彼には母親がいない。父親もいない。年老いてなお頑健で、お茶目な祖父が一人かつて一緒に暮らしていたそうだ。今は?と聞けば、今はアメリカに帰っていると告げられた。 「アメリカ?」 「そっちに家があるんだ」 お祖父さんの?と聞き返すと、無言でうなずき返された。それにしたって17歳の彼が、こんなにだだっ広い家で、一人で暮らしているのはすこし寂しいんじゃないだろうかと花京院は考えた。屋敷の周りに立てられた壁は一周するのに10分弱かかるし、立派な瓦つきの門から玄関までもかなりある。昔ながらの引き戸を開けると、空気はしんとして廊下の奥まで薄暗かった。人に使われなくなって大分たつ死んだ空気が頬をなでるような気がした。 胸騒ぎはしたものの、台所や部屋にはちゃんとした掃除も行き届いていたし、使い慣れてこなれたやさしい雰囲気があった。花京院はほっとため息をついてから、出されたお茶でのどを潤した。日本家屋には斜めに光がさしこんで、濃い陰影をつくっていた。涼しく薄暗く、かといって電気をつけるにはいまだ明るすぎる。花京院に貸すといっていた本を本棚から持ってきて、それを手渡した後はやることもなくなってしまった。 なにもなくて悪いなと謝る承太郎に花京院は、全然と何を否定しているのかよくわからない受け答えをしてから、手持ち無沙汰に借りた本のページをぱらぱらとめくった。本からはまだ新しい紙の匂いがした。 「そういえば、承太郎はどうして、アメリカに行かなかったの?」 聞けば、祖父がアメリカに帰ったのは二年ほど前らしかった。中学から高校に変わる時期で転校にはうってつけだったはずだし、承太郎が環境の変化を厭うようなタイプには花京院には見えない。承太郎は花京院の問いにしばらく考えるように沈黙してから静かに答えた。 「……待っているんだ」 彼の両親が幼い頃に行方不明になったきりだということを知ったのは大分後だった。 花京院はどうして承太郎と親しくなったのかをよく覚えてはいない。気がついたら親しくなっていて、周りに聞けばそうなったのはかなりある日突然だという。冬休みがあけてしばらく学校に来なかったと思ったら同じような時期に顔を出し始めて、仲良くなっていたよ、と花京院は同級生から聞かされた。 では冬休みに何かあったのだと冬休み以前のことを思い出そうとすると、ちゃんと思い出せはするのだが、記憶はあまりにも薄っぺらく本当のことかどうかよくわからなかった。それはいうならば夢の感触に似ていた。おきたばかりの時はあんなに鮮明でも、時がたつにつれて何が本当に起こって、何があったのかぼやけてわからなくなってしまう。そして最後には、承太郎と仲良くなっている、という状況だけが残った、という感じだった。 「承太郎、おはよう」 承太郎は無言で、口の端をわずかに上げてから、手をあげる。彼はあまりしゃべらないが、外見が抜群に良いからもてる。女の子囲まれていることもしょっちゅうでうるさくてたまらないらしく、眉間に深く皺をよせているところを良く見る。 興味があることはちゃんと聞くタイプらしくて、つまらない授業は寝ているか、ぼんやり窓から外を見ていることが多いけれど、ちゃんと聞いていることもある。不良な外見に似合わず成績なんかは良いみたいだった。 教師たちは不良の彼には手を焼いていて、でもいまいち手が出せなかったのかは彼には両親がいないからだ、ということを知ったのはつい最近だった。でも最初から知っていたような気も花京院にはする。 けれど日々があまりにもやさしすぎて、気がつきたくないことばかりだ。 承太郎の母親の写真を見たことがある。彼の父親と一緒に写っているのだろう女性は恥ずかしそうに頬を染めて、柔らかに笑っている。小柄な人で、写真に写っている腕などは力を加えたら折れてしまいそうだった。承太郎と同じきれいな緑色の瞳をしていた。 薄暗い日本家屋にその女性はよく似合っていた。彼女の周りには写真でさえ感じ取れるような冷たい空気があった。表情が暗いわけでもなく、むしろ幸せそうで、快活そうな顔さえしているというのに、水の面に浮かぶような静けさを漂わせていた。 その静けさは承太郎に良く似ていた。 「急に連れてきたらしい」 「そうなの?」 「ある日、抱えてやってきたんだそうだ。で、結婚すると。