第七夜/花京院/大正浪漫
二週間ですべてを収めなければならなかったのを花京院は知っていた。知っていたにもかかわらず、なぜそれが二週間で、また過ぎたならばどうなるのかということについてはとんと見当がついていなかった。下宿している家の日当たりだけはいい小さな畳敷きの部屋には、積まれた書物と物書きのための机、たたまれた布団くらいしかない。花京院は部屋の片隅に置かれた布団の間で、天井の端にわだかまる暗闇に二週間ですべてをおさめなければならないのだと、天啓のように思うのだった。 その年の夏は暑かった。梅雨を素通りし、湿気とは無縁の夏であった。花京院は坂を下っていた。いや、もしかしたら登っていたのかもしれないが記憶は曖昧である。夏の厳しい暑さと、わずかな水分を奪われていく地面からの揺らぎを坂の途中で見た様に思う。本郷のほうから歩いて二十分程度、路地をひとつ曲がり損ねたのに気づいたのだが、歩いていくうちに曲がればよいと思って、そのまま引き返さずに歩いたのだった。川に沿って歩いていたのを覚えている。上流に向かっていったのだからやはり坂を上っていたのだろう。 しばらく見慣れぬ道を歩いていると合歓木が植えてある一角にでくわし、そこが袋小路になっていた。大きな洋館自体が道をふさいでいるのだった。花京院は暑さに参ってすこし途方にくれた。これからまた来た道を戻るのはしゃくであった。困ったように、木の根元によりかかる。川の水音が耳に涼しい。見上げるとまだ花はついていないようだった。夏の盛りどころか、終わりも近いというのに変わっている。日差しが強すぎるのかもしれないと花京院はぼんやり考えた。 合歓木の葉の間から窓が見えた。門から館自体そんなに離れてはいない。真っ白に塗られた木材の合わさった壁は均等に線を引いて目に痛かった。窓は大きなものが二つ、通りに面して開けられていた。緑色の雨戸が、ぎこちなく窓の両側に張り付いている。銀色に輝いている煙突は、かまどか、あるいは内風呂の存在が連想されて、自ら下宿との違いに花京院は世は不平等だとこぼしてみるのだった。 「機会の平等をわれわれは欲するところである」 のだと暑さにまけた頭に引き結ぶ。所詮花京院自身も、下宿に暮らしているとはいえ高等な教育を受ける、はては高等遊民かという身分なのだから身のない意見ではあった。 「そんなところで何をしてる?」 窓から声がかかった。葉の間から洋館の様子が見えた。男が一人、花京院に問いかけていた。整った顔をして、瞳の色素の薄い、日本人には見えないが、かといって外国人とも言えない、人間だった。声は川音よりも涼やかに花京院の鼓膜を撫でて 「道に迷って」 その言葉に男はすこし不思議そうに眉をよせた。花京院は暑さに頭がくらくらとして、喉が渇いていた。そしてつまりこれが恋なのだと思った。 男の名は承太郎というらしかった。名字を聞いても答えはなかったので、花京院は彼を承太郎と呼びつけた。 「花京院典明だよ、承太郎、好きに呼んで」 「物好きな奴」 承太郎の物言いに、花京院は笑った。実際にその通りだと思ったからだった。本郷からの道のりの角をひとつまがりそこねて川沿いに四半刻歩けば洋館にたどり着く。木の下で、花京院は彼を待つ。真昼の暑い時間帯に、川のそばで涼む、ふりをしながら待っている。 「おい、物好き」 「なに、承太郎?」 そうしていると、そう声がかかる。三度目から、承太郎は花京院に水筒を投げるようになった。つめたくておいしいのでありがたく頂戴をしている。甘みのないラムネのようなそれは、すこしだけ果物の味がして、花京院の舌にはものめずらしい。 「おまえ、毎日くるな、暇なのか?」 「うーん、果ては高等遊民な身分だから」 物好き、と承太郎は窓から花京院に呼びかけた。承太郎は決して玄関から花京院を出迎えることはなかったし、窓からしか声をかけなかった。花京院の目には、外がまぶしすぎて中の様子をうかがい知ることは出来なかった。 「承太郎こそ、いつも何をしてるの?」 「この時間は普段は寝てる」 目を丸くすると承太郎は窓の枠に頭を乗せながら、すこし笑った。