1989の空白





 部屋はとても綺麗だ。なんでもある。柔らかなベッド、テレビ、冷蔵庫、頼めば本なんかいくらでも持ってきてくれる。映画が見たいといえばDVDを借りてきてくれる、勉強がしたいと言えば教材だって取り揃えてくれるし、彼は頭がいいから彼自身が教えてくれることだってある。マホガニーの重厚な机、書き味のよいペンやエンピツ。絵が描きたいといえば絵の具だってキャンバスだって、なんだって用意してくれる。外が見たいといえば、窓のある部屋へと。
 その窓からいろんなものが見える。空ばかりだけど、綺麗な空だ。毎日あけてくれて、色を変える。星が光り、月が覗く。太陽は熱を吐き出して、日差しはゆっくりと傾く。風も入ってきて頬を撫でる。窓には何の意味もない鉄格子が、はまっているけれど。
 そうして今日もまた君が、すこし顔色の悪くなった顔でやってくる。瞳だけがらんらんと輝いて日に日においしそうになるんだ、それは少しだけ、ハイエロファントに似ている。
「おはよう、承太郎」
「…あぁ…眠れたか」
 承太郎はいつも、朝ご飯をもってやってきてくれる。何が食べたいかと聞かれていたから、朝はご飯よりパン派と答えたらちゃんと用意してくれた。朝はご飯がスキだって言ってたからきっと別にわざわざ用意してくれているんだろう。
「うーん…なんかさ、人間のサイクルって本当は二十五時間なんだって。今、夜間型らしくて、あんまり夜は寝てないな。もう少しすると眠くなると思う」
 笑うと承太郎も笑う。花京院はなんだか嬉しくなって、またさらに笑みを深くする。
「そうか」
 承太郎はそういって、テーブルに朝食を置く。きっともう彼は食べてきているのだろう。日の傾きを見れば、時間は多分八時くらい。陽の長さからなんとなく時間がわかるようになったし、テレビをつければ孤独は多少癒える。なにがどうということもない閉塞した部屋も花京院にとってあまり苦にはならない。
 口にするパンは作りたてのように暖かくて美味しい。
 花京院が笑うと承太郎も笑った。端正な顔をほころばせて、目がいっそ大きく見える。苦にならないなんて、それは嘘だ。辛い。とても怖い。いますぐ承太郎を突き飛ばして、外にでたい。裸足で土を踏んだり、承太郎以外の人間と話をしたい。でもきっと、と花京院は思う。
「承太郎…」
 承太郎は優しく答える。
「なんだ?」
 そんな事は出来ないだろう。あのときのように、目の前でうずくまられるのはごめんだ。ハイエロファントを使ったらもしかして、承太郎が寝ている時間だったら大丈夫かも、もしかして自分が出て行っても彼だったら。いくつもの仮定はたった一つの過去の打ち破られる。
 そして僕はおそらく、承太郎を愛しているのだ、多分。
 眠くなってきちゃったよ、と囁くと、承太郎は嬉しそうに笑う。顔色は悪くて、いっそもう白い。眠気に引きずられて寝たら、目が覚めたときは夜だろうな、ぼんやりする意識で花京院は思う。

 1989年のエジプトで花京院典明の死体は発見されなかった。大量の血痕と、タンクに空いた穴、破壊された時計塔が彼があの場にいた証であり、そしてそれは一月もしないうちに跡形もなくなった。空条承太郎とジョセフ・ジョースターは花京院典明を最初の航空機事故で行方不明になったものとする事にした。日本でそのように取り計らい、七年たてば花京院典明は書類上では死亡する事になった。誰しもが彼の生存は絶望的だと思っていたし、流れる年月がその思いをさらに強固にした。なにせ戦った相手はあのDIOで、死体が跡形もなく消えるのだって別段不思議ではないからだ。
