電波さんのその後
美しいもの、優しいもの、日常、かけがえの無いもの、新たに手に入れたもの、最初から無かったもの、変わってしまったもの。涙。波の音がする。鳥が鳴いている。地平線の向こう、緩やかな帆船、見える地平線。世界は丸いならばいつか帰ってくるのだろうか。光って落ちる。涙。
あ。
「海」
「海ですねぇ」
「フィンランドの海は青いだろうか」
「すごく深い青なんじゃないっすかねぇ、北極近いし。南極でしたっけ?」
「北極だ。クマもいるだろうな」
「ペンギンも居ますかね」
「極夜はオーロラが良く見える」
「電波の受信も良好そうですね」
「冬は空気が澄んでいる。夏は濁っている」
「今は初夏ですからねぇ、ざぁざぁ雑音交じりですか?」
承太郎さんは上機嫌、みたいだなぁ、と仗助はくるくる回る頭をがくっと落として思った。初夏の空気は澄んでいて気持ちがよく、グランドホテルのプライベートビーチには人がいない。海水浴にはなにせ早すぎる。時々、ホテルの客なのだろう人間が、つまらなそうに歩いている。どんな身分だこのやろうと思ってから、自分も似たように見られるのかもしれないと考える。
海の向こうは青いのに、波打ち際は透明だ。まだらの肌色をした砂浜には小さな小さな貝殻が落ちている。拾うほどには子供じみていないけれど、承太郎さんの専門は海洋学、らしくて海が好きみたいだった。言ってることはあいかわらず電波じみててあれなのだけれど、きらきらと瞳孔の大きな瞳は悪くない。俺は好きだ、うん、と仗助は頷く。
「水分は粒子を重くするからな」
「そうなんすか?」
「いや、嘘だ」
笑う。承太郎さんが嬉しそうに笑う、ので俺も返すように笑う。平日の真昼から、顔を突き合わせて男二人で物悲しいのかもしれない。今日はこの後億泰とゲーセンにでも行こうかなと思う。どんな現実も過してみれば慣れるもので、俺は承太郎さんが好きだし、承太郎さんはよく喋るし。それにじじいは生きてるだけでもいいと言う。だってちゃんと戦ってくれるから問題はない、みたいで、うんそうかもね。
鳥が鳴く。
「仗助」
「はい、なんでしょう」
承太郎さんは無口な人だから、別に喋らなくても問題ないんだ。電話はじじいが取り次いでるし、意志疎通は俺がしてる。ちょっと露伴が嫌な顔をするけどね、どうせ承太郎さんと一緒の時になんてそんなに会わないからいいんだ。億泰なら、億泰なら案外会話が通じちゃうかもなぁなんて考えて笑った。承太郎さんの行動は変わらない。外に出るときや人と会うとき。
俺の時の、流れる意味の取れるような取れないような果てしない会話は緩んだ心の隙間からの何かなのかもしれない。読み取れはしないけど。
「つきが見える」
ごめんなさい、承太郎さん。俺には月は見えません。真っ青な空と、薄い雲と、丸い地平線の海。その向こうにぼんやりと影のようなもの。太平洋の向こうに見えるような陸は無いはずなんですがね、承太郎さんといるといつも見えます。幻覚? いやそれよりも、もしかして俺にもアンテナついてきてるんだろうか。
電波な世界に片足つっこんで震えて、通訳になりたい。
「ああ、白い月ですねぇ」
「良い空だな、良い海だ、その向こうまで見えるような」
「ああ、太平洋は広いですからどこまでもきっと」
「白夜は気が狂いそうになるな」
話が飛びますねと笑うと承太郎さんはすこし驚いたような顔をした。滑らかにシナプスがつながっていたらごめんなさい。俺はすこしアンテナの感度が悪くて、なんて考えて大分毒されていると思う。伝染しそう。それもいいかも、いやいや、ダメだ。だって母ちゃんいるからな。だからやっぱり通訳くらいがちょうどいいっすよ。
「フィンランドの話ですか?」
「ヘルシンキに行ったことがあるか?」
「ヘルシンキ?」
「食堂があるんだ、森のな、奥に」
「森?」
「きっと星が良く見えるだろう、お前に見えない月も」
びっくり、して、笑いがこぼれた。承太郎さんはにこやかに笑っている。俺、好きです、その顔。海がすきなんですね、ビーチにくるといつも瞳孔が大きくてくるくる落ちつかなげに視線が飛んでるから。月も海も、星も空も、その向こうの影までくるくるくるくる、俺の頭と一緒っすよ。
混乱、してばっかりで、いつも追いつくのが大変なんすよ、承太郎さん。
「そこまでいったらアンテナ装備も可能っすかね」
承太郎さんは困ったような顔をした。本気じゃないっすからね、すいません。ここで生きてここで死にたいんす、多分、俺。承太郎さんの事好きですけど、じじいとも会えてそりゃあ複雑ながら嬉しくて、世界は広いっすけど。
「お前は来ないだろう」
「アンテナありませんからね」
家族もいますしね。大事にしたいっすからね。電話の向こうで誰かがないても戻れないのは、戻れないのは、あまりにも、あんまりにも、可哀想じゃありませんか、そうでしょ?
今日の続きは明日で、進んでいったら承太郎さんいませんからね。
電波を受信してると、人の心まで読めたりするんだろうか、承太郎さんは少しだけ悲しそうな顔をしてそれから。
「あ」
「あ」
あ。
海の向こう、緩やかな地平線の向こうに黒い影。青い空をはいで見える丸い緑のつき。木星って緑じゃないのに、緑のイメージありますよね、きっと承太郎さんの目と同じ色だからっすね。ごめんなさい、月、白じゃなくて緑だったんすね。
「承太郎さん」
「すまんな、仗助」
承太郎さんは笑った。瞳孔が開いていく様が猫みたいだと思った。世界が丸いならばいつか還ってくるだろうか、いまこの瞬間に落ちて言った何か。緩んだ心の隙間から、落ちて消えていって、その中身が空っぽになるかも知れない事を考えたことが無かった。
人は壊れるのだと仗助は知っていた、もちろん。魚眼レンズみたいに眼底まで見えそうな目をしていた。きちきちと焦点を合わせる音が首の裏から聞こえた気がする。滑らかに混乱していた神経が次々と切断されて、さようなら、さようなら。もう二度と帰ってこないよ、さようなら。
涙は、光の差すステンドグラスが割れるみたいに綺麗だった。見たことはないけど。波打ち際に落ちて、海に混じって消えてしまった。
さよなら、電波。
傍受するアンテナも壊れて、理由なんかもう誰にもわからないまま。
|