第三夜/アナスイ、あるいは徐倫/






 王様はいいました。命おしくばこの大樽三杯に収めきれぬほどの金銀をおさめよ。小さく豊かな島の城壁の向こうでは女子供若い男に、剣や盾になどおよそ不慣れな人間たちの死体が積み重なっています。王様はもう一度島の教会の前で剣をふりかざし言いました。
 命おしくば、この島のあふれてかえる金銀を。
 王様の後ろに聳え立つ教会は沈黙して、青空の下にたち震えているように見えました。


 少女が一人教会のぼろぼろになった壁にもたれかかって死んでいる。そこは教会の二階の大きく開けた倉庫のような場所で、もう乾いて黒ずんだ血に汚れた少女の横に聖母が描かれたステンドグラスが割られて落ちていた。少女の睫は血でかたまって、唇は乾いていた。だらりと垂れた腕はやわらかく、しかし生きているようには見えない。人形かあるいはただのずた袋のように見えた。陽はまだ夕日になりきらず、だが傾いて海へと落ちていく準備をしていた。少女の傍に一人の男が疲れたように佇んでいた。男は煤や血で汚れた少女と違い綺麗な白い肌をしていた。だが彼の瞳にべったりと疲弊と焦燥がはりついていた。もしくはひどい諦めと絶望が。
 男は焼かれかけた木箱に重い足取りで近づきそして腰掛けた。中に入っていた弓の鏃が転がり落ちて、男は悲しそうな顔をして口を開いた。
「彼女と彼女の父親はそれは本当に幸せそうだったんだ」
 男が喋りだすと、日は落ちていくのをやめて空に上り始めた。中天に輝き東に沈みに、西から上ってきた。教会の壁が出来、ステンドグラスが窓にはまり、教会のその部屋には世界中から集められたような金銀銅や、装飾品、海産物に干した果物、宝石や穀物がしきつめられて並んでいた。
 男はその荷物の一つである木箱に座り込んだまま、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「彼女と彼女の父親は、それは本当に幸せそうだった」
 大きな白い柱の影からおずおずと幼い少女が現れた。幸福の詰め込んでそのまま形にしたような少女だった。彼女は不安げにあたりを見回して、それから窓の傍に彼女の父親の姿を見つけて、口を開いた。おそらく父さん、とでも呼んだのだろうが男には聞こえずに、ただのサイレント映画のように音なく少女が走り出し、窓の傍にいた父親が彼女を抱き上げた。
 どちらも柔らかい顔をしていた。
「俺は彼女と幼馴染で小さい頃から良く一緒に遊んでいた。彼女は教会に父親と二人っきりで住んでいて」
 少女は父親に抱えあげられて窓を見上げた。ステンドグラスを通した青い光が彼女の頬をなでて、少女はくすぐったそうな顔をした。父親はそれを見て少女を机の横の小さな椅子に座らせて、昔使われていた銀貨を取り出す。
「教会の二階の倉庫には世界各地から集められた品物がたくさんあった。彼女の父親は貿易商人で、腕がよかった。彼が売るものはいつも必要とされていて、高く取引された」
 少女の前で父親はゆっくりと銀貨をその手におさめる。少女は父親の手をきらきらとした青い瞳で見つめる。その瞳を見た父親はゆっくりと笑った。笑顔になると同じ速度でゆっくりと手のひらを広げるとそこには銀で出来た蝶のモチーフがあった。震える触角の先まで再現されたそれにステンドグラスの光がはじかれて鈍く輝いている。
「お金はいくらでもあった。父親は彼女を愛していたし、彼女は父親を本当に信頼していた。尊敬していた。まるでこの世にあってはならないくらい幸福に思えた。ひかり輝く瑠璃のようだった」
 それは彼女の父親の不思議な特技だった。彼がもう使われてはいない古い銀貨を握り締めて、広げるとそれは綺麗な装身具あるいは装飾品が出来ていた。最もそれは少女と父親だけの秘密であって、蝶を受け取った少女は酷く嬉しそうに小さく笑い、父親はそれを見て少女の頭をなでた。
「小さな島のただの町の普通の商人だったがこの島は莫大な富を築いていた。そうしてある日海の向こうから、兵士達がやってきた。俺と彼女と、いや島民たちは怯えた。兵士達の後ろには王冠をかぶった王が矛をもって馬にのって城壁にむかってきていた。誰かが守らなければならなかった、殺されないために」
 日はまだ高かった。少女はこの部屋に入ったときとは打って変わってはしゃぎながら走っていく。父親は席を立ち、男と少女の死体以外は何もいなくなる。
「俺が彼女と遊んだときの、花輪の花の数だって覚えているのに」
 男は肩を落として、疲れきって黙り込んだ。目には絶望が張り付いている。もしくはそれを通り越した疲弊が。
 日は沈み始めて、壁は崩れ始め、ステンドグラスは割れて、何もかもが元に戻った。前との違いといえば少女が血で汚れていない事ぐらいだった。
 男の目の前で少女は睫を震わせてゆっくりと目を開けた。美しい青い瞳をしていた。
「私の父さんは凄い人だった」
 少女は目を閉じて呟いた。億劫そうに、しかし瞳をぎらつかせて立ち上がった。男のことなど目もくれないし、少女が男を知覚しているのかさえ男にはわからなかった。
「父さんは強く正しく、尊かった。誰かが戦わなければならなかったのよ。この島のどこにも訓練された兵士なんていなかったわ。だから私は仕方がないというわ、アナスイ」
 少女は弓と矢を手にしていた。きりきりと弓をひき、割れた窓から馬の上にのった王を狙っていた。少女は木箱に座った男に話しかける。ねぇ、アナスイ全て終わったら。
「全て終わったら、城壁の向こうに十字架を立てましょう。墓碑銘は刻まないの。死んだのは私の全てよ。私の島、私の生活、私の世界、私の」
 とうさん、と少女は声に出さずに呟いた。
 男は少女を止めなかった。少女の手のひらはひきしぼりすぎた弦の負担に負けて切れて血が滲んでいる。
「十字架を立てましょう、アナスイ。私のこの矢があの王を射抜いたら」
 王は馬にまたがって、樽に埋まる金銀を眺めている。少女と男はからっぽの教会の二階の倉庫で黙っている。少女は弓を構えている。

 日はいまだ傾き続けたままだ。
「そうして、おねえちゃんはどうしたの?」
 少年が男にそう聞いた。男の瞳は疲弊して何も映していないようにみえた。
「彼女は弓を構えたよ。そう、彼女は弓の名手で外したことがなかったんだ。なのに、どうして」
 弓は綺麗に放物線を描き、王の王冠を打ち抜いて、彼女の首に矢が刺さった。子供はかたりと人形のように首を傾けて笑う。
「おねえちゃんの、世界が終わったからじゃないの?」
 死体はすでに消えている。蝶のペンダントが黒ずんで落ちている。男は木箱に腰掛けて、ただ絶望を見ている。

 あるいは落ちる日。
 城壁の向こうの十字架。

 夢。