じじいは誘拐でもしてきたかとあわてたらしいけどな」 承太郎の家にいくようになってからしばらくして、承太郎はぽつりぽつりと父親や母親のことをしゃべるようになった。別に隠すつもりもないらしく、聞けば答えてくれる。でもどこまで聞いていいのか花京院には皆目検討がつかなくて、結局探るような会話になてしまう。 どうしていなくなってしまったのだろうと承太郎はいわなかった。ただ彼は待っているのだとだけ繰り返し言葉にした。ここでただ待っているのだと。 「両親が帰ってくるのかと?」 そう聞くと承太郎は首をかしげた。何かを考えているようだった。己の体の中にある、小さな糸を必死で手繰って、何かを引き寄せようとしているように見えた。あるいは引き寄せられようとするあまり体を捨てようとしているようだった。 「…いや、たぶん」 声はそこで消えた。聞いたのならおそらく答えたくれるだろうと花京院にはわかっている。けれど聞かなかった。聞けなかった。屋敷の部屋は薄暗く、涼しい風が吹き抜けて髪を揺らす。彼は普段一人でどのように暮らしているのだろうと花京院は思う。 何を待っているのだろうと。 承太郎の家の庭には藤棚がひとつある。春にも花を咲かせていたけれど、夏に最後の一花をさかせるらしく、ぽつりぽつりと花がついていた。紫色のきれいな花だった。承太郎はそれをぼんやりと居間から眺めていて、花京院はそんな承太郎を眺めていた。目を細めて、ただ花を眺める彼は写真の中の彼の母親に似ていた。冷たい空気があたり支配している。 承太郎は自分を見ている花京院の視線を感じたのかかすかに笑った。ひどく他愛ない笑みだったのでなおのこと花京院は胸をつかれた。 「よく」 承太郎がつぶやいた。きれいに通る低い声だった。花京院はただ黙っている。 「よく母親はあの花の下にいたよ。咲いている花をじっと見つめてるんだ。長い間立ち尽くして、それに父親が声をかけた。また明日にするんだ、もう夜が来る」 「へぇ、かわってるね」 花京院の言葉に承太郎は笑った。そうだよなぁと、あっけらかんとした声だ。 「母親は次の日もまた見ている。そういう時はそばによってもだめなんだ。ここじゃないところを見てる。ずっとじっと見てる」 父親は、と承太郎は仕方なさそうに続けた。それを内心では嫌がっていたと思う。けれどそれも丸ごと母親を愛していて、とがめることができなかったんだ。 「そうかな?」 「さぁ、俺にもようわからんが」 承太郎は母親がよくいたらしい、藤棚を見ていた。母親の姿を思い出しているのか、花京院にはわからなかった。 「きっとそれでいなくなったんだろう」 「それでって?よくわからないよ」 「天女はいつまでも漁師の下にはいないからな」 そういって、承太郎は今度こそ声を出して笑った。それならばいなくなるのは母親だけではないかと花京院が思っているのがわかったらしい承太郎が、少しだけ困った顔をしてからつぶやいた。 父親がいなくなったのは、母親よりも少しだけ後なんだ、と。 それから花京院はぼんやりとどこかを見ている承太郎がよく目に付くようになった。教室から窓の外を、屋上から空を、家の居間からわずかに咲いてこぼれていく藤をぼんやりと見ている。柔らかな緑色の瞳の焦点があっている場所はこの世にあってなきが如しだ。それでも彼はその場所をずっとじっと見ている。 「何を見ているの」 「なにも」 答える声は幼げにおぼつかない。 花京院は彼の両親のことなどたった写真一枚しかしらない。後は承太郎からもたらされるおぼろげな情報だけだというのに、まるで自分が彼の父親になったような気持ちになった。あの冷たい雰囲気をまとった母親に、けれど何もいえない男の、気持ちになった。 もしも、と花京院は考える。もしも承太郎がこのまま消えてしまったならば、花京院は承太郎を探すだろう。そうせざるを得ない衝動がある。探し続けてしまうだろう。喪失感というにはあまりにも曖昧なそれを嫌って、ただ原因が知りたいと思うに違いない。そうしてこうやって彼が眺め続けている藤棚に倒れこむような気がする。もしもいなくなったならば、承太郎は見つからない。彼の両親と同じように。 「君は何を待っているんだ」 承太郎はおぼろげに笑う。 時計が正午を告げる。 