愛は盲目





 私は父さんが嫌いだった。私の父さんは傍目にも整った造形の人で、私の母さんは私とはあまり似ていない可愛らしさを持つ人だった。私はその二人の間に生まれた一人娘で、家の倉庫の奥には私の幼い頃のビデオテープがあるのを知っている。中身を見たことはないけれど、でもそれは多分どれも母さんと私の二人が写っていることだろう。ジョジョ、と私のことを呼ぶ母さんの甘い声、ビデオの近い部分から流れ出る低い父さんの声。おぼろげながら覚えている、父さんの緑の目。私と母さんの目は青くて、私は父さん以外にあの緑色を見たことがない。
 あとは全て写真の記憶。殆ど帰ってこない父さんは、私が人生を踏み外したってどこかへ行って帰ってこない。そんなに海が好きならば、そんなに母さんが大事でないなら、もう帰ってこなくてもいい。
 そんなに私が嫌いならば、父さん。
 私は父さんが嫌いだった。

 徐倫は閉じていた目をあけて、頭に刺さっていたDISCを取り出した。それは彼女の父親の記憶DISCでようやっと取り返したものだった。彼女の父親は今はただ生きているだけでもこれを彼の元に運びさえすれば本当の意味で彼は生き返る。父親、空条承太郎のDISCを徐倫が覗いたのは、神父の目的を知るためだった。神父がこれから先どこへいくか、どうするか、自分が生まれる前にどこかの吸血鬼が示した道を確かめるために覗いたものだった。
「…なにが」
 ふん、と徐倫はつぶやいて、それから口を閉じた。ぼんやりとDISCを弄んだ。記憶はそのまま記憶でそこに感情などさしはさまれないが、それだけで充分だった。どうして父親が帰ってこなかったのか、帰ってこなかった間何をしていたのか、いくらでも覗くことができた。
「私は父さんが嫌いだった」
 憎んでいた、と言ってもいい。徐倫はそんな事を思いながら、自分のほどけかける指を見た。真っ白な糸がしゅるしゅると音をだしながら糸になって、鉄格子の隙間を通りかけて躊躇するように戻った。糸を立体的に重ね合わせるとそれは人の形になった。
「父さんはスタンド使いだった」
 そして今は私もそうだ、と徐倫はストーン・フリーを見て思う。今はそんな事よりもこのDISCをSPW財団に届けることを考えねばならないのはわかっていたし、時間もないが、刑務所の中にいると機会を待つ以外にすることがないので暇な時間も多い。
「十七歳から」
 DIOの残照に照らされ続けている。自分が巻き込まれたのかそうでないのか、徐倫は判断することが出来ない。自らの決断で父親を救おうと思ったのは確かだった。それにDIOの置き土産が絡んだのも、また事実だ。
「十七歳?」
 徐倫にとってその年齢はたった二年前だ。二年前とはあまりにも遠く、そしてぎょっとするほど近い。どうして家族なんて持ったのと思ってしまうほどだ。それほどに遠ざけなければならなかったなら、いっそ。
 子供が泣き叫ぶ。愛されているかわからないと心の底で子供が泣き喚く。埋めきれない感情を、空白を、期間を、だだをこねて強請る。高熱を出して死に掛けたあの日々と同じように。
 いっそ憎む事でしかそこから抜け出せなかった。
 スタンドは人型のままでずっとそこにいる。指はほどけかけている。心もとない気持ちになる。たとえ四ヶ月前のあの時に助けに来てくれたとしても、どうしてそれがあの日々ではいけなかったのだろうと、子供が駄々をこねる。
 父親が嫌いだった。

「変な夢ばっか見る」
「変なゆめぇ?」
 どんな夢だよ?と思いのほか耳ざといエルメェスが拾って聞き返した。徐倫はしばらく何をいおうかと口を半開きにしたまま固まって、小さく喋りだした。
「人をね…」
「人を?」
 やはりまた口ごもってしまう徐倫にエルメェスは続きを促す。徐倫は顎に指をあててしばらく考えてからおずおずと口を開いた。
「人のね、首を絞める夢」
 真っ白な、ストーン・フリーの糸で。

