ウィトゲンシュタインの梯子





 そこはただの部屋だった。小さな窓があって、パイプベッドが置いてあり、ユニットバスも付いている。ただ家具はそのベッド以外は何もなくて、荷物をすっかりまとめて夜逃げした部屋か、それともまだ引越しの途中みたいにがらんとしたものだった。フローリングの床の上に男が二人いた。一人は手錠と足かせをしていた。一人は手錠をつけている男の膝でなにやら意識を失っているように見えた。
 睫が震えて、男が目をあけると、もう一人が微笑んだ。ひどく柔らかな微笑だった。

 半分伏せられた瞼が、やさしげに見えればいいのにと花京院は思う。そうして慈しむ彼の表情が怯えたものにならないように。眉間に皺をよせた承太郎の顔は、花京院には怯えなのかそれとも不快感なのか、よくわからない。ただ彼は自分の指でただ膝の上でぐったりとしている承太郎を撫でていた。承太郎の額、髪の毛は柔らかい。閉じられた瞼、鼻、唇。端正であるとはこういう事だ。ふとしたその瞬間が美しい。意識せずとも完成されている。
 薄く開けられた唇を指でなぞると承太郎の表情が変わる。唇の端が切れている。こめかみにも痣がある。首筋から覗けば、そこにもなにか変色した色。紫、赤に黒とバリエーションに富んでいるのかいないのか。
「スタンド、出さないでって」
 言ったのに、と花京院は呟いた。そう言いながら承太郎のこめかみをゆるく押す。承太郎は眉をひそめて、やめろと手を払った。払われた花京院の手から繋がる手錠がじゃらりとなった。花京院の手首から、それはパイプベッドに伸びている。
「出してない」
「出してたよ」
「見間違いだ」
 嘘だよ、と花京院は言う。承太郎は鬱陶しげな顔をして瞬きを繰り返し、意識をはっきりとさせようと努めているみたいだった。
「こめかみ、大丈夫?」
 てめぇが殴ったんだろうが、と承太郎は忌々しく呟いた。ごろりと横に転がって花京院の膝の上から抜け出して、すこし辛そうに立ち上がった。花京院はフローリングの床に座ったままだったので、ちょうど見上げる形になった。
「手、出せ」
 承太郎はそういって、扉のすぐ下に落ちていた鍵を花京院の前で揺らした。鍵はいつも部屋の中に落ちている。そしてそれは絶対に花京院の届くところにはないのだ。花京院は嫌そうに手錠のついている手首を差し出した。承太郎は黙って、手錠の鍵穴に鍵を差し込む。かちりと鳴って、かかっている間には思いも寄らないあっけなさでそれは外れる。
「やっぱり不便だよね、手錠」
「そう思うなら、外せよ」
 鍵はあるだろという承太郎の言葉に花京院は肩をすくめる。
「だって届かない」
 あんなところと花京院は自由になった手で扉を指す。なんてことはない普通の扉だけれども、そこまでいけないのだ。歩くとじゃらりと音がする。足についた鎖は頑丈で、一体こんなもの何処に売ってるのかと首を傾げるばかりだ。それに、足首の太さぴったりに作ってあって、外れもしない。
 承太郎はため息をついた。伏せられた瞼は、多分、さっき承太郎を撫でていたときの自分よりもずっとやさしい。全く見当違いの優しさだけれど。床には彼が持ってきてくれたご飯が打ち捨てられている。承太郎は食器を拾い、割れたガラスを無造作に掴んで片付ける。
「承太郎、危ないよ」
 ぴたりと手を止めて、承太郎は花京院を見た。
「てめぇが言うか」
 スタンドで殴ってぶちまけさせたのは誰だ、と疲れたような声で呟いた。
「だって、スタンドを出すから」
「お前が出すから防いだだけだ」
 見間違いだと言うのにも疲れたのか承太郎はそう呟いて、また無造作に片付けに戻った。割れたガラスをあまりにも乱暴に掴むから、掌の皮膚が切れて血が滲んでいる。
「痛くないの?」
「いてぇよ」
 おぼんに大きな欠片をほとんど乗せきったあとに、フローリングにぽたりと血が落ちた。口の端も切れているし、なんだか承太郎は満身創痍だと花京院は首をかしげた。
「食器、プラスチックにするか、持ってくるたび割られたんじゃな」
 ぽたぽたと止まらない血を見ながら、激昂して食べ物を払ったときにからーんと音が出るのは間抜けだなと、花京院はそんな事を考えていた。足かせが足首に食い込んでひどく痛む。