彼の祖父は、彼から聞いた通りに頑健でお茶目そうな雰囲気だった。目元に愛嬌があって、正直あまり承太郎とは似ていなかった。花京院は薄暗かった、今は彼の祖父によって明かりのつけられた居間で、座卓越しに相対していた。彼の祖父は深く嘆いていながらも、これは決められた結末だったのだとでも言うように平静だった。 「承太郎とは仲良くしていただいたそうで」 はぁ、と曖昧な言葉しか出ては来なかった。前日に花京院は承太郎の家へと行く約束をしていた。貸したい本があるのだといわれていたのだった。時間通りに家へ行くと、門は開いていて、居間の座卓の上に本が一冊置かれていた。約束していたものだった。庭では藤が最後の花びらを落としていた。 そして承太郎はどこにもいなかった。 一週間ほど日本に滞在すると彼の祖父は言った。 「承太郎、は、どこに行ってしまったのでしょう」 彼の祖父は悲しげな笑顔で首を横に振った。おそらく幼い頃の承太郎の質問にもこの老人はそう答えたのだろうと花京院は思った。 人間ではなかったのだと思うと承太郎が言っていたのを不意に花京院は思い出した。たぶん母は人間ではなかったのだと思う。 「なんで?」 「年を、とらないように見えたから」 ならば何者なのかという問いに承太郎は肩をすくめて答えた。これは父親が言っていたことなんだが。 「藤の精なんだそうだ」 「へぇ…」 メルヘンな話だなぁと思った。だってそうしたら君も人間ではなくなってしまうじゃないかと思って、つい笑ってしまった。 「何笑ってるんだよ」 「だって君が藤の木の精だとしたら、なんだかずいぶんメルヘンだなぁと思ったんだよ」 納得しないでもないけれど、と心の中で付け加えてから花京院は渋い顔をしている承太郎を見た。 「君のお母さんはきれいだからね、言われても納得かな」 花京院の言葉に承太郎はさらに渋い顔を作っていた。いまさらに花京院はあれが本当だったのではないかと思う。 かつてぼんやりと考えた。もしも承太郎がいなくなったのならば自分は彼を探すだろうと。まさにその瞬間は訪れて花京院は途方にくれていた。どこをどうやって探すつもりだったのか。けれどその想像の先を突き進めるといつも、承太郎の家の藤棚に行き着くのだった。何の手がかりもなくした自分が、重すぎる足を動かして、最後にたどり着く。藤の木の根元には。 花京院は思い立ったように走り出す。 空条家の門はしまっていた。彼の祖父はもう帰ったのか、それともこの家にはいないのかもしれないと思いながら、花京院は門をよじ登った。屋敷はしんとして、今度こそ誰もつかっていない家の死んだ空気が満ち溢れていた。 それは写真で感じた彼の母親の、あるいはどこかをぼんやりと見つめていた承太郎の雰囲気そのままだった。なるほどあれは死にとても近いものだったのだと花京院は思う。 夕方の光は地面を暖めている。蔓ばかりの藤棚は妙に寂しく、花京院はその根元にひざまずいた。土は最近掘り返されたかのように柔らかい。ぞっとする想像だった。花京院は半ば想像していながらスコップさえ持ってこなかった自分を叱咤して、手で土をかき出した。つめの間に湿った土が入り、手のひらや服はすぐに汚れてしまった。 幻を見る。 男が一人、悲嘆にくれている。どうして、言葉を発しないけれど瞳がそういっている。どうしていなくなってしまったのかと、悲しんで藤棚に眠り込んでいる。男を見つめている子供がいる。さめた目をしている。もう戻ってこないのだと分かっている。 やがて藤の木から細い白い腕がもれる。咲いてもいない花が降りしきる。紫色の花びらが降り続いて男を覆い隠し、風が幻の花を散らすとそこにはぽっかりと空間が広がっている。 緑色の目をした子供がそれをじっと眺めている。 「そんなのは、あんまりだ」 土の下には古い人骨が埋まっていた。 「承太郎、君は」 何を待っていたのかと花京院はつぶやく。両親を、ではない。幻を信じるならば、彼は知っていたのだ、失踪がなぜ起こったのか。父親が消えたのはなぜか、母親が人間でなかったことも。 「この家で一人で、何を待っていたんだ」 どうして僕をおいていったのだと、花京院はつぶやく。幾年か前の男のように、ただ悲嘆にくれている。藤の木からゆっくりと伸びる、手のひらが見える。 やがて居間の時計が五時を打つ。 |