愛情と食欲
空腹は最高の調味料だなんて、馬鹿なことをいったやつはどこのどいつなんだろうと、承太郎は目を瞑ったまま思った。思考と呼ばれるほど理論だった考えはもう出来なかったので、それは泡のように次々と浮かび上がるただの感情に過ぎなかった。横たわるリノリウムの床は冷たくて、固い。まるで学校の廊下のように埃っぽい気がするが、それを気にする気持ちにも今更なれなかった。うつぶせでただ息をしているだけだ。 人間は生きているだけでエネルギーが要るものなのだと知ってはいたが承太郎は改めてそれを実感していた。息を吸って吐くその作業一つ、だるい体を動かして仰向けになろうとするその動作一つ、視界に入ってくる情報をより分けるその思考一つが彼から気力を奪っていった。もう系統だった思考は出来ない。いや、できるけれど、それが本当に成り立っているかを確かめることが出来ない。 部屋は明るい。真っ白な蛍光灯が接触不良を起こしてずっとちかちかと瞬いている音が聞こえる。そういえば、この前花京院は蛍光灯を持ってこなくちゃと言っていたような気がする。昨日だったか、一昨日だったか、それとも今日の朝のことだろうか、記憶の順序が幾分かごちゃごちゃしていて、昨日と今日の出来事の違いがよくわからない。 承太郎は必要以上の気力で瞼を開けた。真っ白な床が蛍光灯の光を鏡のように反射して承太郎の瞳に光を投げ込んでいる。ちかちか、ちかちかと、事象を区別し吟味する大切な機能が悲鳴を上げて今ならあっという間に甘い言葉にだまされそうだ。脳みその裏までその光が差し込みそうだ。床からは銀色のベッドのパイプとそれに繋がれた鎖が見える。 それと、花京院の革靴が見える。 「おはよう、承太郎」 花京院はにこにこと、片手にコップを持ったまま立っていた。壁は白く、扉も同じ白で、内側にノブも何もないから承太郎はいつも花京院が空間を切り取って現れたように思える。 「今日で何日目か、わかる?」 幼い子供に言い聞かせるような優しい声音だった。何日目ってなんのだ、と承太郎は胡乱な目つきで花京院の靴を見ていた。黙っているぼんやりしていると花京院はため息をついてしゃがみこみ、承太郎の肩をつかんで仰向けに転がした。承太郎は抵抗するでもなく大人しく仰向けになった。ちかちかと瞬く蛍光灯の目の痛さといったらとやはりぼんやりと考えた。 「くちびる、乾いてるね」 花京院は湿った指先で唇をたどる。指は暖かかった。空いていない手で掴んだコップの水が揺れている。ゆらゆらゆらゆらと揺れ続けて、光を反射している。どうしてこんなになにもかもまっすぐに届くのだろう。普段光に触れないところまで、容易に入り込まれる。 花京院は穏やかに微笑んでいる。承太郎はあんまりにもだるくてただ瞼を下ろしたかった。眠くはないが、余計なことを考える気力もなにもかもがもうないのだ。人は簡単に衰弱する。体が冷えて、寒さを堪えられなくなり、視界も思考も霞がかる。花京院は面白そうに、ぺたぺたと頬や指先を触っている。 「冷たいね、お腹が空くと体温が下がるって本当なんだね」 「…俺は」 モルモットじゃない、と答えた声は掠れていた。喉が渇いて、そうだ、最初に抜けるのは水気なのだ。花京院は楽しそうに答える。 「もちろん、承太郎はモルモットじゃない。知っているさ」 花京院はしゃがんだまま、床にコップを置いた。水だけが七分目くらいまで入っている普通のコップだった。あれを見るのは何回目か、頭の中でリズムよく何かが問う。そして答える。多分、そうだ、七回目。 「七日、目」 唐突なその言葉に花京院はすこし目を丸くして驚いて、すぐに納得がいったようでしたり顔で頷いた。 「そう、七日目。何もしなくて暇だったろう」 何か食べたいものはあるかい?と花京院は聞く。反射的に承太郎は食べ物を思い浮かべる。今だったらなんだって食べられるに違いない。どっかの馬鹿が言い残したことは頭にくるが正しい。空腹は最高の調味料だ。喉がなって、承太郎は自分に胃があることを思い出す。強くそれが収縮して、しかし鳴るほどに胃に残っているものなどありはしない。 胡乱な目つきで承太郎が花京院の顔を見ると、彼の瞳は乾いているというのに、喜びに潤んでいる。 「何も食べなくてお腹が空いたろう」 嬉しそうに花京院は頬に手を滑らせる。そこは乾いて冷たい。花京院の手は湿って暖かい。するりと花京院の袖からハイエロファントが見えた。細くひも状になっていて、承太郎の右腕を捕まえて引き上げる。じゃらりと、足首からつながる鎖がなった。抵抗する気力もなくただ吊るされるようになって、肩がいたいと思った。花京院は、いつの間にか立ち上がっていて、承太郎の顔はちょうど花京院の首辺りだ。白い筋ばったその喉が上下する様が美味そうだった。 「承太郎」 甘い声だ。鼓膜の裏側からくすぐられるような、そんな声だ。だるい体で見上げると、花京院の顔は思いのほか近くにあった。彼はもう一度承太郎、と名前を呼んで、額に口付けた。 瞳に、頬に、首に、鎖骨に。ぼんやりとした思考とは引き換えにただ本能のみが暴走している。触覚が鋭くなって、柔らかい唇にただ食欲が刺激される。ぞくりと走る震えが、何に起因するものなのか、混同しそうだ。してはならない。そうなれば。 「承太郎」 きっと取り返しがつかない。 唇の上に重ねられて、自然口が開いた。生きた肉の匂いがする。かすかに甘い。肉の甘さだ。喉がなって、入り込んでくる柔らかい舌を喜んで歓迎してしまう。喉の奥まで飲み下したくて、思考が霍乱する。肉だ、甘い。脳みその裏まで支配される。 「…ん、ぁ」 だめだ。 花京院が猫のように目を細くして、笑っている。唇がゆっくりと離れて、冷たい空気が入り込む。何も入っていない腹の空虚なそれ。名残惜しいとおもうのは何のための感情だ。思考が筋道だっているのか、もうわからない。首がもう頭の重さを支えきれずにがくりとうなだれる。花京院は我慢できないように、喉の奥からくすくすとした笑い声をもらす。 「承太郎、なにか」 食べ物を持ってきてあげるよ、と花京院は言った。承太郎のうなだれた視界には、いつの間にか倒されたコップが目に入った。 |