彼の平らな憂鬱







 井戸の中の、暗闇があるのだ。まるでマジックペンで一心不乱に塗りつぶしたような、平坦な暗闇だ。俺は昔そこには何もないと思っていた。ただヘドロのように混沌とした怒りや嫉妬や、不条理を嘆く耳障りな声、が渦巻いて煮込まれているのだと思っていた。
 金髪の彼女は言ったんだ。いやね、アナスイ、貴方を愛しているわ、ただの遊びよ、わかって、お願い。彼女はベッドの上で泣いていた。綺麗な金髪を振り乱して、井戸の底に湛えられている水みたいな青い瞳から塩辛い涙を幾筋も幾筋も流していた。そんな彼女を愛していたのは俺だし、それにそんな彼女の姿に心が動いたのも事実だった。
 でもだめだ。彼女の手は俺の知らない男と絡まり、彼女は俺のしらない男を受け入れ貪ったんだ。だから、もしも俺に許してほしいならば、ばらばらにならなければ。そうだ、二度と、誰ともくっつかないように。
 彼女の腹をあけて、臓物を分けて、あばらに付いた肉をそぎ落とし、ブルーグレーの肺を切り分けたところで俺ははたと気づいた。しまった、これじゃあ、彼女は俺とさえ絡まれなくなるじゃないかって。
 だから俺は、心の中の井戸の暗闇に彼女を放り投げた。あっさりとしたものだ。元々井戸水のような女だったから良いのだと思った。それにこの井戸には底がない。奥がない。誰にも見つからない。
 俺は笑った。自分は間違っているが、しかし正しい気もした。世間が俺と会わないのなら、それは仕方のない事だ。刑務所の中で、俺は女の事を思い出すことはなく、ただ俺を知る人間が、あんたこんなことで放り込まれたんだって、といわれるときにだけ、彼女を思い出した。

 そうして俺は思い知る。井戸は浅く、腐敗して、今まで俺が犯した愚かな間違いがぐずぐずと井戸水と溶け合っていたのを。心の中の底の底まで照らす小さな光に出会った。彼女の名前は徐倫。空条徐倫。
 それは本当に小さな光で、けれどポラリスのように揺るがなかった。彼女といると俺は自分の屑みたいな心に、一筋の光が差すのを感じることが出来た。自分が願える幸せや、自分の目指せる暖かさが、あるのだと信じることが出来た。
 彼女は言ったんだ!
 えぇ、アナスイ、いいわって。
 だから俺は、彼女の為に指輪を買った。一度、ワニの腹の中に飛び込んで消えてしまったから、彼女の為に指輪を買うのは二度目だったけれど、一度目よりも狼狽し、吟味し、買った。彼女の瞳と同じ色の小さな青い宝石が付いている。
 俺は彼女が好きだといった海の前で、真っ白い砂浜を夕焼けの光がクランベリーソースみたいに染める時間に、彼女の目の前に跪いて指輪を差し出した。徐倫、君に、伝えたいことがたくさんあるんだと。
 彼女はその言葉を聞いて少しだけあどけない顔をして、そしていたずらっ子みたいに笑った。口を尖らせて、けれどその青い瞳だけは柔らかくて、本当に可憐だった。美しく、優しかった。徐倫は跪いてる俺の前でしゃがんで、あの時と同じ台詞をいった。えぇ、アナスイ、いいわって。
 俺は震える指で指輪を取って彼女の指に通した。夕焼けの光を通した宝石は紫色みたいに見えた。俺は自分の心の中の星が一際輝くのを感じる。井戸の中をひっそりと光らせて、ヘドロみたいなそれさえ無駄ではなかったのだと思わせる、清らかな光。

「アナスイ、何を言ってるの」
 黒光りする子機を肩に挟みながら、彼女は美しく笑う。ベッドサイドの柔らかな明かりが彼女のうつくしい頬や鼻や、色っぽい唇を照らしている。
「徐倫、俺だってたまに不安になるんだ」
 俺の言葉に徐倫はいっそうおかしそうにくすくすと笑った。
「それにしたって、その質問はないでしょう。父さんとアナスイ、どちらが大事だなんて」
 彼女は自分の父親と、ずっとずっと仲が悪かった。愛されていなかったと、思っていたと何かの拍子に話してくれたことがある。けれど違うのだとわかったのだと、父親は私をそれこそ海のように愛してくれたのだ知ったと彼女は夢のように語ったのだ。
 嬉しかった。まるで私が世界中から祝福されているみたいだった。
 俺はとても納得がいかなかった。だって彼女のその顔はまるで恋でもしてるみたいだった。それに彼女の父親は、彼女をかげながら溺愛していて、なんていうか二人でいると彼女の父親の外見が若いのも相俟ってまるで恋人同士みたいだ。(それにしたって、彼女の父親の若さには恐れ入る。東洋系って怖いぜ!)
「だって、徐倫」
 そういいながら、俺は徐倫の指に口付けた。含んでゆるく爪をかむ。徐倫はくすぐったそうに笑っている。ゆっくりと口から指を抜いて、彼女は不意に身をかがめた。指輪を渡したあの日の海のような、綺麗な瞳が輝いていた。
「私が好きなのは貴方よ、アナスイ」
 ちゅ、と湿った音と、軽い感触。徐倫!と俺は感動して、彼女を抱きしめようと腕を広げた。彼女はまるで聖母様みたいに微笑んでいる。美しい顔だ。俺は彼女を愛している。その頬に唇を落とそうとした瞬間。
「あ、父さん?繋がってよかった。今、平気?」
 彼女は電話が繋がったことをそれこそ、死刑囚が生き返られたくらい喜んで(いるように俺には見えた)、すっとリビングのほうへ行ってしまった。俺は手持ち無沙汰に広げた手をなんだかひどくしょんぼりした気分で下ろして、呟いた。
「大事なのって結局どっちなんだ?」
 君の美しい、清らかな言葉を信じているけれども、徐倫!俺は少し不安だ。君の嬉しそうな、会話が漏れ聞こえる。

「…なんでもないわ、父さん。そうそう、今度報告することがあるの」
 徐倫は、うなだれているアナスイを見て、笑いながらそう言った。