ステアウェイトゥヘヴンインザマッシュルームサンバ
耳の奥、三半規管がしんと鳴っている。深海のような冷たさと静けさに震えているのを感じながら、承太郎はゆっくりと瞼を上げた。ぽつねんと、承太郎は一人暗闇の中で立ちすくんでいた。暗闇はわずかに青味がかって、光がわずかしか届かない海中にも思える。唯ひとつ、彼の前には長くどこまでも続く階段がかけられていた。 階段は錆びかけた鉄製のもので、光るものの殆どないその場所で、どこから差し込んでいるのかわからない光に反射してうっすらと光っていた。承太郎は首をかしげて辺りを見回すが、しかしどこまでも果たしなく登っていくように思えるその階段以外は何も見えず、また見つけられなかった。スタープラチナ、と呼んでみても声は暗闇に吸い込まれ、慣れ親しんだスタンドが出てくることはなかった。 記憶が曖昧だった。どうして自分がここにいるのかを、承太郎はよく思い出せず、また理解できなかった。何か大事な事を忘れているのだが、それを思い出そうとすると頭の後ろがひどく痛んだ。やれることはどうやら一つしかないようだ、と承太郎は霧と痛みの晴れない頭でぼんやりと考えて、その階段を登ることにした。特別に洒落っ気のないそれは踏み出すとかつんと思いのほか大きな音を立て、だというのに暗闇に抱き込まれて消えていった。佇む場所の広大さと、暗闇の近さに承太郎は少し背筋が冷える。 歩いても歩いても、進んでいるのか定かではない。そもそもどうしてこんなことをしているのかと承太郎は幾度か考え、そしてほかにする事がないからだ、と結論付けては黙って歩いている。 かつん、かつん、とわずかずつ音程を変えて、音が響く。そうしてすぐに暗闇に抱き込まれて消えていく。わずかに青い暗闇と、薄くひかる階段以外の何も見えない。ほかに視界に入るものといったら自分の靴のつま先だけだ。 「ここは、天国への階段だぜ」 ふと声がした。階段の真ん中で、鼠が緑色の宝石のようなものを抱えていた。鼠はせわしくなく髭をひくつかせながら、姿には似合わない低い、よく通る声で付け足した。 「兄ちゃん、このまま進むと、あんた死ぬぜ」 承太郎は立ち止まり、しかし何かを喋ることもなく、一度だけ振り向いた。承太郎の後ろにはどこまでも下がっていく階段が見え、出発点はもはや闇に飲み込まれて見えなかった。彼は前を向き、鼠を見て、そして何も言わずにまた歩き出した。 鼠は髭をやはりせわしなく動かしながら、肩をわずかにすくめた。 「まぁ、好きにするといいさ、俺は止めたからな」 うっすらと暗闇の質が変わったような気がした。目の錯覚が幾度もおこって、ついには記憶に残らなくなるほど長い時間歩き続けたのか、それとも実際に変わったのか、承太郎には判断が出来なかった。 なんだか歩くのに気づかれをしてしまって、ぼんやりと立ちすくんだ。相変わらずどうして自分がここにいるのか、記憶は定かではなく、思い出そうとすると頭が痛んだ。スタープラチナは出そうと思っても現れなかった。元々突然身についた能力だ、突然消えているのも道理なのかもしれないと思い、承太郎は目を閉じた。 体にずっしりと重力がかかる。ここにいるとひどく寒くて、まるで体が凍っているような気がする。頭の痛む箇所を誰かが後ろから引っ張って、くんと、どこまでも落ちていきそうだ。三半規管がしんと冷たく震えている。 「ダメだよ、承太郎」 唐突に降ってきた先ほどとは違う声に承太郎はゆっくりと瞼を開けて、そうして少し驚いた。承太郎の目の前に、正確に言うならば彼の立っていた五段ほど上に、膝を抱えてしゃがんでいる見慣れた男の顔があったからだった。 「花京院…」 「いやぁ、久しぶりだね、承太郎。それにしても、君は年をとらないねぇ」 そういってけらけらと笑う花京院は、顔色が少し悪い以外は承太郎の記憶と何一つ変わらなかった。花京院は首までぴっちりと学ランをしめて、チェリーのピアスをして、大きな口をゆるめて笑っている。今、いくつだったっけ?と脳天気にも付け加えた。 「ここはね」 花京院は、立ち上がって階段をゆっくり下りて、承太郎の前にたった。段差のせいで、承太郎と花京院の顔は記憶よりも大分近くなっている。 「本当に天国への階段だから、登って行ったら君は本当に死んじゃうよ?」 せっかく、娘が頑張ってるんだからさ、と冗談めかして花京院は言って、承太郎の胸をとんと押した。突然感じた痛みに、胸を見ると、銃痕のようなものが胸の真ん中にあった。 「あぁ、そうか」 承太郎はそれを見て、ため息のように静かに答えた。自分はDISCを抜き取られて、肉体は死んでいるのだった。承太郎はぼんやりとその事実を、あまり現実感のないままに受け止めた。花京院は騒がしく、そうそう、と頷いている。 「そう、君の肉体は時間が停止してる。傷は悪化しないけど、治ることもない。超常現象部門を構えているSPW財団には感謝をしなくちゃね、博士」 博士、と呼びなれた名を花京院に呼ばれることに承太郎は違和感を覚えたが、花京院はまるでそう呼ぶのが常であったように自然だ。えらく機嫌もいい。 「進んじゃあダメだよ。本当に死んじゃうから。そりゃあ、君と毎日会えるなんて誘惑に負けそうだけど、でもダメだ。君は娘のところに戻らなきゃ。彼女が君を生き返らせるまで、一緒にいてあげるから」 花京院、と承太郎は呟いて歩を進めた。勢いを失った血液が、胸の傷から涙のように垂れて、それを見た花京院は目を細めたが何も言わなかった。花京院は腰を下ろして、座れば?と言いながら、掌で階段を叩いた。ぃん、と何かがふるえた音がするのを耳にしながら承太郎は花京院の言葉に従って座った。 花京院は膝を抱えて笑っている。承太郎は、それを横目で見ていた。 「天国っていうのは随分、不親切なところなんだな」 承太郎の言葉に、花京院は笑う。いっそ不自然なくらい陽気に笑い続けている。花京院の体の真ん中にぽっかりと穴が開いたままで、青味がかった暗闇と空から垂れる蜘蛛の糸のような階段が見える。 花京院は血の気のない顔で手をゆっくりと何もない腹部にあてて、しばらくさまよわせた。 「そうかな、でもなくても何も困らないからね」 そうか、と承太郎は呟いて暗闇をただ見ていた。ゆっくりと何度か瞬きをして、そのまま目をつぶる。花京院は目を開いて、暗闇を見る承太郎の横顔を見ていた。 「話を」 話をしてよ、と花京院は呟いた。 「聞いてない話はたくさんありそうだ」 厄介なことに巻き込まれている今の話でも、君の人生でも、あの旅で仕切れなかった話の続きでも。 花京院が喋り続ける。承太郎の耳の奥は、ずっとしんと静寂に震えている。氷のように体が冷たく、青味がかった暗闇は深い海の水のように見える。感覚がなにもかも海水にさえぎられていて、鈍い。 「承太郎?どうかした?」 「…いや」 なんでもない、と笑う以外に何も出来ないほど、時間が流れているのだと承太郎は暗闇の底でぼんやりと思った。 |