憂いのある笑みだったので、花京院の胸は騒がしく鳴った。 「じゃあ、どうしておきてるんだい?」 言葉は簡単に口から滑り出した。承太郎は憂いを一瞬で取り払ってから笑った。 「お前がくるからだよ、花京院」 そういって、日にあたったことのないような、白い指をふった。太陽の光にあたって、緑の瞳は輝いている。異国だと花京院は思うし、異郷だとも考える。異質だと脳裏でつぶやいて、手が届かないのだと感じる。 けれど嬉しいのも事実だった。 「日射病で倒れられたら困るからな」 えー、と不満げにいって、その日は帰り、布団の中で初めて名前を呼ばれたのだと気がついた。 二週間、という謎の期限を花京院はそれでも忘れていなかった。二週間で終わらせなければならないと強く感じていたし、それは承太郎をあの洋館から連れ出すことがひとつの終わりなのだともおぼろげにわかっていた。 その日花京院は多くの本を抱えて、角を曲がるかどうか悩んでいた。いつもの時間よりだいぶ遅かった。夏の夕方は時間がゆるすぎる。夜にも近いのかもしれないとまだ明るい空を見て思ったが、結局は行くことにした。時間がないのだった。 川の音は、夕方には泣いているように思える。 夕日に照り映える洋館は、白い壁もあいまって、気持ちの悪い様相だった。緑色のくすんだ雨戸は、不気味に浮かび上がっている。合歓木にはまだ花はつかない。もう夏も終わりかけだというのに。ずっしりと肩にくいこんだ荷物の重さに花京院はすこしまいっていた。 「じょーたろー」 窓は閉まっていたが、夕日の明かりが深く室内に差し込んでいたので、部屋の天井の様子が少しだけ見えた。白い天井に下がっている洋燈が見えた。窓際でうとうととしている承太郎の頬に赤い光があたるのも見ることができた。 待たせてしまったのだろうかと花京院は申し訳なく思い、同時に嬉しくも思った。割れたら申し訳ないなと足元の石を拾って窓に向かって投げると、承太郎の肩が震えて、一瞬で瞼を上げた。そこには怯えが含まれていた。 承太郎はあたりを見回してから、通りの花京院に気づいて、窓を開ける。 「今日は、変な時間に来るな」 「うん、一応やることあるからね、僕にも」 「日射病の心配をしなくて気が楽だ」 笑いあう。暑さはいまだ萎えないが、川のそばは気持ちが良かった。 「でも今日はもう帰れ。夕方だしな」 「夜になると、都合が悪いの?」 聞くと承太郎は黙った。目を伏せてから、夕日を見た。まぶしいのか目を細めている。恋だ、と花京院は思った。愛だ、とは言い切れなかった。あまりにもふれあいがなさ過ぎて、あまりにも唐突すぎるのだなにもかも。 「夕方は、一日の始まりなんだ」 今度は陽のあるうちにな、とやさしい口調だった。そうして思い出したようにつぶやいた。 「俺はお前が好ましいよ、花京院」 承太郎は外に出ないのではなく出られないのではと、ことここにいたって花京院は気がついた。 「僕も君が好きだ」 承太郎は笑った。言葉はすれ違う。 もう帰れ、と承太郎は言った。優しい声だった。それにしたがって花京院は重い本を持ちながら坂を下った。もう藍色に近い空の下、振り返ると、承太郎のものではない白く細い手が、窓からたれた彼の腕に触れていた。 彼は一人で住んでいるのではないのだと、またも花京院は気がつく。 夜は彼らの主人の時間。空には残照もなくなり、沈む。腕に絡んだ、ちいさな声が承太郎の鼓膜をうった。 「ジョルノ」 「承太郎さん、もう夜ですよ」 「おはよう、ジョルノ」 交わす言葉は日常になじんでいる。冷たいが、爛熟している。 「気がつきますよ、これ以上は、あの人も」 「だろうな、そうしたら」 きっと死んでしまいますよ、と。 「あの人、駄々っ子みたいだから」 彼らの主人は傲慢で美しく、完璧で、恐ろしかった。赤い瞳と金色の髪は夜の中では輝いて見えた。麻薬のような光だった。 「おもちゃが大事っていうわけか?」 「大事にされてるうちに、死にたいものじゃあ、ないですか?」 「退廃的なご意見だ」 「他にどうしろと?」 ジョルノは彼らの主人によく似ていた。