第一夜/花京院
山の向こうがわずかに明るくなっている。群青の空に浮かぶ藍色の雲が、太陽の光に照らされて東のほうだけ赤くなっている。空に光る星が太陽の光で消えかける。ベツレヘムの星が空の天辺にかかっていた。花京院は周りを岩の壁に囲まれた谷の底に、死んだように横たわる海を眺めていた。どんな生物もその海の中では生きることの出来ない死んだ海だったが、花京院はその海を愛していた。波打ち際は昔語りの珊瑚の砂浜よりもなお白く輝いて、朝焼けのなかでは赤く染まって美しかった。 「朝焼けが好きなのはね」 今にも落ちそうな洞窟の穴から両足を出して、花京院は後ろにいた承太郎に話しかけた。承太郎は洞窟の奥から出ようとはせずに、しかし眩しそうに外を見つめた。海と言うには若干色が薄いらしいそこを眺めて、瞼を伏せた。光の差し込まない目が、しかしわずかに輝いているのを見て花京院は、まるで彼の瞳は星のようだとそう思う。緑の星だなんて見たことがないし、この土地にそういうものはとても少ない。あるものといえば、ごつごつとした茶色い岩壁と、そのきりたった地平線からのぼってくる不吉なほど白い太陽と、生き物のすまない海だけだった。 「あんまりにも世界が厳しいからだよ。あんまりにも厳しくて、厳しくて美しいからさ」 切り立った岩壁の中にいくつも分かれてある洞窟と、その岩壁を越えてはるか歩いて見えるわずかな草原と、厳しく寒い今日。きっとね、と花京院は海を見ながら口を動かす。 「試されているんだ。生きていけるかどうか、こんなにも厳しい世界で。今日生きていくのがやっと。明日生きていくには観念が必要だ。神は僕達を試している。僕達が神を試すことはできない」 花京院の言葉に暗がりにいる承太郎が伏せていた瞼をあげた。承太郎の動きはいつも静かで少なく、花京院はまるで底によこたわる海のようだと思う。 「だから俺達は、そこから飛び降りることが出来ない。神を試してはならない」 承太郎は花京院の腰掛ける、洞窟のほころびを指差す。花京院は笑って、そう、その通りと呟く。 「石をパンにすることなんか出来ない。三匹の魚を五千人に分けることも出来ない。水をぶどう酒に変える事も、海の上をあるくことも、海を割ることもなにもかもね」 「四十日間断食することも」 出来ないと承太郎は言う。花京院は笑う。 「そう僕達はそんなことは出来ない。食べなければ生きていけない。誰かの代わりに死ぬのは嫌だ。明日があることは美しいけれど、とても辛い」 どこか遠くで羊の声がするような気がした。乳蜜と香油は手の届かない場所にある。朝がやってくる、今日がはじまり、海は照らされる。浪打際は真っ白で美しく、星は消える。神は祝福と罰を両手に携えてそこにいる。 「朝焼けがすきなのはね」 花京院はもう一度繰り返した。海に太陽の光が差し込んで、青味がかった海水がゆっくりと透明になっていった。底には白い結晶で覆われた、凍ったような街がある。家があり、教会があり、馬小屋があり、なにもかも死に絶えている。 「あの街が見えるからだよ。神はね」 「俺達を試している」 ここから飛びおりるか否か?と花京院は聞いてみる。花京院の問いに承太郎はわずかに笑って、何も答えない。夜明けの為に、鳥が鳴く。誰かが三回嘘をつき、罪は子々孫々に注がれる。裁判人は言う。私には何の咎もない。私はお前達に聞いた。これはお前達が選んだのだ。お前達とお前達の子孫の罪だ。 ああそうだ、これが罪ならばそれは私達と私達の子孫が負おう。 「勝手な話だなあ」 花京院は笑って、ほころびから足を戻し、立ち上がって暗がりへと進む。光になれた目にはすこし暗く、承太郎の身体のおぼろげな輪郭しかわからない。羊皮紙にかかれた言葉には重い重い意味がある。この世界の理不尽を納得し、嘆く言葉。だがそれに何を思えというのだろう。 「結局はさ」 花京院はつぼの中の羊皮紙の文章に指を滑らせる。承太郎がそれをとがめるように取り上げて、呟く。 「世界が美しいから明日は辛いんだろう」 生きていく場所がなく、それが遠くにあるからこそ、全ては美しい。空は赤みを失って海はどんどん青くなり、やがて白い街は消え去って、二人で暗がりに残される。死んだ言葉を守り続けている。 |