第十夜/花京院/ノアの箱舟
そも、神を倒すということは本当に可能だったのか。 「あ」 花京院は雨の最初の一滴が音もなく海に吸い込まれていくのを見た。霧に似た小さく丸い白い粒で、天から使わされた真っ白く柔らかな産毛に包まれた羽虫のようでもあった。 「雨だよ、承太郎」 花京院の言葉に洞窟の奥にいた承太郎が顔を上げて、目を開けた。暗闇の中で瞳がうっすらと光って見える。そうだな、と暗闇から承太郎が言う。 「朝は来るかな」 花京院は聞いた。空は暗雲に包まれて真っ黒に覆われて、昼だというのに太陽のかけらさえ見出せなかった。暗闇が世界を支配する中で、承太郎は静かに答えた。 「来るとしても」 自分たちはそのときにはいないだろう、と。 まったくその通りだと花京院は思ってうなずいた。神は世界を新しく作ろうとしている。そして、自分たちは滅び行くものたちのひとつになってしまったに過ぎない。 雨は音もなくゆっくりと降り続けて、海に飲まれていった。海はやがて水をすべて飲み込みきれずに、長い間頑なに守り続けていた真っ白な海岸線を侵し、洞窟まで進入し始めた。ゆっくりとした侵略はしかし確実に進んで、花京院と承太郎はそれと同じ速度で洞窟の上のほうへと上がっていった。羊たちはすべて置いてきた。どうしようもなかったからだ。数日経つと、水の表面に浮いているのが見えた。 水の面に浮く白い羊は、雲のように見えなくもなかった。 「静かだ」 「ねぇ、ほんと」 承太郎の言葉に、花京院は同意した。雨は暴風雨という激しさもなくただしとしとと降り続けているだけだった。洞窟から飛び降りることもいまや無意味で、30センチもない下で水面が待ち受けているだけだった。 どこかへいこうかと、花京院も承太郎もいわなかったし、そもそも二人に目的はなかった。どこにいっても変わらなく、変わらないのならば移動にむやみに力を使うこともないだろうと思っていた。空はいまだに大きな黒い雲に覆われて、太陽の光は出てこなかった。夜は続きつづけた。 そも、神を倒すことは可能だったのか、どうか。 「不可能だった」 こうして僕らは朽ちていくのだからと花京院は答えた。承太郎は何もいわずに黙っていた。 「君と一緒に死にたかったなぁ」 「いってることがわかんねぇよ」 花京院は、もう飛び降りたとして意味のない洞窟の端で、ふらふらと歩きながらつぶやいた。承太郎は洞窟の中にいるけれど、ここまで水が上ってくるのもそう遠くはないことが分かっていた。 「こういう世界も美しいけど、君と一緒ならなんだってさ」 よかったのに、と花京院は付け足した。 「僕は生まれ変わる世界を呪うよ」 「二度と朝が来ないように?」 「それもいいかもしれない」 けれど、と承太郎は口にする。水音すらしない終わりは圧倒的な力をもって世界をひねりつぶしていく。水の中へときえていった何もかもがなくなるのなら、どうして今この瞬間の体さえ捨てられないのかと花京院は呪う。 そも、神を倒すことは可能だったのか。 「不可能だったと、いっただろう、お前が」 不意をつかれた顔をしてから、花京院は笑った。そうだね、そうだった。そうだったよ、承太郎と。 「だったら代わりに祝おうか。僕らが死んだらこの雨も終わって、朝が来ることを願おうか。一隻の船に乗った人間が欲する大地があるように」 「鳩が見つけてくるように」 花京院は承太郎に触れる。その頬は死んだ人間の冷たさをしている。 音もなく振っていた雨がやがてやんだ。雲は大きな手が外れるように空から引いていき、橙色の空が現れた。それは明け方の風景だというのに、どこか一日の終わりを連想させた。太陽は昇り続けて、空は白みがかり、青くなった。幾たびが朝が来て、夜が来て、を繰り返し、空に一匹の鳩が飛び去っていった。 |
DIO/イタリア語で神の意