がらくた
そろそろ何もかもを元に戻さなくちゃいけない。手のひらからどんどんとこぼれるのは別に理性でも神経でも、夢でも、まして電波でもなくて、時間なんだと。 「仗助」 「はい、承太郎さん」 震える声は涙声。何がこんなに悲しいんだが、よくわからない。泣くのは、そうだな、あんまり好きじゃないんだ。まして承太郎さんの目の前だなんて、羞恥心で死亡!もしくは、あれっすね、記憶撲殺。ああ、でも承太郎さんは殴れないんで、俺が忘れるしかないっすね。承太郎さんは覚えてないかな。端からぼろぼろ、昔のことも、俺の知らないことしか話さないっすから、大丈夫かも知れません。とか、希望きらきら。 「泣くな」 「無理っす」 だって理由とかないんすから、もうこれはどうやったって流れつくすまでは止まらないんです。多分絶対そう。承太郎さんは俺を抱えて、子供をあやすみたいに背中をぽんぽん叩いている。じわじわと涙が押し寄せて、胸に顔を埋めると承太郎さんは笑った。嬉しそうだ、仕方なさそうに困っても、嬉しそうだ。そのまともな反応はなんすか。 「俺は別に、壊れたいわけじゃないんすよ。承太郎さんと同じ物を見たいわけでも、同じように生きたいわけでもない」 「それはそうだ、当然だ。世界中の人間誰一人同じようには生きられない。同じ物も見ることはできない。同じように壊れることもできない。世界は誰とも共有されない」 そろそろ同じ物が見れそう。同じ物が聞こえそう。同じ物が、同じ物が。涙があふれて止まらないし喉は痙攣するのに声は滑らかに出て、抱きしめられている腕から、背中に置かれた手のひらから、肉を開いて、背骨が見える。真っ白い。幻覚だ。 「ああ、泣くな、もう泣くな。俺は困るんだ、慣れていないんだ」 「子供をあやすことが?」 「いつも泣かせてばかりいるんだ」 でも止まらないっすと諦めたように呟くと、承太郎さんはため息をついて、何回も背中を叩いた。ぽんぽんと、リズムを取って歌いだした。手のひらは温かく、声は柔らかく、歌は優しかった。とろとろと眠くなった。 母にピンクのキャデラックを、警察に囲まれたなら脳腫瘍のふりを、救急車を奪って、さぁ海まで。 「なら泣け、付き合ってやろう。時間ももう無い」 「時間?」 「時間はいつも有限だ。とめることが出来ても、支配とは違う。たった一人でいても、寂しいだけだ」 「承太郎さんも寂しいなんて思うんすね」 仕方の無い子供をあやすような手つき。 「ほらスイッチが切れそうだ、そろそろ」 寝るなりなんなりしろ、と言う。涙ではれて重い瞼は確かに眠気をつれてくる。 「どっちのっすか?」 「どちらもなにもない、ただ切り替わるだけだ。昼と夜みたいにな」 「どっちが昼で、どっちが夜ですか?」 「仗助、お前はどっちが好きだ?」 「どっちも」 言葉は続かない。 「月が見えるんすよ、承太郎さん、綺麗な緑の」 嘘だ。承太郎さんはぴくりと背中をたたいていた手をとめてからすこし悲しそうな顔をして、それから何も言わずに歌いだした。世界は誰とも共有されない。 「壊れたいわけでも、同じ物が見たいわけでも、一緒に生きたいわけでもないんすよ」 眠りに引き込まれる前に、そう言う。 そろそろ何もかもを元に戻さなくちゃいけない。そうでなくても、そうなるように。 「仗助君がね、変だよね」「変ね」「変だけど」「でも私には関係ないわどうでもいいわ」「東方」「仗助がよー」「最近」「おかしいが」「元に戻るよ」「何故?」「承太郎さんが帰ったらね」「恋わずらい。まさかやめてよ康一君、だったらそんなもの放っておけばいいのよ」「そうかな」「だって」「康一、お前それはよぉ」「叶わないことだろうなぜなら彼には」「家族が?」「だってあの人は」「他人なんか必要の無い人だわ」「世界が」「誰とも交わらない」「ならば」「なら」「それならば」「それなら」「なら」 どうして。 何もかも藪の中。意見の一致は嘘の証。 目が覚める。朝が来る。夜が明ける。夏が実る。殺人鬼が死ぬ。彼女が天に昇る。 そろそろ。 「承太郎さんは、どうしてそんなに俺にいろんな話をしたんすか?」「いろんな話?」「ヘルシンキの森とか、ミガルーっていうクジラとか、木星電波のヘルツ数とか」「ああ」「青い飴の意味とか」「飴?」「飴です」 何もかも。 「お前の、目と同じ色を」「あなたの目と同じ色を」 していたので。飴は。 「誰とも喋らなかったのに。俺とはどうしてそんなに?」 