 目を覚ますと手首には手錠がかけられている。とどかない扉の前に鍵が置いてあった。投げ出されたように無造作なそれは花京院にいつも結果を突きつけていた。ここから、出る術がもうないのだという結果だった。
 自分からは幾分か離れた距離にある窓は、めまぐるしい色をしていた。青味の強い赤と、それにも混じりきれなかった青がぐるぐると渦を描いて雲に映し出されている。それほど大きい窓ではないにも関わらず、その窓から切り取られた風景は広がる外を花京院に強く思い描かせた。
 春、なのだと思う。春なのだと思った。時が経つのが恐ろしく、不安に苛まれる。一人でいると、不安を止める術がない。花京院はふらふらと立ち上がって、扉をがんがんと殴って叫びたかった。涙を流して、訴えたかった。というのに扉にとどくあと少し、鍵まではほんのわずかで、手錠のくさりがぎちっとなる。かっとなって何度も振り乱して、叫ぶ。承太郎、と。
 どこにいる、どこにいった、ここは静かで怖い。承太郎。承太郎。
 床を叩く。手首がすれる。泣き喚いて、叫んでいると扉が静かに開いた。ばっと顔を上げると疲れた顔の承太郎がいる。彼は静かに後ろ手で扉を閉めた。
「花京」
 院と最後まで言葉にならなかったのは、花京院がスタンドを出したからだった。ハイエロファントが触手を出して、承太郎の足を引きずり、花京院の傍までずり寄せる。こめかみの痣も口の端の切り傷も、昨日のままで、そして今日も怪我が増えるのだろうと承太郎は諦観気味に思っていた。
 がつ、と音がして頬を殴られる。殴られ慣れるというとなんとも物悲しいが、別に耐えられないことじゃない。
「どうして出て行くんだ!」
 めちゃくちゃだ。弱くはない力で殴打されるというのに、防御しようと承太郎には思えなかった。ただ花京院の後ろでハイエロファントがぼんやりと光っていて、催眠術でもかけられるみたいに眠くなってしまう。
「お前、も、出て行けばい、い」
 鍵はいつだってお前の前にある。
 途端、花京院は泣きそうな顔をした。離れかける感覚を承太郎は必死に捕まえて取り戻そうと努めた。服を掴んでいる花京院の指は真っ白で片方の手首からは血が滲んでいる。昨日の自分のようだと思うと、承太郎の指先はわずかに痛んだ。ぱん、と先ほどとは違った小気味よい音がして、殴られた箇所を重ねて殴られた。痛みよりもそれは熱さをつれてくる。
「じょうたろう」
 夢みたいにおぼろげな声で花京院は言った。瞳孔のぽっかりひらいた目だ。
「承太郎」
 君は、と囁きながら花京院は承太郎の見開かれた瞳に舌で触れた。眼球とはやわらかく、舌でおすとわずかにへこんだ。
「…か、きょういん!」
 異物に触られているからか、じんわりと涙が滲んでいる。わずかにしょっぱいな、と花京院は思った。あんまりにも綺麗な色をしているから、承太郎だったらなにか特別な味でもするのかとおもったけれど、特になにがあるわけでもなかった。
 ふっと、殴った箇所を指で辿る。眼球は思ったよりも柔らかく、なんだか革のように滑らかな感触がした。殴った場所に力を入れると、承太郎は一瞬だけ息を呑んだ。
「君は、どうして僕を置いていくんだ」
 こんなにここはさみしいのに、と花京院は瞳から舌を離して聞いた。それは素朴な問いだった。
「てめぇが、外に出ないからだ」
 足かせが痛む。承太郎はひどく疲れた顔をしている。承太郎は花京院が落ち着いたのだと判断したのだろう。花京院を力ない手で押しのけて、扉の前の鍵を拾った。
「手、出せ」
 花京院は大人しく手を出して、承太郎は手錠を外した。手首には赤い跡が残っていて、血が滲んでいる。承太郎はその手首を諦めた顔でゆるゆると触って、それから顔をしかめた。頬が痛むのかもしれない。
「俺は、お前が何をして欲しいのか、全然わからねぇよ」
 さっき舐めたせいで潤んだままの片目は涙が流れているように見えた。感情による涙ではなくて、ただの生理的なものなのだろうと花京院は思った。そしてそれが自分の為に流される涙なら、承太郎はこのようなことを聞くわけもないだろうと少しだけ絶望した。
「…手錠だけ外したって意味がないじゃないか」
 足かせが鳴る。
 承太郎は疲れた顔で、ただ自分の面倒を見る。そうしてこの部屋から出て行く。花京院は時々発作のように暴れて、その度に駆けつける。朝方、夜中。必ず承太郎のいるときに、寝ている時間に、気づけと願って暴れる。
「俺にはお前がわからない」
 僕だって君がわからない、と花京院は思う。

 からん、と投げ飛ばされるプラスチックの食器の音はやっぱりすこし間抜けだと花京院は思った。
「花京院」
 宣言は唐突だった。扉の前で承太郎が鍵を拾ってそう言った。手錠はがちゃがちゃとなり、足かせはうるさい。ここから出て行くなと物理的に拘束されていて、身動きさえ取れないような気持ちになる。
「俺が外した後に手錠を自分でかけるな。かけた後に届かないところに鍵を投げるのもやめろ」
 てきぱきと承太郎はそう言った。そうしていつものように手を出せと疲れたように言った。花京院は突然の宣言に呆けたようになって、黙って手を差し出した。それは名残惜しさの欠片も見せずに唐突に滑り落ちる。
「扉に鍵はかかってない、出て行け」
 言葉の強さに反して、覇気は全くなかった。花京院は幾度か手をさまよわせてから、縋るかのように呟いた。
「手錠だけ、外したって」
 足かせが鳴る。
「意味がないわけねぇだろ」
 窓からは燃えるような空が見える。世界の終わりの空のようだ。らっぱを吹き鳴らして天使がやってくる、七つの災厄がおとずれる直前の空のような色だ。見たことはないけれど。
 承太郎はただ、花京院の手をやさしく取っていた。
「お前の足かせなんて、どこにもつながってねぇじゃねぇか」
 風が吹き込んだ。
 花京院はかっとなって、承太郎を殴る。承太郎は抵抗をしない、いつものように。そうだ、彼はいつもそうだ。彼は耐えている。耐えることで応えている。スタンドを出すなといえば出さない。自らの思考が誰の元でも明白だろうと信じているのだ。
 だがそれを理解できても、実感ができない、納得が出来ない。どうして殴られる。どうして放っておく。どうして耐え続ける。そこまでしておきながら、どうして。
 言葉にならない問いかけは涙になってしまう。承太郎は泣く花京院に気づいて、手錠をとった後の手首をなでるのと同じ優しさで涙をぬぐった。それはまったく見当違いの優しさだった。
「僕は、君の、そういうところが気にくわない」
 花京院がそういうと、承太郎は困ったように笑った。