 けれど花京院典明は生きていて、何年ぶりかに回復した体でひょっこりと空条承太郎の前に姿を現したのだった。それはおりしもポルナレフとの連絡が取れなくなった頃のことで、ジョセフ・ジョースターはぼんやりとぼけはじめていた。花京院は承太郎との再会を喜び、承太郎もまたそれをひどく喜んだ。二人は夜中まで酒を空けて、花京院は全く陽気に酔いつぶれた。
 そうして目が覚めるとそこはただ生活するためだけにある、独房のような部屋だった。
 どうしてこんなことを、と花京院は承太郎を問い詰めて、ここから出せと詰め寄った。なるべくならば僕がスタンドを使わないうちに、どうか君のその手で出してくれと詰め寄った。承太郎は仕方なさげな顔をしていた。困った顔をしているようにも思えたが、花京院の思う承太郎と現実に彼の目の前にいた承太郎とはもう実際のところ大分乖離していて、彼は承太郎が何を考えているのか、本当のところがわからなかった。
 花京院はただ棒のように佇む承太郎のコートに半ば縋るように掌を押し付けて、頼むから、と繰り返した。僕が君に失望する前に君のその手で扉を開けてくれと。
 エジプトから空白の月日。ある年の春はそうして始まった。倦怠の幕開け。

 花京院はその日々を受け入れる自分に戸惑っていたし、承太郎は承太郎でそれを花京院に受け入れさせる自分に戸惑っていた。彼が生きていたならそれは喜ばしいことで、飛行機事故で行方不明になった息子さんは実は記憶を失って生きていて最近やっと記憶が戻ったのでこうして日本に戻ってきた、と言って連れて行くべきなのだとわかっていた。
 あの旅の最後、承太郎はあらゆるものを失って、失うことは当然だったのだと考えていた。そうでなければ、DIOは倒せなかったのだろうとわかっていた。だからアヴドゥルやイギーや、花京院の、あっけない死を受け入れた。肯定した。そうすることが当然だと思ったからだったし、それに対する是非もなにもなかった。そこにはただ乾いた事実だけがあり、問答無用で飲み込むしかなかった。
 ジョセフが生き返ったことは、それらしく大仰に言えば彼の救いだった。
 扉にはいくつものかけても意味のない錠がかけてある。ハイエロファントででようと思えばいくらでも出られるだろう。ただその十を越える数の錠をひとつひとつかけたり外したりしていると妙に心安らかな気持ちになった。
 部屋は観葉植物が持ち込まれ、鉄格子のはまった窓からは陽が差し込んできている。花京院はソファに座って本を読んでいた。承太郎がやってきたのに気がつくと本を床に落として、拾ってよ、と呟く。
 承太郎はだまって拾う。扉は開け放したままだ。床に落ちた本を花京院に手渡すと花京院はすこし眉をひそめた。困ったような顔をしている。
「逃げたいな」
「逃げればいい」
 間髪いれずにそう答えた。花京院は少し驚いた顔をしている。承太郎はいつだって、花京院が逃げればいいと思っている。自分を突き飛ばして、その足で扉へかけて行けばいいと思う。まさかきっと自分はスタンドを出してまで、彼を止めないだろう。扉は開いている。
 いいや、本当は、彼を逃がすべきなんだと知っているし、そうしたいと願っている。
「どうやって?」
「扉は開いているんだ」
 花京院は首をかしげる。
「君は、何がしたい」
 承太郎は口を噤む。花京院は、おそらく何を言っても先を言わないであろう承太郎に眉をさらにひそめた。承太郎はいつくしむように目を細めた。口がゆっくりと開いて、承太郎の動作に花京院はとまどう。
「お前に、生きていてほしいだけだ」
「なら、その願いはもう叶っている。僕は生きている。そして生きていく」
 それがきっかけだったのだろう。花京院はソファから立ち上がって、ゆっくりと歩き出した。本をテーブルの上に置いて、そのまま承太郎の横をすり抜ける。承太郎は本当に花京院を止めなかった。
「靴なら、玄関に」
「親切にありがとう、承太郎」