「それは」「それは月が重なる様子に似ている、そう見えるだけという」 「俺に喋るように見えるだけ?」 何もかも、元に。 「いいや、違う。そうなるように、そうするように。ああ、いや、もっと単純なんだ」 「承太郎さん」 「仗助」「俺に足りないのは言葉じゃない」 戻さなければ。 「そうしてもう、何もいえなくなる」 流れ出るような言葉は、意味がないという意味を持つ。言葉が意味を持ったとき、どこにも置いてはおけない。世界は共有されない。元に戻るべくして戻るように。あるいはスイッチが切れるように、切り替わるように。 「じゃあ、言っておきましょうか。たくさん。承太郎さんが、壊れた部分を切り離して、そこが二度と電波も何も拾わないっていうんなら」「そう、そうして元に戻るんだ。電波を拾っていたテレビの」「あのカルガモみたいなことばかり喋っていたテレビの?」「そう、そのテレビの受け売りなんだが上手くいきそうだからな」 腫瘍と一緒の治療法。悪いところに血はいりません、電気信号カットして、壊れた部分はさようなら。大丈夫、人間は脳みその中身なんて三割しか繋がっていないのだから。 好きだとか、愛してるとか、今のうちにたくさん言っておきましょう。思い出にもしようがないんですからね。壊れた承太郎さんもどっかに消えるらしいっすからね。 朝焼けの空のなかに月が二つ浮かんでいる。世界の境界が揺らいで、ゆらいで、ゆらゆらゆら。ぼってりして平面的に光り輝いている緑のつきが、真っ白で今にも消えそうな月を貪っている。飲み込んで、消える。空には一つぽっかりと緑色の月が浮かんで、朝焼けの色と相俟って気持ちが悪い。赤紫の。 「あー、月は気持ち悪い色をしてるっすね」「ああ」 でもまぁ、今は愛しているとか好きだとかたくさん言っておきましょう。たくさん触れておきましょう。 藪の会話。 「ほらね」「本当だわ」「元に」「戻った」「東方仗助がどうなろうと僕の知ったこっちゃないよ」「もう秋が来るね」「恋人の季節よ、康一君」「そうだね、由花子さん」「でもさ」「でもね」「でもよ」「そうね」「だけど」 どうして。 「何が?」「どうしてピンは壊れたんだ?」「どうしてピンは治ったのか?」「ロビン、ロビン!ロビンはどこ?」「由花子さん、ふざけるのはよくないよ」「ごめんなさい、康一君、だってあんまりにも疑問らしくないから」「なら君にはわかるのか?」「わかるわよ、簡単よ?」「なら答えてみろよ」「ピンは壊れる運命で、直す人が傍にいたのね、でもあんまりにも何回も間断なく壊れるから、直す腕がおかしくなったんだわ、もう壊れなくなった代わりにもう治らない」「でも壊れないなら、ピンはピンとして使えるようになったのね」 白い月が空に浮かんでいる。 「じゃあ、承太郎さん、また来てくださいね」 「ああ」 話す言葉はもうない。緑の月が空にかかっていたので、二人でぼんやり眺めていた。それを見ていたジョセフが首をかしげる。 「何を見てるんじゃ?」 「いや、何も見てないっすよ」「じじい、もう船の出る時間だぜ」 汽笛もならないSPW財団の船に乗り込んだ。 「じゃあ、承太郎さん、また来てくださいね、じじいも元気で」 「またな、仗助」「ああ、ありがとう、仗助君」 仗助は笑う。ジョセフは嬉しそうに答えた。承太郎はかすかに笑っている。その瞳は眼底までも透けてみえる、ような気がする。 藪の中の会話。 「この間の話だが」「あらなにかしら?」「随分お粗末だったじゃないか、運命だなんて」「運命という以外に何か答えがあるのかしら?」「あるとも、壊れるには理由が必要だ」「理由?理由ですって、そんなものなんとでもいえるわ、壊れたのが随分前だったのをごまかしてつかっていてガタがきた。磨耗してうまく回らなくなった。元々壊れていてぼろが出た。卑怯にも膝を折りたかった」「なんの話だ?」「自分で振っておきながら、ピンの話よ」「そうだ、そうだった。でも」 本当は。 「ピンは彼じゃないんだぜ」「そんなのみんなわかってるわ」 満月の空は、明日には上らない。白い月もおあずけ。 「ねぇ、仗助くん」「おい、東方仗助」「なぁ、仗助ー」「ねぇ、ちょっといいかしら?」 月はいくつ? 「一つだよ」 満月の空。白い月はのぼらない。 「月なんか」「月なんて」「つきはよ」「月なんて」 上っていない。 ほんとうは、しんそうは、電波まぎれて藪の中。 とけてこわれて。 「承太郎さん?」「おやすみ、仗助、おれも眠い」「ああ、それじゃあ、一緒に寝ましょう」 がらくた。 |
終わりー