かわいそうな人







 電話の横に、写真が立てかけてあった。黒い飾り気のないフレームには、女の子とその母親らしき女性が満面の笑顔で映っている。水族館の、イルカのショーの前で、振り上げた手はやわらかそうだし、精一杯上げられた頬はかわいらしく、ばら色に輝いている。仗助はそれを見ながら、なにやら先ほどから文献に没頭しっぱなしの承太郎に声をかける。
「これ、娘さんの写真っすか?」
 娘の、という言葉が耳の端にひっかかったのだろう。承太郎はふっと本から目を離して、仗助のほうを向いた。なんだ、と問いたげな目をしているので、仗助はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「娘さんの写真ですか?」
 電話の横の写真を指差しながらそう聞いた。その隣には、承太郎の今よりか幾分若い姿の写真がある。砂漠かなにかで撮られたようでずっと砂が広がっている。銀髪の男に、どうみてもイスラム圏の人間、ジョセフと犬、承太郎の横には同い年くらいの男が立っている。昔吸血鬼を倒したのだとか、そのときの写真らしい。
 そんな事を考えながら写真を見ている仗助に、承太郎はふっと笑った。滑らかな動作で机の上に本を置き、ベッドの上で寝転がりながら写真を見ている仗助の傍までやってくる。
「そうだな、似てるか?」
 わずかにほころんだ目元が、いっそうこの人の愛しさみたいなものをあふれさせている、と仗助は思う。彼はあまり表情の動かない人間だというのに、柔らかな所作はひどく慣れたもののように感じられた。きっとこの写真を見るとき、このような表情をいつもしているのだろうと仗助は推測した。
 仗助はぼんやりと頷きながら、目元とか、似てますね、と答えた。本当はあまり似ているところが見つけられなかったのだけれど、それはきっと写真だからなのだろう。写真というのは妙に生気を奪う。動いてはしゃぎまわっている姿を見たら、結構似ているような気もする。
「いま、いくつっすか?」
「そうだな、六歳、だったか」
 かわいいですね、と呟くと、承太郎は柔らかな雰囲気で少し笑った。きっと嬉しいのだろう。相当溺愛してるみたいだ、と仗助は承太郎の、あまり見ない嬉しそうな雰囲気に戸惑う。父親に、娘っていうのは、やっぱり弱いものなのかもしれない。祖父も母親にはえらく甘かったしな、と遠い記憶のように思い起こした。
 この間、帰ったときはもうこんなに大きくなっていて、とあまり喋らない承太郎が手を横に広げながら、おそらく娘の身長がそれくらいなのだろう、話していた。
「娘さん、名前なんていうんですか?」
 うん、と答えるように告げられた名前は、言葉そのものよりも彼の声音のほうが優しげだ。でも承太郎が電話を彼の家庭に滅多にかけないのを、仗助は知っている。

 お邪魔しました、と思いのほか礼儀正しく頭を下げて仗助は帰っていった。それを見届けて、承太郎は黙って写真を見つめていた。ベッドの上でずるずると彼らしくないだらしなさで目を瞑る。
「電話をすればいいのに」
 声にこたえて目を開けると、半分透けた男が浮いている。顔が近い、と文句をつければ素直に聞いて、ソファへと移動した。
「今、アメリカは真夜中だ」
「きっと君の娘は、電話を待っているさ」
 それに、と男は目を細めて笑う。そんな問題じゃあないんだよね、と何もかもわかった顔をしている。
「電話をしても、帰れない事を告げるだけになる」
「それでも電話はくるでしょう?」
 君の奥さんからの、と男は囁いた。まぁ、どうして帰ってこないのかっていう追求の言葉だけかもしれないけど。
「責められる言葉を避ける君じゃあないし」
 承太郎はその声を聞きながら瞼を下ろした。眉間に皺を寄せて、そのまま睡魔に引きずられたいような気さえする。
「…花京院」
 もう何年も前にエジプトで死んだはずの男が、ふわふわと笑う。
「あんなに嬉しそうに語るくらいならさ」
 花京院は、その言葉の先を言わなかった。そのほうが面白いことになるのだと知っているからだ。ソファの上で膝を抱えて、まるで漫画でも読んでみるみたいに馬鹿笑いしている。
「君が、徐倫の背を示すとき」
「花京院、てめーは」
 電話の横に写真が立てかけてある。黒いフレームの地味なもので、中では母親につれられた子供が嬉しそうに写真に写っている。繋がれた手はちょうど腰の位置。きっと母親だったら、もうこのくらいになったのと、腰の辺りで掌を下にして言うだろうに。
「腕を横に広げるのは、眠った姿しか記憶にないからなんだろう?」
 沈黙だ。スタンドでも幽霊は殴れないのだ、承太郎はもう知っている。息を吸って、細く吐いた。
「何がしたいんだ」
 承太郎の言葉に、花京院はつまらなそうに、別に、と呟く。ふわふわと歩きもしないでサイドテーブルに近寄り、十年も前に撮った自分が映っている写真を手にとって乾いた瞳で笑っている。
「ただ、ね」
 花京院は承太郎の頬に指を滑らせた。ひやりと冷たい空気がながれて、ぞくりとうなじがあわ立つ。目を開けてよ、といわれて素直にあけるとやはり花京院は嬉しそうだった。
「君は、かわいそうな人だなぁって」
 思っただけさ。

 かたん、と写真立てがテーブルから落ちる。絨毯じきのホテルの部屋は、音をやわらかく吸収して落ちているのかどうかさえ目を瞑っていたらわからなそうだ。承太郎も花京院も落ちた写真を見ているだけで、それを拾おうともしない。