 徐倫は暗闇の中で彼女の父親の上に馬乗りになっている。なにか喧嘩でもしていたのか、徐倫は自分の感情がひどく波打っているのを感じている。彼の瞳はおぼろげな記憶の、あのビデオテープの時のように優しげなのだけれど、徐倫はそれに苛立っている。あんたの愛が、どれだけ大きくても、伝えなかったのは怠惰だと感情によってわめいている。私がどんなに寂しくても、私がどんなに弱っていても、私がどんなに縋りたくても、あんたは電話一本だってよこさなかった。私の為に、嘘一つだってつかなかった。
 夢みたいな言葉が欲しかったわけではない。だから嘘をつかれたとしたって嬉しくはなかっただろう。欲しかったのは行動だったのに、それはいつも徐倫の知らぬところで行われていて、あるのはただ彼がいない家だけだった。
「なにか、いえよ!」
 その態度が嫌いだった。その瞳が嫌いだった。取り乱してくれれば徐倫は自分が彼の中で何かの影響を与えているのだと信じることが出来たのに、彼はただ圧倒的な存在感でそこにいるだけだった。その存在感が大きすぎて、空白に徐倫はいつも振り回されていた。
 父さんは、あたしのことなんか、どうでもいいんだろ。責められたってどうともないくらい、あたしが怒ってもなんともないぐらい、私がどんなにあんたに振り回されたか知りもしないくらい。
 けれども夢の中で彼は優しい瞳をしたままだ。
 すると意識もしないのに、指がしゅるしゅるとほどける。真っ白な糸が真っ暗闇で綺麗に踊って、彼の首に巻きつく。まるで踊るように軽やかだ。花を優しく撫でるみたいに柔らかだ。彼は何が起こるのかわからないような顔をしている。
「あたしはあんたを殺したいほど憎んだ事だって、ある」
 いつのまにか徐倫は首に巻かれた糸の端と端を握り締めている。くっと、端を引っ張ると糸が首に食い込む。彼は眉をひそめてすこし苦しそうな顔をした。困っているような顔にも思えた。
「いっそ死んでしまったら、いいと思ったことだってある!」
 細い糸では気管はつぶれない。皮膚を痛めつけるだけだ。自分のスタンドの糸なのに掌に食い込んで血が流れた。逆なのに、どうしていつも、傷つくのはこちらなのだろう。
「徐倫」
 暖かな乾いた手が言葉とともに血が流れている掌に重なった。彼は優しく紐から手を外させて、その端を自分で持った。
「とうさん…?」
 ちがうの、と声は掠れてしまった。彼は眠るように目をつぶって、静かに糸を引いた。それは彼女のかけた力よりもはるかに強くて、首の筋がみしっと悲鳴をあげた。潰されかけた気管をそれでも通ろうとする空気がひゅうひゅうと鳴っていた。
「違うの!」
 そう叫んで徐倫は父親の手が持っている糸のさらに内側を握って、力いっぱい引く。骨の折れる幻聴が聞こえる。

「人の首ぃ?なんかやばいんじゃね?ストレス溜まってるとか」
 ふっと思考から引き上げられるとエルメェスがコーヒーを飲みながらそういっていた。そうなのかも、と答えると、そうだよ、と力強く返される。
「変な夢でしょ」
 改めて聞くと、まぁねー、とエルメェスは返した。そうして付け加える。
「まぁでも、そういうのあるよな、殺したいほど貴方がすき!みたいな?」
 エルメェスの言葉に徐倫は目を丸くする。言った当人は自分の言葉に何かツボをつかれたのかそれとも照れているのか、ぎゃははと必要以上に笑っていた。
「そうかな?」
「さぁねー」
 エルメェスの声を聞きながら、徐倫は掌に食い込む糸の感触を思い出していた。感情を揺らされていることを差し控えても、あの夢にはひどく興奮をした。

 私は父親が嫌いだった。そうなるくらい愛していた。