 それは嫌味ではなかった。ただ短い期間の、このなんら意味を伴わない監禁の意図だけを知り損ねていてそれを諦めるための言葉だった。承太郎の語尾は奇妙に震えて弱く、それは花京院の記憶の中にある承太郎とは違っていた。
 ブァンと、鼓膜を殴るような不快な音がして扉の前にスタープラチナが現れる。がたん、と派手な音がして背後で何か倒れる音がする。
「承太郎」
 花京院は、承太郎が何かに当り散らしているのだろうと想像して、ひどく傷ついた気持ちになっていた。振り向く事が出来ないまま、名前を呼ぶと承太郎らしくない喉の奥で殺したような笑いが帰ってきた。
「…承太郎…!」
 花京院は意を決して目を瞑って振り返る。そうしてゆっくりと瞳を開けるとそこには想像とは幾分違った情景が繰り広げられていた。承太郎は膝をついてうずくまっていた。喉の奥でかみ殺したようなそれは笑いではなく、乱れた呼吸で、ただ呆然と花京院はそれを見つめた。
 驚愕ばかりが襲ってきた。その間も承太郎は胸に手をあてて、ひどく苦しそうな顔をしていた。そうして扉の前に立ちはだかるスタープラチナが薄れていくのを見つけて、笑って崩れ落ちた。
 花京院は途方にくれて、いつか縋った承太郎のようにただ佇んでいた。エジプトからの空白。彼は傷いたのだろうかと、ぼんやりと思った。自分を、外に出せなくなるまで?
「まさか」
 呟いた言葉は乾いている。その問いに答えを返すものは誰もいない。

 まるで欠けてしまってもう二度とかみ合わない歯車のようだと花京院は思う。あの時から逃げる気力を花京院はすっかり失ってしまって、なにかきっとあれば承太郎が扉を開いてくれるのだろうと思考を放棄した。承太郎をいたずらに傷つけたいわけではない。人生を台無ししてもいいくらいには思っているのだ、これでも。
 あの十を越える錠をあけたり、あるいは閉めたりしながら、承太郎は自分を逃がすことを考えているのだろう。閉じ込めたその手で、けれど切実に。その度にあの日のように崩れ落ちそうに、なったりしているのだろう。
 眠気から浮かび上がって窓を見ると星が見えていた。承太郎はソファで本を読んでいるようだった。あの日読んでいた本は本棚の一番下に置かれている。おはよう、承太郎と言うと、承太郎はあぁ、と返した。
 鉄格子の向こうから星の光が透けている。
「承太郎、こんな話を知っているかい?」
 眠気交じりのぼんやりとした声のまま、花京院は喋る。承太郎は本を置いて花京院の顔を見ている。
「二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めた。一人は泥を見た」
「一人は星を見たんだろう」
 その答えに花京院は、すこし驚いて笑った。
「なんだ、知ってるのか」
「昔、じじぃから聞いたんだ」
 ジョースターさんから?と聞き返すと、最近はボケ気味だがな、と答えが返ってきた。窓からはひゅるひゅると生暖かい風が入ってくる。
「君はどちらを見ている?」
 花京院の疑問に承太郎は笑った。そうして答えない。扉は開いている。いつでも花京院はその足で立って、扉まで行くことができる。スタープラチナが出てきても素通りする事だって出来る。
 承太郎は言わない。出て行かないでくれとか、このままここにいろとか、縋りもしない、と花京院は思う。倒れた承太郎を放ってあの日、出ていったって彼は自分を責めたりしなかっただろう。
 それが出来なかったのだから、もうここから出る術はない。承太郎が自分を閉じこめずにはいられないのと同じくらい、もう彼の前から消えることが出来ない。
「それとも、看守がやってくるのを待っているのか?」
 承太郎は答えないまま、仕方なさそうに笑っていた。存在しない空白のように、なにもかもを元に戻すなんて到底不可能だ。承太郎の瞳だけが星のように輝いている。