ラブレス
花京院典明は春の陽気に浮かれて、少しばかり眠気に負けてしまいそうだと思いながら窓の外を見ていた。桜はもうすぐ全て散って葉桜になってしまうだろうな、と校庭をみて思い、いつの間にか空気が柔らかく暖かくなってきたことに妙な高揚を感じる。 と言っても花京院にはそれをわざわざ言うような相手もいなかった。周囲のクラスメートは彼をこう評する。人あたりはいいけれど、なぜか仲良くなれない。話をすれば乗るのに、彼が何を好きかなんて知らない。同年代の男子が花京院の好みを気にする理由といえば、花京院はその柔らかな人当たりと優しげな雰囲気からやたらと女子にもてるので、周りの親しそうな男子に女子が当るのである。 花京院君の好きなものって何か知らない? そう聞かれると人当たりがよく、仲が特別良いともいえないが悪くもないと思っていた花京院典明が何を趣味としていて何を好んでいるかを全く知らないことにはたと思い当たる。なんだか壁があることに気づく。 けれど人当たりが良いので、それをすぐに忘れる。花京院典明の周囲のイメージというのは大体こんなものであった。花京院も自分が周りの人間からどう思われているかを知っていたし、なんだか他愛ないことを言うのもためらわれていてずるずるとここまで来てしまっていた。どうしても分かり合えないと思う瞬間があった。生まれたときから、欠けているものがあって、それを探しているような気持ちだ。 それともこんなものはただの青春の迷いというやつで、この喪失感も薄まって消えるのだろうか。 花京院は眠気で重くなる頭をずるずると机に押し付けて目を閉じた。春の空気は柔らかく甘い。 「花京院」 黒板の前で陽気に喋っていた教師がそんな花京院を見咎めて名前を呼ぶ。花京院は目を開いて、はい、と答えた。 「そんなに眠いなら、眠気覚ましに空条を探してきてくれ」 教師は朗らかに笑いながらそんな事を言った。やたらとオーバーリアクションなその教師は、いろいろと授業に工夫をしていて、親しみやすいキャラと相俟って生徒に人気だった。それなりに整った顔と、突飛な髪型をしているが、その髪は銀髪で妙に好まれている。 「なんでまた」 教師、ジャン・ピエール・ポルナレフはいつも妙に馬鹿にしているアメリカンな仕草で肩をすくめて笑った。 「転校早々、俺の授業をさぼられたんじゃな」 お前も眠気覚ましついでに探しに言ってくれと軽やかに言う。十五分たって戻ってこなかったから俺が行くとも付け加えた。十五分以内に探し出して連れ戻して来いという事だ。 「わかりました」 花京院は面倒くさいと思いながらも席を立った。そもそも空条承太郎とそんなに親しいわけではない。他のクラスメイトと全く馴染もうとしないというのに、たかだが転校前にあっただけの自分に妙につっかかってくるのが解せない。何かした覚えはないというのに。 (助けられたのは僕だけど) 駅前で絡まれていた自分を助けてくれたのは確かに空条承太郎ではあったから、それを歓迎する理由はなくとも嫌悪する理由もない。それに、やたらと彼が気になる自分もかなり意味不明だ。 「まぁ、別に」 探さなくてもいいだろう、と花京院はもう寒くない廊下で小さく呟いた。十分程度ぶらぶらして、また教室に帰ればいいだけの話だ。ポルナレフには悪いけれど、見つからなかったとでも言えばいい。 (それに妙にあの二人は仲が良いからな) まるで転校する前から知り合いみたいな気安さだ。空条承太郎が彼の授業に出ないのは、出なくても大丈夫だと思っているからかもしれない。 「どうでもいいが」 そう、どうでもいいことだ。 花京院はふらふらと廊下に差し込む光に近寄って、そのまま歩き続ける。階段を登ったほうが暖かそうだとぼんやり思い、階段を上がるとそこは化学室だ。授業はやっていないらしくしんとしていて、いつもは鍵がかかっているというのにドアがわずかに開いている。 花京院は首をかしげて、扉の取っ手に手をかけて開けると暖かな風が頬を撫でた。ちょうど化学室の窓は桜の木のすぐ傍にあって、開け放してあったので花びらが遠慮なく吹き込んできている。 暖房が入っているわけではないのに、差し込む光と風のせいでそこはひどく暖かかった。教室での眠気がぶり返してきて花京院はあくびをかみ殺す。 「探し物は、それを探していないときに見つかる」 すこし驚いた顔で呟いて、花京院は化学室の机に突っ伏して寝ている空条承太郎を見て呟いた。風に吹かれて開いた窓から花びらが吹き込んでくる。花京院は面白くなさそうに、手近な椅子を引き寄せて、寝ている承太郎の近くに座った。 「本当に」 整った顔をしている、と花京院は思う。純粋な日本人ではないらしく、鼻も高いし、彫りが深い。睫なんかマッチが何本かのりそうな感じだ。今は見えないけれど、瞳の色も茶色ではなくて、綺麗な緑色をしている。 彫刻のような、とは彼をして言うのだろう。 「…くぁ」 眠気に知らず出たあくびに、視界が滲む。ひらひらと入ってくる花びらがまるで小説の世界みたいじゃないかと思う。それか少女マンガだ。 「ねむい」 承太郎の学帽のふちに花びらがついている。花京院はなぜだかほほえましい気持ちになってその花びらをつまみ、そうしてそんな自分にすこし驚いた。何かを話したがっているようにみえる承太郎も謎だが、それを読み取ろうとしている自分も大概おかしい。 クラスメートは花京院典明を評して言う。彼にはどこか壁がある。花京院典明も思っている。どうしても彼らと分かり合えない事がある。このごまかしようのない欠落を彼らは抱えていないのだろうか。生まれたときから隣にいるべきだったはずのものが無い、という違和感。 「うん?」 眠気に負け始めた頭で首をひねる。机につっぷして呻く。そういえば、化学室の机は薬品がこぼれることもあるからそういう事はしないでね、と教師は言ってたな、と関係ない事も思い出す。 いつからか眠っているのかしらないが、承太郎は起きる気配さえなく、眠っている顔はまったく整っている。 ねむい、と花京院は呟いて、はたと思い当たる。どうしてこんなにくつろいでいるのだろう。あの喪失感もすっかり鳴りをひそめて、君を待っていたんだと脳裏が言う。眠る直前の、泡のような宣言。 (これ) 忘れないようにしなくちゃと眠りに落ちかけた花京院は思う。同時に、きっと忘れてしまうだろうとも思った。窓からはもう散り際の桜が見える。 「…これはまぁ」 どういうことだろうね、と十五分たっても戻ってこない花京院を探しにきていたポルナレフが化学室を開けて呟いた。教室の隅の机の上で二人がそれぞれ寝ている。 「案外当たりかも、な」 いやしかし、とポルナレフは呟いた。 「可愛らしいじゃないか」 年相応で、ポルナレフは花びらを制服のいたることにくっつけたまま眠る二人を見て笑った。 |