二人の交わす言葉は、冷たかったが甘い雰囲気があった。慣れ親しんだもの。もっと言えば欲のからんだ、それをより突き放したいという情動の、だからこそ触れずにはいられないという矛盾だった。 「確かに」 笑いあう。 彼らは、文字通り哀れな奴隷でしかない。 真昼だった。 「ねぇ、承太郎」 「なんだ、花京院」 名前で呼ぶと名前で答える承太郎を花京院はいとしく思った。連れ出したいと思う。二階の窓から語り合うのも嫌いではないけれど、世界は広いのだから。そして期限があるのだから。 「僕と一緒にいかないか」 どこに?と承太郎は聞かなかった。なぜとも。 「無理だ」 「なんで?」 「俺は雇われだから」 雇われ?と首をかしげる。承太郎は答えない。合歓木は咲かない。おかしい。花京院はもう一度思う。おかしい。 「どうして?」 言わせないでくれと瞳が言っていた。夏がもうすぐ終わりそうだった。花京院は黙って、息を呑んだ。何もいえなくなった。恋だと思い、愛ではないと感じた。不意に、花京院ははじめてここにたどり着いたことを思い出した。 「機会の均等はわれわれの欲するところである」 「目を配らなければ訪れないものなんか、最初からないんだろう、花京院」 無理だと言われているのだと花京院はわかっていた。わかっていたにも関わらずすがりたかった。何にか?期限に、可能性に、自分に、そして承太郎に。 彼は真昼の濃い影の下で笑った。洋館の中は見ることが出来ない。 「お前が言うことは良いことばかりだ」 僕は彼を愛していると花京院は思う。 その夜、花京院は布団の中で、天井を仰ぎながら考えていた。何をかはよくわからなかった。ただ頭の中で承太郎の瞳の色をした細い糸が束になって回転していた。ものすごい速さだった。 やがて空が白んで、天井が青く映し出された。世界が目覚めて、揺れようとしているのだと花京院は思い、目を閉じて、そして立ち上がった。 「おわりだ」 二週間がたっていた。 朝が勇み足でやってきていた。花京院はそれにはるか劣る速度でかけていた。承太郎に会わなければいけない。何もかもが終わる前に! 彼の制止を振り切って、館に入り階段を駆け上がって、窓に行き、彼の腕を引いて、合歓木の下を通り抜けなければならない。川にそって走り、そして。続きはなかった。だがそうしなければならなかった。 「まだ」 まってくれ、まだ、と花京院は思っていた。夏は終わっていたというのに蒸し暑かった。湿気はぶり返していた。太陽が昇りきる。まだ坂を上りきってはいなかった。 世界が揺れた。 花京院の足はもつれて、家々が崩壊していくのを見た。眠りのうちにある人々が、押しつぶされて死んでいくのが感じ取れた。視界の端で、まだ遠い合歓木の花が咲いているのが見えた。薄桃色の、煙のような花だった。それがまるで雪を落とすようにふわふわと、冷たい体の上に降っているのだった。 「じょうたろう?」 洋館は跡形もなかった。くずれて、白い木の欠片や、温室のガラスが庭にばら撒かれていた。薔薇が咲いている庭が見え、朝の光のしたで見るそこは不思議と清浄な空気と現実感をともなっていた。 しかして花は咲いていた。木に寄りかかるように二つの死体があった。ひとつは承太郎より二つくらい年下にみえる、金色の髪をした、こぎれいな少年だった。息をのむほど端正なそれは死によって凍結している。雪のように花が降っている。もうひとつは承太郎だった。寄り添うように死んでいる。もうひとつの腕はこの少年のものだったのだと花京院は思う。 彼らの頬には、出所のわからない灰がふりかかっていた。それを花京院は指でおとして、その暖かさに死んだのは少し前だと知る。 「承太郎」 仮に彼らの墓をつくったとて刻む名前もない。愛していたのだと思った。もう一度名前を呼ぶと響きはとても空疎だった。夏は終わっていた。のみならず、夢は覚める。 承太郎に出会ってから、一度も寝ていないことに花京院は気がつく。 合歓木の花が、ゆっくりとふりかかる。薄桃色に視界が染まり、それは死んでしまった二人にも、花京院にも変わりなく。 |
主人はDIO様。そして9/1。