過去見ていたものとは組成がすっかり変わっている。 フーファイターズは嘆息した。 彼女の隣においてあるオイルランプがゆれて、時間の経過を伝える。意識がぶれるのを感じる。無理やり体から意識が引き剥がされて、水の中をくぐりぬけるようだ。部屋はさっきと変わっていないというのに、確実に何か違う。それは洋燈のオイルの残量であるといった物理的なものではなく、世界そのものの空気の組成のようなものが違う。 そうして、フーファイターズは決められたように言葉をつむぐ。彼女の耳にわずかでも暖かく響けばいいと思いながら。 「おかえりなさい、徐倫」 しかし声は氷のように平坦で冷たい。 「おかえりなさい、徐倫」 徐倫は冷たいその声にこたえて瞼を開いた。血で固まったソファのすわり心地は悪い。気分は最悪だった。けれど涙は流れていなかったし、頬の傷もあとかたもなかった。 なぜと問うのも疲れた気持ちでため息をついた。 何度目と考えるのも嫌になった。徐倫は嘆息し、フーファイターズは沈黙した。デジタル時計は時の刻む音を立てない。炎のゆれる音だけが時折して、時間を経過していることを二人に伝えていた。 時間はいくらでもあるのだと思うと、笑い出したくなった。あの肉に差し込む重い抵抗もないことになったとは、とひどく安堵した。その安心は麻薬のようで、徐倫は花京院を理解できるような気がした。気だけだった。 「…殺したわよ」 「そうですか」 「でも戻ってきたわね」 「そのようですね」 「どうしたらいいのかしら」 「わかりません」 「そうよね」 そうよね、と徐倫はもう一度繰り返した。手のひらで顔を覆って、また長い間沈黙をした。ランプがゆらりと燃えている。 「殺したのよ」 額に当たる指の先は震えている。ため息は冷たい。 「私、立ち上がれない、フーファイターズ」 徐倫、とそれに答えるフーファイターズの声は静かだった。何かの感情はひとつも反映されていなかった。 「けれど徐倫、あなたは」 いかなければ、と平坦な口調でフーファイターズはいった。立ち上がり、歯を食いしばり、倒さなければならない相手がいるでしょうと、ささやいた。、貴方のお父さんのために、貴方のために。 「私のために?」 「貴方の復讐を遂げるために、徐倫」 水搭の中でこもった声がした。徐倫はいまだソファから立ち上がれなかった。じっと薄闇にまぎれた足元を見つめて力なく口を開く。 「復讐? 何のための復讐なの? 殺したからといって何かが解消されたわけじゃないのよ」 徐倫の手に力はない。 彼女は立ち上がることができない。 振り下ろした刃物に戸惑いも躊躇いもなかった。 なかった、と花京院は信じる。振り上げた手も、斜めに切りつけられたそれも彼に見えなかったはずはない。はずはないけれど、承太郎はそれを止めなかった。 呻くような声が聞こえた。自分の声だと花京院は思ったけれど、多分両方の喉からこぼれたのだろう。真昼の時間だったので、窓からは強い光が差し込んでフローリングの茶色い床を照らしていた。傷口からは一瞬の間をおいた後にコップからこぼれるように血液が垂れて、刃物から伝って花京院の手を汚した。 自分の体温と似たような温度の液体は、冷たいとも暖かいとも感じない。ぬるりとした感触だけが手のひらを伝って、花京院はそれが承太郎の手のひらであればいいのにと思う。そんな行動ひとつで、自分は彼のいろいろを信じられるのに。 先ほどの小さなうめき声以外はもう何の音もしなかった。するのはかぼそい呼吸音と、自分の多少荒めの吐息だけだった。刃物を引き抜くと、粘着質な音がして、鼓膜を撫でる。 いろいろ? と花京院は恐ろしい速度で空回る頭の中で思う。いろいろとは何だろう。違う、承太郎について、信じられなかったことなどない、と信じる。彼の言葉も、彼の行動も、彼の信念も、花京院には等しくまぶしく感じた。感じたはずだ。 承太郎の表情には驚きもない。苦痛もない、ただ彼の、いつからか身についた恐るべき無表情が張り付いているだけだ。瞳だけがなにか温かい、ような気がする。それは自分の、都合の良い錯覚なのだろうか。錯覚なのだろう。 疑問は口をついて出なかった。ただ、喜びとそれでも覆いきれない恐ろしさがある。それだけだ。声は出ない。何も言うことなど、ない、のに。ないから言葉は出ない。承太郎はソファに座っている。ゆったりと、全てを終えた人間のように。それは正しい比喩だ。彼はまさしく死ぬ。 花京院は血で汚れるのも気にせずにひざまずく。頬に手を滑らせると暖かい。そうしてそれがゆっくりとゆっくりと、長い時間をかけて冷えていくのを喜びと恐れが釣り合った平行の天秤の上でずっと感じている。 アパートの扉の前には徐倫が愕然とした顔をしてたっていた。花京院は屋上に続くベランダの前に刃物をもって立ち尽くして徐倫を認め、奇妙な顔をした。徐倫の存在をいま始めて認識したような、不意をつかれた人間の顔だ。 二人の間にはひとつ、死体があった。 「花京院!」 花京院は血まみれで、徐倫の声にこたえてその手から刃物を落とした。それから、震える唇をあげて、なきそうな顔をした。それは彼なりに浮かべた笑顔だったのだと気がつくのに、徐倫は数秒を要した。 彼はきびすを返してベランダへ出て、屋上に上った。徐倫はゆるい足取りで部屋の中央まですすみ、ソファの前にひざまずいた。死体の顔をみて、まぎれもなくそれが父親だと認識し、震える声で名を呼んで、答えがないのにのどの奥がつまるような気持ちになった。 ひゅっと気管の奥まで冷えて、震える手で頬についた血をぬぐおうとしたが、人間の体らしからぬ冷たさに怯えて手を引いた。絞り出すような声で、もう一度名を呼んだが、答えはなかった。 その日の空は、蛍光の青のようなのっぺりとした空だった。よく晴れて、屋上のフェンスが真っ黒に見えるほどだった。花京院は屋上の隅でフェンスに寄りかかって待っていた。何をか、と問われたら徐倫としか花京院には答えられなかった。けれどどちらかといえば花京院は徐倫が息を堰ってやってきて、自分をここから突き落としてはくれないだろうかと夢想した。 |
くじけた